25歳になったころに、転勤で福岡に行く事になった。
当時の福岡は、田舎育ちの僕にとってはまさに「音楽天国」
毎週土日は、レコード屋や大手外資系CDショップにて猟盤を行うのが常だった。
ある時期まったく日本の音楽を聴かなくなった。
今から考えると20代半ばの若造の偏った音楽感がそうさせていたのかもしれない。
そんな時、あるレコード屋で「HOSONO HOUSE」収録の「恋は桃色」が流れて来た。
当時カントリーに傾倒していた時期でもあったので、細野氏の奏でる音楽がストレートに
胸に飛び込んで来た。
「お前の中で 雨が降れば 僕は傘をとじて 濡れて行けるかな」
この一節を聴くと、今でも胸にこみ上げるものがある。
日本人であり、日本語の大切さ、わびさびを再確認した瞬間でもあった。
数年後、訳あって福岡を去り、故郷に帰ることになる。
あんなに洋楽にこだわっていた僕が、初めて真剣に作った自作アルバムの歌詞には
まったくと言っていいほど横文字が出てこなかった。
あのときの「恋は桃色」の衝撃がきっとそうさせたのだろう。
今でも苦手な作詞ではあるが、日本語にこだわり続ける自分がそこにはいる。
当時の福岡は、田舎育ちの僕にとってはまさに「音楽天国」
毎週土日は、レコード屋や大手外資系CDショップにて猟盤を行うのが常だった。
ある時期まったく日本の音楽を聴かなくなった。
今から考えると20代半ばの若造の偏った音楽感がそうさせていたのかもしれない。
そんな時、あるレコード屋で「HOSONO HOUSE」収録の「恋は桃色」が流れて来た。
当時カントリーに傾倒していた時期でもあったので、細野氏の奏でる音楽がストレートに
胸に飛び込んで来た。
「お前の中で 雨が降れば 僕は傘をとじて 濡れて行けるかな」
この一節を聴くと、今でも胸にこみ上げるものがある。
日本人であり、日本語の大切さ、わびさびを再確認した瞬間でもあった。
数年後、訳あって福岡を去り、故郷に帰ることになる。
あんなに洋楽にこだわっていた僕が、初めて真剣に作った自作アルバムの歌詞には
まったくと言っていいほど横文字が出てこなかった。
あのときの「恋は桃色」の衝撃がきっとそうさせたのだろう。
今でも苦手な作詞ではあるが、日本語にこだわり続ける自分がそこにはいる。