華麗なる一族である吉良家も下克上の戦国時代になると、室町幕府の15代将軍である足利義明が滅亡してしまい、吉良義安の時代には今川家の翼下に入ってしまったのです。そして今川義元が織田信長に打たれてしまうと徐々に衰退していき氏真のときに没落してしまいました。すると当然ながら吉良義安も没落してしまったのですが、義安の妻は俊継尼と言って、二人の間には義定と言う子どもがいたのです。妻の俊継尼はわが子の末を案じて、後見人に徳川家康に頼んだのです。なぜ吉良家の後見人になることを徳川家康が引き受けたのかと言うと、実は、この俊継尼は松平清康の子どもであり、松平清康と言えば家康の祖父なのです。そんな関係で後見人に頼まれたという事情があったのです。人の縁というのはどこでどう繋がっているか分からないという事は、ご自分のご先祖を調べたことのある人なら思い当たることがあるのではないでしょうか?
こうして家康の力で吉良家は再興することが出来たのです。という事情があって、江戸幕府となってもこの吉良家を非常に大切にしたのです。義康の後は義定、義弥、義冬と続き次に吉良上野介義央が誕生したのです。さらにこの吉良上野介義央の妻になった人と言うのが、あの有名な上杉謙信を祖とする米沢藩の初代藩主・景勝であり2代目藩主定勝の娘・富子を嫁にもらったのです。名門上杉家の娘を娶るということは上野介が凄い名門だったからこそでもあるのです。つまり吉良上野介の後ろには幕府がついていて、なおかつその嫁は米沢藩の祖である上杉謙信の血を引く名門の血筋を受け継いだことにもなり、表向き武士の地位は4500石の旗本と言う事ですが、武士の階級を示す位階では従四位上と、島津家や伊達家と並ぶ大大名と同じ待遇なのです。と言う事で役職が高家筆頭となっているのです。自らの血筋も室町幕府の将軍家の血筋や今川義元という戦国大名の血筋でもあって、なおかつ徳川家康が後見人となっていては、吉良家が幕府から可愛がられたとしても不思議ではありません。
皇居に行くと、本丸はありませんが、本丸跡と言うのが残っていて、天主台の石組みが今も残されています。また松の廊下跡と言うのもあって石碑が立っているので分かると思います。ただし本当に石碑だけなので見過ごす可能性がないとは言えませんが。そこであの松の廊下事件があったのだと思い浮かべれば、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になって、目の前でその光景が頭に浮かぶかもしれませんね。歴史好きの人に取ってはたまらないと思いますが、散歩コースとして最高のスポットではないでしょうか?
墨田区には江戸東京博物館と言うのがありますので、松の廊下が30分の一のスケールで再現模型が置かれているので、そこへ立ち寄るのも良いと思います。松の廊下とは本丸の大広間と朝廷との儀式を行う予定であった白書院を繋ぐ廊下のことです。刃傷事件を起こした浅野内匠頭は新橋にあった一関藩主田村邸に移されたのですが、田村新交町に史蹟跡として「浅野内匠頭が元禄14年3月14日に自刃せし所なり」という立て札が立っています。本所松坂町とは現在の墨田区両国になるそうですが、そこに吉良邸はあったそうです。そこには本所松坂町公園として吉良邸の極一部が残っており、首洗いの井戸の跡が残されていて門の前には碑も立っているそうです。そして熊本藩の細川邸に預けられていた大石内蔵助らに差し入られたと言う豆腐があるのですが、そのときの豆腐料理店が今も残っているそうです。そこは松の廊下事件の10年前の元禄4年創業で、320年間続く老舗豆腐料理店だそうです。その朝顔御膳は2600円で豆腐づくしの料理です。あんかけ豆腐ならニ碗一組・350円で食べられます。同じく新橋の新正堂では切腹最中(190円)と言うのがあるそうです。ちなみに浅野内匠頭の墓は泉岳寺にあるそうです。一緒に赤穂浪士の墓もあるそうですので、歴史散策の好きな方は一度行かれたら良いのではないかと思います。
こうして家康の力で吉良家は再興することが出来たのです。という事情があって、江戸幕府となってもこの吉良家を非常に大切にしたのです。義康の後は義定、義弥、義冬と続き次に吉良上野介義央が誕生したのです。さらにこの吉良上野介義央の妻になった人と言うのが、あの有名な上杉謙信を祖とする米沢藩の初代藩主・景勝であり2代目藩主定勝の娘・富子を嫁にもらったのです。名門上杉家の娘を娶るということは上野介が凄い名門だったからこそでもあるのです。つまり吉良上野介の後ろには幕府がついていて、なおかつその嫁は米沢藩の祖である上杉謙信の血を引く名門の血筋を受け継いだことにもなり、表向き武士の地位は4500石の旗本と言う事ですが、武士の階級を示す位階では従四位上と、島津家や伊達家と並ぶ大大名と同じ待遇なのです。と言う事で役職が高家筆頭となっているのです。自らの血筋も室町幕府の将軍家の血筋や今川義元という戦国大名の血筋でもあって、なおかつ徳川家康が後見人となっていては、吉良家が幕府から可愛がられたとしても不思議ではありません。
皇居に行くと、本丸はありませんが、本丸跡と言うのが残っていて、天主台の石組みが今も残されています。また松の廊下跡と言うのもあって石碑が立っているので分かると思います。ただし本当に石碑だけなので見過ごす可能性がないとは言えませんが。そこであの松の廊下事件があったのだと思い浮かべれば、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になって、目の前でその光景が頭に浮かぶかもしれませんね。歴史好きの人に取ってはたまらないと思いますが、散歩コースとして最高のスポットではないでしょうか?
墨田区には江戸東京博物館と言うのがありますので、松の廊下が30分の一のスケールで再現模型が置かれているので、そこへ立ち寄るのも良いと思います。松の廊下とは本丸の大広間と朝廷との儀式を行う予定であった白書院を繋ぐ廊下のことです。刃傷事件を起こした浅野内匠頭は新橋にあった一関藩主田村邸に移されたのですが、田村新交町に史蹟跡として「浅野内匠頭が元禄14年3月14日に自刃せし所なり」という立て札が立っています。本所松坂町とは現在の墨田区両国になるそうですが、そこに吉良邸はあったそうです。そこには本所松坂町公園として吉良邸の極一部が残っており、首洗いの井戸の跡が残されていて門の前には碑も立っているそうです。そして熊本藩の細川邸に預けられていた大石内蔵助らに差し入られたと言う豆腐があるのですが、そのときの豆腐料理店が今も残っているそうです。そこは松の廊下事件の10年前の元禄4年創業で、320年間続く老舗豆腐料理店だそうです。その朝顔御膳は2600円で豆腐づくしの料理です。あんかけ豆腐ならニ碗一組・350円で食べられます。同じく新橋の新正堂では切腹最中(190円)と言うのがあるそうです。ちなみに浅野内匠頭の墓は泉岳寺にあるそうです。一緒に赤穂浪士の墓もあるそうですので、歴史散策の好きな方は一度行かれたら良いのではないかと思います。