Cape Fear、in JAPAN

ひとの襟首つかんで「読め!」という、映画偏愛家のサイト。

『Cape Fear』…恐怖の岬、の意。

空虚さと、陽気さと―追悼、トニー・スコット

2012-08-21 00:01:00 | コラム
弟より兄のほうが好き―という映画小僧は多いはず、
小僧であればあるほど「その傾向」が強く、なんといってもリドリーは、映画史に燦然と輝く『ブレードランナー』(82)を監督しているのだから。

ただ(これは、あくまでも個人的な評価だが)リドリーによるリドリーらしい快作は『テルマ&ルイーズ』(91)が最後で、
オスカーを取った『グラディエーター』(2000)は悪くないかもしれないが、「らしさ」というものはなかった。
つづく『ハンニバル』(2001)は、いわゆる「キメ」の映像満載だが、それがかえって恥ずかしかった。
少しだけ「お!」と身を乗り出したのは『ブラックホーク・ダウン』(2001)くらいで、まもなく公開される『プロメテウス』も含め、なんというか大作主義に過ぎ、そのビッグバジェット感により「らしさ」が完全に殺されている作品が多くなった。

それでも。
腐っても鯛―という表現はあまり好きではないが、新作がどうであれ、我々は「リドリーだから、、、」と消化してしまう偏愛ぶりで、
それというのも繰り返しになるが、『エイリアン』(79)や『ブレードランナー』を世に送り出した功績からくる幻想を抱いている、、、、そんな風に解釈出来るかもしれない。

CMの世界で脚光を浴びた弟トニーが映画界に「鳴り物入りで」参戦したころ、映画小僧の共通認識は「軽いノリだなぁ・・・兄貴に比べて」というものだった「はず」。

悪くいえば大味で空虚、よくいえば陽気。
芸術性に溢れた兄貴の映画の映像美を軽々と超え、呆れるほどに大ヒットを記録してしまうところも小僧たちの反感を買っていた。

平気でミグを撃ち落すシーンが描かれる『トップガン』(86)の無神経さは、そのままトニーの人格を表している・・・などという暴論さえ聞かれ、これには頷けないところもあるが、
面白くて何度も観返している『ビバリーヒルズ・コップ2』(87)や『トゥルー・ロマンス』(93)は、監督が違っていたら「もっと」面白くなったのではないか・・・という評価は「そのとおり!」だと思った。
とくに『トゥルー・ロマンス』のデニス・ホッパーとクリストファー・ウォーケンの対決は、二大俳優の熱演によって名場面にはなっているものの、トニーの力量そのものは「どうこういうものではなかった」、、、ような気がする。
(敬愛する批評家ピーター・トラバースも、「この極上の脚本が、どうしてトニー・スコットの手に渡ったのか解せない」と評していた)

個人的な評価が変わってきたのは、リドリーに「らしさ」がなくなりかけてきたころ。

95年、『クリムゾン・タイド』の発表。
「潜水艦映画にハズレなし」という映画界の定説を破ることなく、男たちの熱き戦いをきっちり描きこんでみせた。
兄貴の元気がないぶん、都合よく弟に期待をし始める小僧―。

以後、空虚で陽気で、、、という本質そのものは変わらなかったものの、昔のように毛嫌いをすることはなく、トニーの映画を受け入れるようになっていった。

・・・などと記したものの、
兄と弟の比較という視点で論じるのは受け手ばかりで、当の本人たちは同胞という意識以外になく、(バンドのオアシスみたいに)張り合っている、、、という印象は受けなかった。
むしろ誤解を受けるほどに仲がよく、とくに近年は共同で制作活動なども展開しており、もうハリウッドの大御所なんだな、
しかし英国出身であるから、たとえばロンドン五輪が10年くらい前に開催されていたら、ふたりが共同で開会式の演出をしていたかもしれないな、、、と。

それでも神経質な兄と、陽気な弟という印象だけは、昔も今も変わらない。

だからこそ、もしこの訃報が兄だったら、もう少し「自然に」受け入れることが出来たのかもしれない・・・なんて結ぶと、怒る映画小僧も居るだろうか。


トニー・スコット、海にダイブして自死する。
8月19日死去、享年68歳。

遺作は、日本でもスマッシュヒットを記録した『アンストッパブル』となった。

合掌。

追悼の意味をこめて、当時は最先端のお洒落とされていたトニーの編集術を堪能してみようか。

※その一例。
場繋ぎが、いちいち洒落ていた。




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明日のコラムは・・・

『にっぽん男優列伝(164)倉田保昭』

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美少女、うようよ。

2012-08-20 00:20:00 | コラム
※ほんとうはサマソニ観戦記を綴ろうと思っていたのだけれど・・・
いろいろ整理してからアップしたいので、それは後日。

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売れっ子ライターで「あるわけはない」のだが、
鬼畜系の成人雑誌からは、コンスタントに原稿の依頼が入る。

ほとんどは期待の新人AV女優を評してくれとか、注目の美少女タレントについて書いてくれとか、そういう類のもの。
もちろん好きなジャンルだから本気度100で仕上げるが、ロマンポルノの作家たちが「決まり」を守りつつ「自分のやってみたい表現」に挑んでいたのと同様に、AV女優を評しながら映画偏愛「的なるもの」を紛れ込まそうとして失敗したり「たまに」成功したり、、、の日々が続く。

そういう日常を過ごしていると、世界は、自分のほかは、男なんて存在せず、美少女だけで構成されている・・・というような、都合のいい錯覚を抱くようになる。

健全とはいえぬが、毎日ハッピーに過ごせるのだから、悪い環境ともいえない。


そういったコラムで、最近取り上げた、あるいは近々取り上げる予定の美少女は・・・


(1)カブトムシゆかり…トップ画像

ふざけた名前だが、このネーミングだけでどういう子か分かる「カブトムシ」アイドル。
肉づきが「たいへん」よろしい。

(2)橋本愛

女優。
『告白』(2010)ではピンとこなかったが、『桐島、部活やめるってよ』で化けた。

(3)百田夏菜子

ももクロのリーダー。
「茶畑に育てられました♪」なんて歌われたら、そりゃ応援したくなるっしょ。

(4)愛内希

AV女優。
逸材。やっていることは、超のつくハードさ。

(5)渡辺麻友

まゆゆ。


・・・こう並べてみると、典型的なロリコンであることが分かる。


以下は、ブログにアップしたものを雑誌用に再編集、さらに、再アップするために「再々」編集した「映画と美少女」についての文章、、、しかもダイジェスト版である。

なぜ何度も再編集を?

文章のクオリティではなく、露骨な性表現をソフトにするため、、、なのだった。

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3日間で飽きるわけがない、ただひたすら見惚れ、眺めているだけで一生を終えてしまうかもしれない、、、などと思わせるほどの美少女―言葉の持つイメージの強さってたいへんなものがあり、これが「美女」であればなんの問題もなく受け入れられても、一字加えて「美少女」となると、仄かに危ない匂いを放つようになる。
理由はたぶん、ナボコフ(ロリータ)や川端康成(眠れる美女)の小説であったり、実際の事件(宮崎勤)であったり、文化(美少女ゲーム)からきているのだろう。

マザコンやファザコンは許されても、ロリコンは許せない。
それはまぁ、そうだろう。
ただ彼女らを性的対象としてでなく、美の対象としてのみ捉えるのであれば、あーだこーだいわれないはず・・・なのだけれども、それでもなお、言葉の持つイメージというものが誤解を生む。

すげぇな「少」って・・・いやべつに「少」がすごいわけではなく、「美少女」という三文字になって、初めて放つ危ない匂いなわけで。


自分がハッとした、映画のなかの美少女とは―思いつくままに、10本&10人(プラス1本&1人)を挙げてみたい。

※キャラクターとして、5歳~18歳であること
※女優としての魅力より、映画のキャラクターとしての魅力を優先する


(1)主人公ムイ=『青いパパイヤの香り』(93)

設定では10歳。なにも起こらないのに、この子を眺めているだけで飽きない。

(2)主人公エイダの娘フロラ=『ピアノ・レッスン』(93)

演じるアンナ・パキンは、撮影当時10歳前後。

(3)主人公アキラが恋をする、クラスメイトの珠代=『どこまでもいこう』(99)

「男子ってさぁ、、、馬鹿だよね」「うん、超馬鹿」
小学5年生の新学期から始まる物語だから、11歳くらい。演じた芳賀優里亜が、いまパッとしていないのが惜しい。

(4)キャラクター名は「少女」=『肉弾』(68)

大谷直子が裸身を披露している。
性的に興奮するには、眩し過ぎるほどの美しさ。たぶん、高校2年生くらいの設定。

(5)少女娼婦アイリス=『タクシードライバー』(76)

ハッとするというより、絶句する姿。演じたジョディ・フォスターは、撮影当時13歳。

(6)主人公の愛娘=『カルネ』(94)

主人公の強烈なキャラクターの前に影が薄くなっているといえばそうかもしれないが、彼が暴走するのは、この娘の存在があったからなのだ。
初潮が訪れる前後の話だから、10~12歳前後の設定?

(7)ロリータ=『ロリータ』(97)

キューブリック版(61)は、ペケ。エイドリアン・ライン版の成功は、12歳の小悪魔を演じたドミニク・スウェインを発掘したところにある。

(8)小夜子=『ピストルオペラ』(2001)

不思議な存在感を放つ韓英恵がデビュー作として選んだのが、この素敵に狂った(しかも壊れている)作品。
当時、10歳だった。

(9)セーラー服の少女=『酔いどれ天使』(48)

主人公と対になるような形で配置された、病気と闘う少女。
演じた久我美子は、公開当時17歳。

(10)梢=『EUREKA ユリイカ』(2000)

「EUREKA」とは「発見」の意だが、217分の超大作は確かに多くの発見に溢れていて・・・けれども、いちばんの発見は、宮崎あおいだったのかもしれない。
梢は、小学校高学年という設定。

(11)ウルスラ=『魔女の宅急便』(89)

いや、好きなんだ。
実はウルスラの声と主人公キキの声は、同一人物(高山みなみ)だったりする。

~「超」番外~

「つぼみ」「井上詩織」「辻あずき」「三原夕香」・・・以上、AV美少女四天王でした。
もちろん、実際には18歳を過ぎており、見た目が少女に見えるというだけの話だが。


※青いパパイヤ…この子は、いま、どうしているのだろう




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い、き、た、い。

2012-08-19 00:15:00 | コラム
WOWOWで黒澤の全作品がハイビジョン放送中なので、高めのブルーレイに最高画質で録画している。

最低でも3度、最高では20度ほど観返しているものばかりで、
後者は『酔いどれ天使』(48)と『用心棒』(61)と『天国と地獄』(63)を指しているのだが、この三作品は目を閉じれば「頭から尻まで」の映像が自然と脳内で再生され、1度も観たことのないひとに対し「弁士であるかのように」物語ることが出来るほど、完全に自分のものにしている「つもり」、、、である。

先日―。
ちょうど晩飯時に『生きる』(52)が放送されており、ビールを呑みながら再鑑賞した。

いつもは脇にまわる志村喬が堂々の主演、市役所の市民課長「渡辺勘治」が胃癌であることを知り、数日はヤケを起こすも、「まだ私にも、出来ることがある」と住民たちが要望していた「公園の完成」に情熱を注ぎ込む・・・という物語。

名作の誉れ高いが、個人的な評価は「ちょうど真ん中」くらい。
初めて観たのが中学生のころで、勘治さんの「あのー、」「そのー、、」という「おどおどした」喋りかたに不快感を抱いてしまったからである。
大事な大事なキャラクター描写のひとつであるのに、黒澤と志村さんには申し訳ないと思う。
しかし黒澤ダイナミズムの凄さが分かりかけた年頃だったからね、ガキというのはそういうものである―と開き直ることも出来る。

以来、脚本執筆の参考―勘治さんが死んだあとの展開が、この映画の白眉―にと観返したことはあったけれど、それでも再評価しようという気にはならず、自分にとっては相変わらず「ちょうど真ん中くらい」の映画だった。

それはそうと。
黒澤自身も本作の出来に納得していなかったようで、後年「あまり語りたくない映画だ」と発言しているのが、意外といえば意外。
そんな風に発したこと、『生きる』以外になかったのではないか。

数年前まではフランク・ダラボンあたりが監督を担当し、トム・ハンクスでアメリカ版のリメイクが制作される―というニュースが聞こえてきたが、あれはどうなったのだろう。
亜流が沢山生まれたので、新味に欠けるといえば欠ける、、、ということが、リメイクが進まぬひとつの要因かもしれない。

さて。
ビールを呑みながらも「相変わらず勘治さんの喋りかたは、イライラするな」と思って観返していたのだが、
前述した勘治さん亡きあとの展開から、いままでとはちがう感情に襲われ始めた。

とくに、住民たちの「無言の弔問」場面で。

ほとんどが主婦だが、彼女たちは遺影を見つめ続けるだけで、(すすり泣くものは居るが)誰ひとりとしてことばを発しない。
その光景を見て、遺族たちは意外という表情を、助役(と、その仲間たち)は苦々しい表情をする。

このあたりで落涙し・・・
こうなってくると、もう止まらない。最後のほうは、もうほとんど号泣といっていいほど泣いた。

こうして「ちょうど真ん中くらい」の映画は、瞬時にして大傑作と化す。

いままでなにを観てきたんだろうと、自分が恥ずかしくなった。
黒澤信者なんて、自称する資格はなかったのかもしれない・・・などと思った。


まぁでも。
「つまらんと思っていた映画を、後年になって面白く感じる」その逆に「モノスゴ好きだった映画のはずなのに、大人になって観返したら、なにが面白いのか分からなくなった」という現象は、「よくあること」ともいわれている。

それまでに積み上げてきた人生が反映された結果―などと解釈されることが多く、そういうことなのかもしれないなぁ、、、と。

とくに自分の場合、黒澤とスコセッシの映画に関しては、物語そのものより「作劇」に注目し歓喜することが多く、そういう意味では「よき観客」といえないのかもしれない。

『生きる』も脚本にばかり注目し、かつては「脚本のつくりは、凄いけど、、、」というような評価をしていた。
いまごろになって初めて、物語そのものに目を向けることが出来たのだ。


あぁ無駄に歳を喰ったなと。
なにが映画小僧だよと。

久し振りに、落ち込んだよ。
自意識の、ダメダメさ加減に。

やっとのことで、精神に毛が生えてきたのかもしれない。

いままで「ツルッツル」だった、、、ということだから、これは映画小僧として「かなり」恥ずかしいのだよね。


※なぜこの曲を流したのか―という疑問は残るが、編集そのものは優れている「誰だか知らないものによる」黒澤のトリビュート映像。




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キャリーは女子高生

2012-08-18 00:15:00 | コラム
今週は休みのひとが多いだろうから、通常連載に戻らず、もう少しだけ映画についてのあれこれを勝手気ままに。

二日連続で、スカパー! で放送されていた映画からのネタを。

支持は高いけれど、それでも「まだ」過小評価されていると思われる『キャリー』(76)が放送されていたので、最高画質で録画しておいた。
その冒頭に「R-15」指定とあって、
「あれ、76年の日本のレーティングって、そこまで厳しかった? というか、そもそも時代的に、そんな風に細分化されていなかったんじゃ?」
と思って確認してみたら、リバイバル時やビデオ発売時に「再」審査を受けた結果だった、、、と。

あぁなるほど、たぶん、クライマックスにおけるキャリーの大逆襲ではなく、キャリーの逆鱗に触れる「豚の血」の収集方法のおぞましさにチェックが入ったというわけだろう。

分かるが、76年産の二大傑作―もうひとつは、もちろん『タクシードライバー』―は、少年少女のころに「触れてこそ」、、、なのだけれどもね。

とくに『キャリー』―徹底的にいじめを受けた女子高生が、自身の才能(テレキネシス=超能力)を開花させ、復讐を遂げる物語―は、制作陣の意図を超えた自浄作用? というものがあり、
いじめを受けている子にとっては、ほとんど聖典のような輝きをもたらすのだった。
少なくとも自分にとってはそうで、これを観て無価値と思えた日々を乗り越えた。
(ところでトップ画像は、リメイク版『キャリー』の発表まもないポスターである。以前述べたように「あの」クロエ・グレース・モレッツでは可憐に過ぎて、キャリーの「どんくさ」感が出ないような気もするのだが・・・監督は久し振りのキンバリー・ピアーズであるし、狂信的な母親を演じるのは、贔屓のジュリアン・ムーアときたもんだ。やっぱり期待してしまうが、とにかくクライマックスだけは凝ったものが見たい)


一昨日まで朝日新聞紙上では(大津の問題を受けて)「いじめている君へ・いじめられている君へ・いじめを見ている君へ」と題し、著名人たちがメッセージを送るという連載が企画されていて、そのなかで「いいね!」と思えたのは・・・
漫画家サイバラこと西原理恵子、映画監督の井筒和幸、しょこたん中川翔子と、
ちょっと文章が巧過ぎると思ったが、小学6年生のタレント春名風花によるもの・・・
だが、自分だったら「ひたすら『キャリー』を観て、想像のなかで沢山殺人を犯せ」と発する。

そういう効果のある映画に「R-15」の指定をつけるのは、処方箋を取り上げるようなものなのではないか・・・と。


※日々増えていっているが・・・
現時点における、「R-15指定」を受けた映画たちのリスト。(ウィキペディアより)

「なるべくして、なった」キング・オブ・Rのような映画も含まれるが、

若手タレントを起用して「ダメ、ぜったい。」なんていうポスターを作るよりも、『レクイエム・フォー・ドリーム』(2000)を観せるだけでドラッグには手を出さなくなるのではないか、と思ったり、
11月公開というのに、だいぶ早い時期から指定が決まっていた『悪の教典』とか、早過ぎじゃね? 観る前に決めてんの? と思ったり。

五輪では、ビデオ判定や審判に口出し出来るジュリーなんて存在が注目を浴びたが、
それはそれでいろいろと問題があるものの、どんなやつがどんな風に議論しているのかが映し出されるという「透明性」については、いいと思った。

映画の審査には、それがない。

審査風景を公開しろっていっているわけじゃない、でも、こういう顔をした、こういうキャリアを持つ識者がやっているんですよ、、、という情報公開くらいはやってもいいんじゃね? と、思うのである。

そのほうが審査する側だって、緊張感を持つだろう。


公開前日まで映画は創り手のものだが、それ以降は観客のものでもあって。
すべての情報は共有されるのが理想で、審査もその例に漏れない。

不幸にも検閲をおこなう国家が未だ存在する、日本はまだマシだ―なんていう大人な? 意見もあるけれど、
そこで止まるんじゃなくて、では「さらにマシ」にすればいいじゃない・・・と思うのだが、どうなんだろうか。

キャリーも、そうなることを願っているよ、、、たぶん。


※悪の教典、予告編。
原作、すっげ面白かった。




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『い、き、た、い。』

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神軍平等兵、吠える。

2012-08-17 00:15:00 | コラム
こんな感じのヤツ? だが、建造物としての靖国神社が好きで、年に3度くらい足を運ぶ―という習慣が、もう10年とちょっとくらい続いている。

1度は「みたままつり」の期間中、

1度はデートコースの一部として、

そして、8.15の終戦記念日にも。


今年の8.15も、もちろん行ってきた。

思想信条のちがい、あるいはイメージから「え、そういうところに顔、出すの?」なんて聞かれることもあるけれど、
繰り返すが、「まず」建造物として好きなのでね。

だから初めて行くひとには、なにもない日に「散歩の感覚でどうぞ」と勧めている。
8.15の靖国は騒々しく、この日を「初めて」にしてしまうと、なんらかのアレルギーを起こすかもしれないから。

とくに小泉首相時代は「喧騒」こそが最も適切な表現だったと思う、首相に対するブーイングと拍手、メディア、ちょっとした押し問答に、軍服集団の参拝、、、などなど。

ふつうの靖国が好きなのであれば、オメーもふつうの日に行けばいいだろ?

いやさすがに、この日だけは無視出来ない。

なにも考えないよりかは、なにかを考えるほうがいいわけで。
この日に足を運ぶだけで、じつに様々なことを思い、考えるようになる―という風に感じたのが12年くらい前で、その日からずっと、8.15は仕事があろうがなかろうが、デートがあろうがなかろうが、とりあえず靖国に向かおう、、、そう決めたのだ。


戦争と、映画。

胸のすく戦争アクションもいいが、
靖国から戻った晩は、戦争を哲学する表現者たちの熱き魂に触れたい。

そんなわけで。
映画小僧が選出する、「観るものの覚悟を迫る」戦争映画のセレクションを。


(1)『ゆきゆきて、神軍』(87)

戦争犯罪を「たったひとりで」追究する神軍平等兵、奥崎謙三を追った傑作ドキュメンタリー。

ドキュメンタリーとしても突出していて、30回は観た。

(2)『靖国 YASUKUNI』(2007)

上映中止やら抗議活動のニュースにより、観ていないひとまで「これは駄作」やら、逆に「傑作!」やらといい出した、ある意味で不遇なドキュメンタリー。

観る価値は「おおいに」あると思うのだが、注文をつけていいとするならば・・・
「喧騒」ばかりがクローズアップされており、「日常としての靖国」を、もっと映し出してほしかった。

(3)『ジョニーは戦場へ行った』(71)

反戦映画の金字塔。
反骨の作家ドルトン・トランボの原作小説を、トランボ自身が執念により映画化。

静かなモノローグが、胸に痛い。

(4)『地獄の黙示録』(79)

戦場の狂気を描き出そうとして、映画そのものが狂気と化した怪物のような作品。

これ観て感情を動かされないひとは、もう人間終わってると思う。

(5)『アンダーグラウンド』(95)

自虐と絶望と、ヤケクソと・・・ユーゴ内戦中に制作された、クストリッツァによる怒りの戦争史。

(6)『TOMORROW 明日』(88)

「全身小説家」井上光晴の原作小説を、黒木和雄が「静謐に」映像化。
長崎に原爆が落とされるまでの24時間を描いている。

(7)『ノー・マンズ・ランド』(2001)

ボスニア紛争を描く小規模・低予算の作品だが、映画化のためにフランス・イタリア・ベルギー・イギリス・スロベニアの五カ国が制作に参加している。

タイトルの意味は、ボスニアとセルビアの中間地帯を指している。

(8)『ディア・ハンター』(78…トップ画像)

散り散りになる、青春。

ロシアン・ルーレットを強制されるエピソードばかりが注目されたが、個人的にはマイケル(デ・ニーロ)とリンダ(メリル・ストリープ)のエピソードが切なくて忘れられない。

リンダは帰ってこないニック(クリストファー・ウォーケン)のことが忘れられず、マイケルに「慰めあいましょう」といって、ベッドに誘うのである。

(9)『黒い雨』(89)

井伏鱒二の記録小説を、イマヘイが映画化。

モノクロームの効果もあって、墨のような黒い雨が不気味で戦慄する。

(10)『フルメタル・ジャケット』(87)

戦争と洗脳と人間を冷笑的に見つめた、キューブリックの快作。



※奥崎の「伝説的な」政見放送。
ナレーションによる経歴紹介も唖然とするが、奥崎の第一声には「ひっくり返った」。




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『キャリーは女子高生』

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