ネットをしているとこんな話を聞いたことがありませんか?これから書く人ほど徹底していなくても、人間には自分の足跡や世界の出来事などを記録に残したいと思うのが人間の本能だと言います。だから人間は文字を発明し、紙を発明し、活版印刷技術を生み出し、いろいろなものを記録に残そうとしたのです。今ではコンピューターを使って色々なものをネット上にクラウドを使って残そうとしています。これらはまさに人間の欲求の現れです。1950年代と言うとウィンドウズ95が出た年ですが、そのコンピューターの創成期から米コンピューター産業を引っ張って来た重鎮である米マイクロソフトのゴードン・ベル主任研究員が言うに「目標は完全なる人生の記憶をネット上に永遠にとどめることだ」と言います。
これは、いわゆる自分史みたいなものでしょう。自分にまつわるすべてのものをネットに取り込んで残そうと言うのですが、これを「ライフログ」と呼ぶそうです。ベルは1999年から研究に取り組み、自らも実践していて、著書や論文、走り書きからクレジットカードの明細に航空券の半券から写真まで、ありとあらゆるものを残しているそうです。そのためいつも首からカメラをぶら下げていて、目の前の光景を20秒に1回撮っているそうです。ここまで徹底して自分の人生を記録に残そうとすれば、大変な努力が必要となるでしょう。それにこれだけのものを残そうとすると膨大な記録媒体が必要になり、なかなか一般の人ではできることではありません。だからライフログこそが究極の記録手段だと言います。
しかも今ではライフログは簡単にできると言います。例えばフェイスブックなおのSNSはライフログにはもっとも簡単な道具だと言います。現実の人のやり取りを再現し、個人の人格を丸ごとネットに載せる。それがそもそもフェイスブックだと副社長のダンは言いきっています。だからグーグルやツイッター、エバーノートなどのサイトも突き詰めれば人間の記憶を残すプラットホーム(基盤)だと言います。だから今の時代、人類は一人一人が思い思いに人生を記録できる時代がやってきたのだと言います。
これは前日書いた人生の年表と同じ考えではないでしょうか?自分の人生の年表に自分の祖先の記録も書けばそれは祖先から自分までの年表になるわけで、家系図と同じようなものです。ただ家系図は名前だけを順番に書いていくだけなのでそこがちょっと違うし、ここでいうライフログとも違います。と言うのはライフログほど詳しく記録を取ったり写真に残したりしていないからです。しかしライフログほど詳しく残す意味があるのでしょうか?まして家系図なんていらないと言う人もいるでしょうし、調べようにも歴史的人物ならともかく、一般の人では先祖のことなどわかりはしません。だから自分史的なもの、つまりライフログを残そうという事かも知れません。これなら自分のことですので詳しく記録に残せるからです。
しかしライフログのように、みんながみんなネット上で永遠に生きながらえたいと考えているのでしょうか?つまり個人情報をすべてネットにさらけ出すという事をみんながみんな望んでいることなのでしょうか?それも死んでからも残したいと思うのでしょうか?自分史だけなら世の中に自分のことをすべて曝け出さなくても家系図と同じようなものだから、その家の家系図として使うだけですみますが、実名のSNSであるフェイスブックでは個人情報をすべてさらけ出すことになるわけで、いくら設定で友人だけにしていたとしても、友達の友達からだんだん個人情報が漏れていくという事もあります。
少なくともフェイスブックには個人情報がすべて蓄積されているのです。一つ一つは些細な情報でもそれらのまとめ役であるFBには大きな一つの塊となった個人情報が集まっていることになるわけです。自分の個人情報をFBに手渡してもいいのでしょうか?FBは単なる一企業です。そんな一私企業に自分の個人情報をタダで上げているようなもので、裏でその情報がどのように使われているかは全く分からないのです。実際にはこの個人情報を他の企業に売りつけてFBは金儲けしているのです。でも多くの人はそこまで考えていないのではないでしょうか?ただで遊ばせてもらっていると思っているかもしれませんが、自分の個人情報を切り売りして遊んでいるのと同じなのです。
それだけならまだ良いかもしれませんが、こんな事件がありました。グーグルで自分の名前を検索したら、「○○さん(実名)犯罪者」などと表示されたのです。全く身に覚えのない語句が検索候補語の中にも一緒に含まれて表示されていたのです。それをクリックすると自分を中傷する内容が書かれたいくつものサイトに行きつきたそうです。そこでグーグルに対して訴訟を起こしたのですが、グーグル側は「ネットの情報は膨大でそこから中傷する言葉を瞬時に選べるのは「サジェスト」と呼ばれる検索エンジンのせい」だと主張するのです。つまり人の手で恣意的に検索しているのではなく、コンピューターが勝手に情報を引っ張ってくるようになっているのでグーグルには責任はないと、未だその検索用語は削除されていないのです。この結果、この人に何が起こったかと言うと、そういう人間は雇っておけないと会社から解雇されてしまったのです。それは事実無根と訴えてもそれを証明するには巨大な企業と個人が争うのは難しいのです。しかも相手は米国にいるので手続きが面倒なのです。
だからいつまでも情報が残っても困る場合があるのです。例え、事実無根だと言ってもこのケースのようにいつまでもネット上に残り、その人の人生を壊してしまう事すらあるのです。そうでなくとも他人が勝手に人の偽情報や個人プライバシーを、ネット上にアップされてしまうと永遠にそれはネット上を漂うことになるのです。だから今年、忘れられる権利と言うものを欧州連合が提唱したのです。ネット上の記述削除を申し立てる際三者機関を作り、侵害された権利を救おうと言うのです。EUではすでに個人情報保護法で独立監視機関も作り日本より先を行っています。「クリック1回」は積み重なれば価値を生む場合もあるかもしれませんが、個人が丸裸にされるリスクも含んでいるのです。便利さから何気なくマウスを押す側も「情報は永久に残る」可能性を認識する必要があるのです。
これは、いわゆる自分史みたいなものでしょう。自分にまつわるすべてのものをネットに取り込んで残そうと言うのですが、これを「ライフログ」と呼ぶそうです。ベルは1999年から研究に取り組み、自らも実践していて、著書や論文、走り書きからクレジットカードの明細に航空券の半券から写真まで、ありとあらゆるものを残しているそうです。そのためいつも首からカメラをぶら下げていて、目の前の光景を20秒に1回撮っているそうです。ここまで徹底して自分の人生を記録に残そうとすれば、大変な努力が必要となるでしょう。それにこれだけのものを残そうとすると膨大な記録媒体が必要になり、なかなか一般の人ではできることではありません。だからライフログこそが究極の記録手段だと言います。
しかも今ではライフログは簡単にできると言います。例えばフェイスブックなおのSNSはライフログにはもっとも簡単な道具だと言います。現実の人のやり取りを再現し、個人の人格を丸ごとネットに載せる。それがそもそもフェイスブックだと副社長のダンは言いきっています。だからグーグルやツイッター、エバーノートなどのサイトも突き詰めれば人間の記憶を残すプラットホーム(基盤)だと言います。だから今の時代、人類は一人一人が思い思いに人生を記録できる時代がやってきたのだと言います。
これは前日書いた人生の年表と同じ考えではないでしょうか?自分の人生の年表に自分の祖先の記録も書けばそれは祖先から自分までの年表になるわけで、家系図と同じようなものです。ただ家系図は名前だけを順番に書いていくだけなのでそこがちょっと違うし、ここでいうライフログとも違います。と言うのはライフログほど詳しく記録を取ったり写真に残したりしていないからです。しかしライフログほど詳しく残す意味があるのでしょうか?まして家系図なんていらないと言う人もいるでしょうし、調べようにも歴史的人物ならともかく、一般の人では先祖のことなどわかりはしません。だから自分史的なもの、つまりライフログを残そうという事かも知れません。これなら自分のことですので詳しく記録に残せるからです。
しかしライフログのように、みんながみんなネット上で永遠に生きながらえたいと考えているのでしょうか?つまり個人情報をすべてネットにさらけ出すという事をみんながみんな望んでいることなのでしょうか?それも死んでからも残したいと思うのでしょうか?自分史だけなら世の中に自分のことをすべて曝け出さなくても家系図と同じようなものだから、その家の家系図として使うだけですみますが、実名のSNSであるフェイスブックでは個人情報をすべてさらけ出すことになるわけで、いくら設定で友人だけにしていたとしても、友達の友達からだんだん個人情報が漏れていくという事もあります。
少なくともフェイスブックには個人情報がすべて蓄積されているのです。一つ一つは些細な情報でもそれらのまとめ役であるFBには大きな一つの塊となった個人情報が集まっていることになるわけです。自分の個人情報をFBに手渡してもいいのでしょうか?FBは単なる一企業です。そんな一私企業に自分の個人情報をタダで上げているようなもので、裏でその情報がどのように使われているかは全く分からないのです。実際にはこの個人情報を他の企業に売りつけてFBは金儲けしているのです。でも多くの人はそこまで考えていないのではないでしょうか?ただで遊ばせてもらっていると思っているかもしれませんが、自分の個人情報を切り売りして遊んでいるのと同じなのです。
それだけならまだ良いかもしれませんが、こんな事件がありました。グーグルで自分の名前を検索したら、「○○さん(実名)犯罪者」などと表示されたのです。全く身に覚えのない語句が検索候補語の中にも一緒に含まれて表示されていたのです。それをクリックすると自分を中傷する内容が書かれたいくつものサイトに行きつきたそうです。そこでグーグルに対して訴訟を起こしたのですが、グーグル側は「ネットの情報は膨大でそこから中傷する言葉を瞬時に選べるのは「サジェスト」と呼ばれる検索エンジンのせい」だと主張するのです。つまり人の手で恣意的に検索しているのではなく、コンピューターが勝手に情報を引っ張ってくるようになっているのでグーグルには責任はないと、未だその検索用語は削除されていないのです。この結果、この人に何が起こったかと言うと、そういう人間は雇っておけないと会社から解雇されてしまったのです。それは事実無根と訴えてもそれを証明するには巨大な企業と個人が争うのは難しいのです。しかも相手は米国にいるので手続きが面倒なのです。
だからいつまでも情報が残っても困る場合があるのです。例え、事実無根だと言ってもこのケースのようにいつまでもネット上に残り、その人の人生を壊してしまう事すらあるのです。そうでなくとも他人が勝手に人の偽情報や個人プライバシーを、ネット上にアップされてしまうと永遠にそれはネット上を漂うことになるのです。だから今年、忘れられる権利と言うものを欧州連合が提唱したのです。ネット上の記述削除を申し立てる際三者機関を作り、侵害された権利を救おうと言うのです。EUではすでに個人情報保護法で独立監視機関も作り日本より先を行っています。「クリック1回」は積み重なれば価値を生む場合もあるかもしれませんが、個人が丸裸にされるリスクも含んでいるのです。便利さから何気なくマウスを押す側も「情報は永久に残る」可能性を認識する必要があるのです。