マックンのメモ日記

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今チワワのプッチという犬を飼っています。
可愛いですよ。

記録したい本能と忘れられる権利とは!

2012-09-30 19:14:04 | ネット、ビジネス、IT
ネットをしているとこんな話を聞いたことがありませんか?これから書く人ほど徹底していなくても、人間には自分の足跡や世界の出来事などを記録に残したいと思うのが人間の本能だと言います。だから人間は文字を発明し、紙を発明し、活版印刷技術を生み出し、いろいろなものを記録に残そうとしたのです。今ではコンピューターを使って色々なものをネット上にクラウドを使って残そうとしています。これらはまさに人間の欲求の現れです。1950年代と言うとウィンドウズ95が出た年ですが、そのコンピューターの創成期から米コンピューター産業を引っ張って来た重鎮である米マイクロソフトのゴードン・ベル主任研究員が言うに「目標は完全なる人生の記憶をネット上に永遠にとどめることだ」と言います。

これは、いわゆる自分史みたいなものでしょう。自分にまつわるすべてのものをネットに取り込んで残そうと言うのですが、これを「ライフログ」と呼ぶそうです。ベルは1999年から研究に取り組み、自らも実践していて、著書や論文、走り書きからクレジットカードの明細に航空券の半券から写真まで、ありとあらゆるものを残しているそうです。そのためいつも首からカメラをぶら下げていて、目の前の光景を20秒に1回撮っているそうです。ここまで徹底して自分の人生を記録に残そうとすれば、大変な努力が必要となるでしょう。それにこれだけのものを残そうとすると膨大な記録媒体が必要になり、なかなか一般の人ではできることではありません。だからライフログこそが究極の記録手段だと言います。

しかも今ではライフログは簡単にできると言います。例えばフェイスブックなおのSNSはライフログにはもっとも簡単な道具だと言います。現実の人のやり取りを再現し、個人の人格を丸ごとネットに載せる。それがそもそもフェイスブックだと副社長のダンは言いきっています。だからグーグルやツイッター、エバーノートなどのサイトも突き詰めれば人間の記憶を残すプラットホーム(基盤)だと言います。だから今の時代、人類は一人一人が思い思いに人生を記録できる時代がやってきたのだと言います。

これは前日書いた人生の年表と同じ考えではないでしょうか?自分の人生の年表に自分の祖先の記録も書けばそれは祖先から自分までの年表になるわけで、家系図と同じようなものです。ただ家系図は名前だけを順番に書いていくだけなのでそこがちょっと違うし、ここでいうライフログとも違います。と言うのはライフログほど詳しく記録を取ったり写真に残したりしていないからです。しかしライフログほど詳しく残す意味があるのでしょうか?まして家系図なんていらないと言う人もいるでしょうし、調べようにも歴史的人物ならともかく、一般の人では先祖のことなどわかりはしません。だから自分史的なもの、つまりライフログを残そうという事かも知れません。これなら自分のことですので詳しく記録に残せるからです。

しかしライフログのように、みんながみんなネット上で永遠に生きながらえたいと考えているのでしょうか?つまり個人情報をすべてネットにさらけ出すという事をみんながみんな望んでいることなのでしょうか?それも死んでからも残したいと思うのでしょうか?自分史だけなら世の中に自分のことをすべて曝け出さなくても家系図と同じようなものだから、その家の家系図として使うだけですみますが、実名のSNSであるフェイスブックでは個人情報をすべてさらけ出すことになるわけで、いくら設定で友人だけにしていたとしても、友達の友達からだんだん個人情報が漏れていくという事もあります。

少なくともフェイスブックには個人情報がすべて蓄積されているのです。一つ一つは些細な情報でもそれらのまとめ役であるFBには大きな一つの塊となった個人情報が集まっていることになるわけです。自分の個人情報をFBに手渡してもいいのでしょうか?FBは単なる一企業です。そんな一私企業に自分の個人情報をタダで上げているようなもので、裏でその情報がどのように使われているかは全く分からないのです。実際にはこの個人情報を他の企業に売りつけてFBは金儲けしているのです。でも多くの人はそこまで考えていないのではないでしょうか?ただで遊ばせてもらっていると思っているかもしれませんが、自分の個人情報を切り売りして遊んでいるのと同じなのです。

それだけならまだ良いかもしれませんが、こんな事件がありました。グーグルで自分の名前を検索したら、「○○さん(実名)犯罪者」などと表示されたのです。全く身に覚えのない語句が検索候補語の中にも一緒に含まれて表示されていたのです。それをクリックすると自分を中傷する内容が書かれたいくつものサイトに行きつきたそうです。そこでグーグルに対して訴訟を起こしたのですが、グーグル側は「ネットの情報は膨大でそこから中傷する言葉を瞬時に選べるのは「サジェスト」と呼ばれる検索エンジンのせい」だと主張するのです。つまり人の手で恣意的に検索しているのではなく、コンピューターが勝手に情報を引っ張ってくるようになっているのでグーグルには責任はないと、未だその検索用語は削除されていないのです。この結果、この人に何が起こったかと言うと、そういう人間は雇っておけないと会社から解雇されてしまったのです。それは事実無根と訴えてもそれを証明するには巨大な企業と個人が争うのは難しいのです。しかも相手は米国にいるので手続きが面倒なのです。

だからいつまでも情報が残っても困る場合があるのです。例え、事実無根だと言ってもこのケースのようにいつまでもネット上に残り、その人の人生を壊してしまう事すらあるのです。そうでなくとも他人が勝手に人の偽情報や個人プライバシーを、ネット上にアップされてしまうと永遠にそれはネット上を漂うことになるのです。だから今年、忘れられる権利と言うものを欧州連合が提唱したのです。ネット上の記述削除を申し立てる際三者機関を作り、侵害された権利を救おうと言うのです。EUではすでに個人情報保護法で独立監視機関も作り日本より先を行っています。「クリック1回」は積み重なれば価値を生む場合もあるかもしれませんが、個人が丸裸にされるリスクも含んでいるのです。便利さから何気なくマウスを押す側も「情報は永久に残る」可能性を認識する必要があるのです。

自分史ではなくご先祖史を作ってみよう!供養にもなるし、子孫繁栄にもつながる!

2012-09-29 21:08:01 | その他
自分の人生を記録しておきたいと思う人はいませんか?あるいは自分の両親やご先祖のことを知りたいと言う人はいませんか?今までもご先祖調べと言うような物がありましたが、あくまで系図が書いてあるだけで、ご先祖がどう言う人でどんな人生を送ったのかという事までわかる人はそうはいないと思います。もし分かれば、年表形式にして、自分を含め両親やご先祖の年表を書いた人はいませんか?欄の一角には、日本の出来事や世界の出来事を書いておくのです。そうするとそれぞれの人の人生の流れと時代の流れの関わり合いがわかり、ご先祖や両親がどんな人生を送ったのか大まかでも分かってくるのです。

これは一つの家族の歴史であって、祖先や両親、自分の歴史でもあります。今、自分がここにいるという事はそうしたご先祖や家族の歴史があったから、今、自分がこの世に存在するのだと思えば、ご先祖様に対する気持ちも変わってくるでしょうし、詳細は分からなくても大まかに分かるだけでも、ご先祖の苦労などが分かろうと言うものです。しかし実際は細かなことまではなかなか分からないでしょうが、戸籍を調べれば自分を含め4世代くらいは分かります。こうして調べていくと、不思議と今まで知らなかったことが出てくることもあるのです。それに今まで知らなかったご先祖の方たちの名前が分かり、こういう時代に生きていた人たちがいたのかという事が分かれば、ご先祖様も喜ぶでしょうし、供養にもあるのではないでしょうか?

年表にすることで、今まで漠然としか知らなかったことが見えてくることもあるかもしれません。戸籍を見ればご先祖の人たちの生年月日や死亡日や結婚した年などが分かるし、子供の生まれた時も分かります。そして子供たちがどこへ嫁いで行ったのかという事も分かるはずです。そうしたことを埋めていき世の中の動きと合わせることで、この時期は大変だったのだろうなとか、この時は景気がよかったので羽振りもよかったのかと言うようなことも想像できます。自分の両親や自分のことはなお詳しくわかると思います。こうして一つ一つ分かることを埋めていくだけでも、どんなことがあったのか思い出すかもしれません。

それが家族の歴史でもありご先祖の歴史にもつながって行くのではないでしょうか?それを見れば祖先の歴史が少なからずわかるのではないでしょうか?そうするとご先祖様に対する興味も出てくるかもしれないし、ご先祖様が身近に感じるようになるかもしれません。そんなご先祖を調べて何になるのかと言う人もいるでしょう。しかし世界では歴史から学ぶという事はよくあることであるし、学校でも歴史を習うのですが、何のために歴史を学んでいるのかという事を言いませんよね。勉強だから学んでいるのでしょうが、歴史の事件などから過ちを売り返さないという事も学んでいるのだと思います。日本の歴史や世界の歴史を学んで何になるのかと言う人はめったにいません。

だったら一番身近な家族の歴史を知るという事は当然と言えば当然のことですが、実際にはご先祖を知っているとか、関心があると言う人は意外と少ないと思います。それこそ、他の親戚に昔の話でも聞かせてと言っても、そんな昔の話をしてもどうしようもないじゃないかと言う話も聞きます。そういう人たちにとってご先祖とはどういうものなのでしょうね。家族の歴史に親が関心を持てば子供も持つかもしれません。そして家族と言うものの大切さを知り、おじいさんやおばあさんも大切にする気持ちが沸き起こるかもしれません。

神主さんがこんなことを言っていました。ご先祖様と言うのは大きな樹であって大きな根を張っています。それがご先祖さんたちでその上では幹が枝分かれし、葉が生い茂り、実がたくさん付くのですが、それが子孫だと言います。つまり根に一生懸命水や肥料をあげれば樹が生い茂り大きな樹に成長し沢山の実をつけると言うのです。その実が子孫と言うわけです。そして根にやる水や肥料と言うのはご先祖を敬って一生懸命お祈りすることだと言います。そうすれば子孫は繁栄すると言うのです。

そうする前にご先祖のことも知らなくては意味がありません。一度ご自分のご先祖様がどんな人たちだったのか年表を書いて見ると歴史としても面白いと思います。

10歳若く見えるモナリザの真贋を巡って、欧州では大論争になっている!

2012-09-28 23:02:20 | 芸術(音楽など)・文化・歴史
イタリアの巨匠レオナルド・ダ・ビンチの描いた「モナリザ」のモデルとなった女性の、若き日の姿を描いたとされる肖像画の真贋(しんがん)が、27日までに欧州などで論争の的となっているようです。スイスの財団が所有する「若きモナリザ」は本家と同じポーズだが、色彩がより鮮やかで、モデルの女性の顔なども若々しく見える作品です。「若きモナリザ」もダ・ビンチの作品とされる一方、模写作品であるとする説も根強いようです。

「若きモナリザ」は、モデルの女性の黒い服装や、右手を左手の上に重ねたポーズ、さらに謎めいた微笑を浮かべている点まで、写真で見ても本物とそっくりに見えます。ただ、色彩は本家より鮮やかで、目元の陰影や、顔の肉付きがすっきりしている点は、モデルの女性の若い日の姿を描いたようにも見えると言います。本物を持っているのはルーブル美術館ですが「若きモナリザは」は、1913年に英国で発見され、曲折を経て10年にスイスの財団モナリザ基金が購入したものです。その後、真贋をめぐる研究が35年間も続けられていたのですが、最近になり本物として公開が決定したため、その真贋論争が盛り上がりを見せているのです。

 本家モナリザのモデルは、イタリア旧家の夫人リザ・デル・ジョコンド(リザ・ゲラルディーニ)とされていますが、本家をモデルの30代の姿とすると、「若きモナリザ」の方は、20代といったところです。財団は、専門家により「若きモナリザ」もダ・ビンチ作であることを示す証拠を集めていると言います。その一方で、「若く見えるのは後年に描かれた模写であるため」と、反論する研究者も多いそうです。その根拠の一つとして、本家モナリザは、ほかのダ・ビンチの多数の作品と同様に、木板に描かれているのですが、「若きモナリザ」はダ・ビンチがほとんど使わなかったキャンバスに描かれている点が違っていることから本物ではないとしているそうです。

もし後年に描かれた模写だとしたら、確かにキャンバスに描いていたとしても不思議ではありません。しかし模写にしても描かれている顔があまりに歳が違い過ぎているように見えるのは明らかで、果たして模写ならそんな書き方をするのでしょうか?もっとそっくりに見えるように描くのが模写ではないでしょうか?写真で見る限り若いと言う点以外では顔が非常によく似ています。いつもキャンパスに描いていなかったからと言って、その時はたまたま木に描かなかったのかもしれません。もっと最新の科学を使ってキャンパスや生地の年代などを測定しているはずですし、人物を描く描き方とか絵具の素材に違いはないのかなどは確認しているはずです。ちょっと真贋がはっきりしないと言うのが不思議なくらいです。

ちなみに、モナリザの模写と言えば、ダ・ビンチの弟子が描いたとされる最古の複製画「プラドのモナリザ」などが知られています。またこの作品は日本で今年6月まで開かれていた展覧会で、世界で初めて一般公開されていました。

右傾化する日本!それに危険性を感じる!

2012-09-27 23:15:03 | 政治(国内・海外)
自民党の総裁に阿部氏が選ばれ、次期衆院選では自民党が政権を奪回すると意気込んでいます。それは民主党の政権担当能力の低さと、マニフェストからかけ離れた真逆の政策の数々で、国民の期待を裏切り続けている民主党には、次期選挙での勝ち目がないと言われていて、自民党がまた政権を担う可能性が出てきています。この自民党の中でも屈指の保守・タカ派と呼ばれる安部元総理。総裁選では外交においてタカ派的な強硬発言が目につきましたが、脱原発とか社会保障など国民に直結する政策についての発言はほとんど見られません。そんなところに領土問題などに対するタカ派的な考えが危うさを感じさせる声もあるのです。

しかし阿部総理と言えば07年の夏の参院選で惨敗したうえに、突然政権を投げ出したことは国民も忘れていません。そんな人がまた総裁選に出ること自体不思議でならないのですが、それを国会議員の選挙で安部元総理を支持した議員が多いという事にも驚きを覚えます。国会議員の人はいったい何を基準に総裁を選んでいるのでしょうか?政権を途中で投げ出したという事は政権担当能力に疑問符が付いた人なのです。途中でそれも首相と言う大役を放り出したことは、普通はそれで議員生命は終わりなはずです。民間の社長でも任期途中で自ら社長の座を放り投げるという事はあり得ないし、そうだとしても、それで社会人としての責任のなさを認めたことになり復職するなんて言うことはあり得ないのです。それなのにそういう人を選ぶ国会議員にも違和感を覚えるのです。それは党員の選挙では石橋氏が圧倒的に支持されていたにもかかわらず、敢えて言えば国民の民意とは反対の人を選ぶのですから何を考えているのかわからないからです。

だから阿部氏は今回の自民党総裁選でも劣勢に立たされていたわけです。そして元派閥の長は「神輿は軽いほどいい」と言う感じで石原氏を支持し、その思惑は見事に外れたのはいいのですが、本命でない阿部氏が、韓国と中国との領土問題の対立が深まる中で、本来のタカ派の考えを大胆に前面に出したことで、中国や韓国に反発していた人たちの支持を得たのでしょうか?従軍慰安婦問題では旧日本軍の強制性を認めた河野談話を「不名誉な誤解を解くため、新しい談話を出す時だ」と言っていて、ますます油に火を注ぐような発言をしていますが、これでは問題の解決どころか事態はもっと悪くなるのではないでしょうか?尖閣でも実効支配を強化するため「公務員の常駐も含め検討すべきだ」と言っています。

そのくせ首相の時には初外遊に中国を選んだり、靖国でも言ったか行かなかったのか曖昧に済ましているし、言っていることと行動していることが違うのです。という事は今回のタカ派的発言も強硬路線を打ち出したほうが支持を得られ易いと考え言っているかもしれません。どれが本心なのかはっきりしないのです。しかし今回の言ったことは、もし首相になった時には、言ったという事でそれが重しになって引っ込みがつかなくなる恐れがあり、大変危険な言葉ではないでしょうか?それに国民の暮らしについては真正面から向き合う姿勢を感じません。原発問題についても原発依存は減らすべきだと言っておきながら、「原発をゼロと言ってしまうと原子力の技術を失う」と否定的であり「原発推進は間違っていなかった」との発言には危うさを感じるのです。2世議員だからと言うわけではないのですが、考え方がどうも定まらず、いう事だけは威勢のいいことを言っているところにまた摩擦を起こすような行動をとり、途中で同じように政権を投げだしたりするかもしれないと言う甘さを感じるのです。阿部元首相が言っていることは国民の感情とずれがあるのですが、それを感じ取る気がないのか、感じ取れないのか、そんな自民党総裁に危機感さえ覚えるのです。

それに今回の尖閣問題でも野田首相は国有化するよう日ではないような日にしているし、胡錦濤との5分間の会話でも中国の意図を感じ取れず、中国の反発の大きさに予想外だと驚いていますが、これも日本の政治が右傾化している証でしょう。英国エコノミスト誌も「日本の2大政党が右傾化していると指摘している」とし、「リベラルを掲げる確かな勢力は存在しないと」と警鐘を鳴らしています。

これではどっちが政権を担当しても政策に大きな違いがなくなりつつあり、危険な方向に向かっているかもしれないのです。

恨み(ハン)の500年とは!

2012-09-26 23:26:50 | その他
最近、中国や韓国の間でギクシャックした関係が続いていて、中国と韓国が領土問題で共同歩調を取ると言う記事も出ていました。そして中国にしろ、韓国にしても、いつまでも日本の戦争行為に対して機会あるごとに反日運動を繰り広げています。ここで思い出すのは「恨(韓国語ではハン・日本語ではコン)みの500年」と言う言葉です。これとよく似た言葉に怨と言うのがあります。日本語では怨も恨も同じ意味で使われていて区別して使われていません。それ証拠に怨恨と言うような使われ方をしています。

しかしこれが韓国になると怨・恨はそれぞれ別の意味を持っているそうです。恨 (こん)は、仏教が教える煩悩のひとつで、自分の気に入らぬ人を怨み続ける心だそうです。 恨を心に持つ人は、これを押さえつけることができず、このような人は平常心を持つことができず、常に煩悶たる生活を送るとありました。そして怨はと言うと、怨はエンともコンとも読み、どちらも恨みと言う意味です。

韓国の文化大臣でもあった李御寧氏の恨(ハン)の文化論(韓国人の心の奥にあるもの)と言う本では、民話や歴史的なドラマを分析して日韓両国民の感性を比較しています。それによると、韓国文化の母体となっているものがそもそも「恨の文化」だと言います。日本語では恨みは怨・恨と言う字が当てられ、ほぼ同じ意味で使われますが、韓国ではその言葉は区別されなければならないと言います。

すなわち怨は他人に対して抱く感情であって、外部の何者かについて抱く感情の塊だそうです。これに対して恨はむしろ自分の内部に沈殿していく情の塊だと言います。怨みは熱っぽく復讐によって晴れますが、恨は冷たく解くことができないそうです。怨みは憤怒、であり、恨は悲しみだと言います。怨みは火のように炎々と燃えるが、恨は雪のように積もるだけだと言います。

恨が冷たく雪のように心のうちに積もり続けているものなら、いつかそれは溶けることはあるのでしょうか?それとも長く積もり続けたことで氷河のように固まり溶けることはないのでしょうか?このように韓国人の心に積り続ける恨の感情は、日本人の祟りとか鎮魂の感情とは違っていると言います。

そしたものが、日韓の間には溶けきれない壁としてはだかっているのかもしれません。確かに韓国の嫌いな国に日本が上げられています。しかし日本と言う国は嫌いだが日本人個人としては個々の付き合いを通して親しみを感じているとも言っているそうで、必ずしも嫌いと言うわけでもないのです。好きだと言う人もいるでしょう。この屈折した感情は「恨の500年」と言う文化から来ているのかもしれません。