ペルーの海岸近くにある遺跡「エル・カスティージョ・デ・ワルメイ」は、ここ100年ほどの間に盗掘者たちに荒らされ、広大な丘全体が穴だらけになっていました。盗掘者の目当ては、埋葬された遺骸が身に着けた黄金の装飾品や上質な織物です。
首都リマから北へ車で4時間ほどの場所にある遺跡の丘には、古代の人骨や現代のごみが散らばり、荒涼とした風景が広がっています。その発掘は困難で、時間と金の浪費に終わるだけだろうと、多くの人が忠告しました。しかし、考古学者ミリオシュ・ギエルシュは断念する気などありませんでした。
ポーランドのワルシャワ大学でアンデス考古学を教えているギエルシュは36歳。かつてペルーで繁栄したワリ文化の織物や土器の破片がこの丘で見つかっていたことから、「1200年前に、エル・カスティージョで何か重要なことが起きていた」と確信していたのです。
ワリ文化の中心地はエル・カスティージョよりはるか南にありました。ワリの人々は、現在のアヤクチョ市の近くに広大な都を建設し、最盛期には人口4万人を擁していました。同時代に人口2万人弱だったパリをはるかに上回る規模です。ワリの支配層はこの都を拠点に領土を広げていったのです。ワリこそが南米アンデス地方に生まれた最初の帝国であると、多くの考古学者は考えているのです。
ギエルシュの調査隊は、磁力計を使って地下構造物の形状を探り、凧に装着したカメラで一帯を空から撮影しました。すると、長年にわたって墓泥棒たちが見落としていたものが浮かび上がってきたのです。南の岩山の尾根沿いに埋まっている壁の、かすかな輪郭です。迷路のように複雑かつ大規模な構造が、エル・カスティージョの南端に不規則に広がっていました。祖先崇拝のための神殿だったらしく、もともとの外壁は深紅に塗られています。ギエルシュ率いるポーランドとペルーの合同調査隊は、発掘の許可を申請しました。
2012年秋に、驚くべきものが発見されました。未盗掘の王族の墓です。ワリ帝国の王妃あるいは王女の遺体が計4体、貴族の遺体が少なくとも54体、そして大きな金の耳飾り、銀製の器、銅合金の斧など、一流の細工が施された遺物1000点以上が埋葬されていたのです。「ここ数年間で最も重要な発見です」と、リマ美術館の学芸員セシリア・パルド・グラウは語っています。出土品は、ワリ帝国とその裕福な支配階級の謎を解明する新たな鍵となります。
ワリは8世紀の終わり頃、エル・カスティージョのある沿岸部に攻め込んだと推測されます。エル・カスティージョの遺跡からは、長柄の斧を振り回すワリの戦士たちと、投槍器を使って応戦する沿岸部の人々を描いた儀式用の酒杯が出土しています。激しい戦いの末に、この土地を征したのはワリでした。新たな支配者はエル・カスティージョの丘の麓に宮殿を建設。その後、自分たちの祖先を祭るために、急峻な斜面を利用して、高くそびえる深紅の神殿を建設していったのです。
ワリ帝国が広大な領土をどのように手に入れ、抵抗勢力を統治したのかは長年の謎だったのです。文字をもたなかったワリには歴史の記録が残っていません。しかし、都から約850キロ離れた、ここエル・カスティージョで発見された豊富な出土品によって、徐々にその空白は埋まりつつあるのです。
首都リマから北へ車で4時間ほどの場所にある遺跡の丘には、古代の人骨や現代のごみが散らばり、荒涼とした風景が広がっています。その発掘は困難で、時間と金の浪費に終わるだけだろうと、多くの人が忠告しました。しかし、考古学者ミリオシュ・ギエルシュは断念する気などありませんでした。
ポーランドのワルシャワ大学でアンデス考古学を教えているギエルシュは36歳。かつてペルーで繁栄したワリ文化の織物や土器の破片がこの丘で見つかっていたことから、「1200年前に、エル・カスティージョで何か重要なことが起きていた」と確信していたのです。
ワリ文化の中心地はエル・カスティージョよりはるか南にありました。ワリの人々は、現在のアヤクチョ市の近くに広大な都を建設し、最盛期には人口4万人を擁していました。同時代に人口2万人弱だったパリをはるかに上回る規模です。ワリの支配層はこの都を拠点に領土を広げていったのです。ワリこそが南米アンデス地方に生まれた最初の帝国であると、多くの考古学者は考えているのです。
ギエルシュの調査隊は、磁力計を使って地下構造物の形状を探り、凧に装着したカメラで一帯を空から撮影しました。すると、長年にわたって墓泥棒たちが見落としていたものが浮かび上がってきたのです。南の岩山の尾根沿いに埋まっている壁の、かすかな輪郭です。迷路のように複雑かつ大規模な構造が、エル・カスティージョの南端に不規則に広がっていました。祖先崇拝のための神殿だったらしく、もともとの外壁は深紅に塗られています。ギエルシュ率いるポーランドとペルーの合同調査隊は、発掘の許可を申請しました。
2012年秋に、驚くべきものが発見されました。未盗掘の王族の墓です。ワリ帝国の王妃あるいは王女の遺体が計4体、貴族の遺体が少なくとも54体、そして大きな金の耳飾り、銀製の器、銅合金の斧など、一流の細工が施された遺物1000点以上が埋葬されていたのです。「ここ数年間で最も重要な発見です」と、リマ美術館の学芸員セシリア・パルド・グラウは語っています。出土品は、ワリ帝国とその裕福な支配階級の謎を解明する新たな鍵となります。
ワリは8世紀の終わり頃、エル・カスティージョのある沿岸部に攻め込んだと推測されます。エル・カスティージョの遺跡からは、長柄の斧を振り回すワリの戦士たちと、投槍器を使って応戦する沿岸部の人々を描いた儀式用の酒杯が出土しています。激しい戦いの末に、この土地を征したのはワリでした。新たな支配者はエル・カスティージョの丘の麓に宮殿を建設。その後、自分たちの祖先を祭るために、急峻な斜面を利用して、高くそびえる深紅の神殿を建設していったのです。
ワリ帝国が広大な領土をどのように手に入れ、抵抗勢力を統治したのかは長年の謎だったのです。文字をもたなかったワリには歴史の記録が残っていません。しかし、都から約850キロ離れた、ここエル・カスティージョで発見された豊富な出土品によって、徐々にその空白は埋まりつつあるのです。