マックンのメモ日記

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マヤ王の石碑を発見、1500年前の「冷戦」語る!

2015-08-09 12:43:31 | 芸術(音楽など)・文化・歴史
中米グアテマラにあるマヤ文明の遺跡で、時代区分の違う石碑が発見されました。これにより1500年前、マヤ文明の絶頂期に一帯で覇権を争っていた二大勢力の新事実が明らかになり、研究者たちを驚かせています。

 グアテマラのペテン地方西部にあるエル・アチオタル遺跡で発見されたこの石碑の断片には「アハウ」と呼ばれる王(地方を治めた)が描かれています。アハウを任命したのは、遠く離れた古代都市テオティワカン(現在のメキシコ市辺り)からやってきた戦士、シヤフ・カック(「火の誕生」の意)です。シヤフ・カック率いる軍勢は378年にマヤ低地に現れると、都市国家ティカルを支配下に置き、マヤ全土に新たな政治体制を敷きました。

 石碑の断片を発見したのは、ナショナル ジオグラフィック協会が支援する「ヤング・エクスプローラー」のひとりで、テュレーン大学院生のルーク・オールド=トーマス氏。彼はエル・アチオタル遺跡で、ペテン地方にマヤの都市国家が現れ始めたころの古い建造物を調べていました。先古典期中期から後期(紀元前800〜紀元250年)のものです。

「私たちは階段を探すために、いくつか穴を掘っていました。そのとき作業員のひとりが、石碑のようなものを見つけたと言ってきたのです」とオールド=トーマス氏は言います。それはマヤが最も繁栄した古典期(250〜900年)に特有の、彫刻の施された石碑でした。「穴の中を覗いてみると、こちらをまっすぐに見つめる王の顔がありました。古代マヤ人は、王の顔が入り口に向くよう慎重に配置したのです」

 もともと先古典期後期(紀元前400〜紀元250年)の遺跡だとされていたエル・アチオタルで「石碑が見つかるとは思ってもみませんでした」とカヌート氏は言っています。さらに発掘を続けると、石碑の上部と下部から取られたふたつの断片が見つかりました。これらはもとの場所から小さな神殿の中に移されたもので、周囲には陶器、火打ち石、人骨などが祀られていたのです。上部の断片には、支配者の象徴であるヘビの儀仗を持つ男が彫られています。

 米テキサス大学でマヤの古代文字を研究しているデビッド・スチュワート氏が石碑の裏に刻まれた文字を解読したところ、これはあるアハウの即位40周年を祝うために造られたものであることがわかりました。石碑には日付も刻まれていますが、非常にあいまいでわかりにくい書き方で、解読作業は困難をきわめたといいます。スチュワート氏は、ここに記された日付はおそらく紀元418年11月22日ではないかと推測しています。418年の40年前は378年であり、それはシヤフ・カックがメキシコ盆地からこの地にやってきてティカルの新たな支配者となり、マヤの政治制度を次々と改革した年と一致します。

「ティカルに現れたシヤフ・カックは、一帯に自分の部下となる支配者たちを置きましたが、エル・アチオタルもその支配下にあったとは」とスチュワート氏は語っています。研究者たちを驚かせたのは、神殿で見つかった供物から、アハウが描かれた石碑の断片が600年〜650年頃まで崇拝されていたと思われることです。この時期は、エル・アチオタルが衰退して100年以上たったころとみられ、しかもこの一帯は当時、ティカルと覇を競った都市国家カラクムルの支配下にあったのです。

 6世紀から古典期が終わる9世紀末〜10世紀初頭にかけて、マヤの二大「大国」であるティカルとカラクムルは何度も武力衝突し、配下にある都市同士も小競り合いを繰り返していました。歴史家はこれをマヤの「冷戦」と呼んでいます。カラクムル支配下の土地でティカルの王を崇拝することは、20世紀の米国でレーニンの胸像に供物を捧げるような行為だったろうと言います。

 オールド=トーマス氏は来年エル・アチオタルを再訪し、当初の目的だった先古典期の建造物調査を続ける予定です。彼がもともと探していた階段は、どうやら古典期の神殿で封鎖されてしまっているらしいのです。このような神殿や、略奪者によって暴かれた玄室があることは、彼が調査する建物の重要性を物語っています。現地に戻るのが楽しみだと語るオールド=トーマス氏は、冗談めかしてこう付け加えました。「次にアステカの神殿でも見つかったりしたら、事態はさらに混乱するでしょうね」と。(ソース ナショナルルジオグラフィック)