オバマ大統領は27日、現職の米大統領として初めて広島を訪問する。71年前の原爆投下で被爆しながらも生き残った約1000人の日系米国人は、この訪問を独特な思いで見ることになるでしょう。彼らは自分の国が投下した原爆に苦しめられたのだから。
その中の一人にヤマオカ・メイさん(87)がいます。カリフォルニア州ローダイで生まれたヤマオカさんは第2次世界大戦がぼっ発した当時、日本の学校に通うため広島に滞在中でした。1945年の原爆投下を生き抜き、その後カリフォルニア州の自宅に戻ったヤマオカさんはそこで、この最も辛い記憶を60年間封印してきました。
ヤマオカさんがインタビューや家族へ宛てた書き物などを通して、自身の経験を詳しく語り始めるようになったのはここ10年くらいのことです。父親と一緒に2日間妹を捜し回り、焼けただれてボロボロになった遺体の山の上にようやく死んだ妹を見つけたこと。妹だと分かったのは、米国で買った肌着に施されていた刺しゅうが目に入ったからだったからです。
被爆した影響で体が弱りつつあった父親は高校を卒業させるためにヤマオカさんを米国に帰しました。戦時中、米国で日系人の強制収容所に入れられていた経験を持つヤマオカさんの夫は、家族が日系であることを話したがらなかったといいます。
ヤマオカさんは「(夫は)差別を肌で感じてきた。米国人は原爆について聞きたくないと思っていると彼は話していた。だから多くを語らなかった」と話しています。
オバマ大統領の広島訪問は、戦後の日米関係の劇的な変化と、核の不拡散という重要な政策目標の象徴となるだろう。大統領が原爆投下について正式な謝罪をしないことは、少なくとも一部の被爆者にとっては問題ではないようです。
ハワイ生まれの被爆者であるサラシナ・ジュンジさんは「オバマ大統領は謝るべきかどうかと言われているが、一番お願いしたいのは、原爆の被害がいかに惨めなものだったのかを理解してもらいたい」ことだと話しています。サラシナさんは朝鮮戦争で戦った経験も持ち、オバマ大統領に絵はがきを送って広島訪問を促す日系米国人の取り組みを率先した人物です。
20世紀初頭、日本は多くの移民を米国に送りました。中でも広島県からの移民は多くいました。渡米して新たに米国人になった日系移民たちは裕福になると、子供たちに言葉や文化を学ばせるため、祖国に数年滞在させることも多かったのです。
ミシガン州立大学で日系米国人の被爆者に関する研究を行っているワケ・ナオコ准教授によると、日本では学徒動員に積極的に参加した若い日系米国人もいました。一方、上空に飛来する米軍のB29爆撃機を、戻りたいと切望する国からの友人や救済者として眺めた人もいたといいます。
広島と長崎には数千人の日系米国人が暮らしていました。原爆で多くが犠牲となった。生き残った人々の多くは「被爆者」として米国に戻りました。そして彼らは差別の対象となったのです。
数十年もの間、多くの被爆者はその事実を隠し通しました。就職や結婚に不利になるのを恐れてのことです。終戦は米国における10万人を超える日系米国人強制収容の終わりも意味していました。それが状況をより複雑なものにしました。戦後、米国民の大半は広島と長崎に原爆を投下するというハリー・トルーマン大統領の決断について、日米両国の犠牲者を抑えるために正当な決断だったと感じていた。歴史家は10万人から25万人が原爆の犠牲になったとみています。
現在、米国に暮らす被爆者は日本政府からわずかな賠償金と医療面での援助を得ていて、年2回、日本から放射線の専門家が渡米していますが、それもこれに含まれています。日本政府は戦時中に強制労働者として朝鮮半島から日本に連れてきた数千人も被爆者として認めています。
米国政府は核実験で被爆した退役軍人や、ウラン採鉱で被曝した人とは異なり、彼らを正式には被爆者として認めていません。
4歳の時に広島で被爆した中野博子さんは「戦争で他にも苦労した人は沢山いる。被爆者だからと特別扱いされるのは心苦しい。あれをして、これをしてと裁判で勝ちとっていくようなことはあまりしない」と話りました。
中野さんは崩壊した家の壁の下から引っ張り出されました。兄のひとりは学校から戻ってきませんでした。その後は、家族のなかで原爆のことは話さないという暗黙の合意があったといいます。中野さんは60代で髄膜腫と甲状腺異常を患いました。
ヤマオカさんは9歳だった1938年に一家が日本に渡ったときのことを語ってくれました。日本人労働者向けの下宿を含むカリフォルニア州の3軒の家は親戚に預けてきました。そして戦争がぼっ発しました。
1945年8月、ヤマオカさんは学徒動員で働いていました。原爆で命を落とさなかったのは、タバコ工場の中で高校の同級生と一緒に作業をしていたためです。13歳だった妹のマナさんは屋外で作業をしていました。ヤマオカさんと父親は長い捜索の末に、マナさんの遺体を爆心地の近くで見つけました。
ヤマオカさんは「私は米国人を少しも恨んではいない。あれは戦争だったし、両国とも自分たちは正しいことをしていると考えていた」と話します。「ただ、広島が原爆の標的となったのは不運だった。私たちは言わば一種のモルモットになった」と。(ソースWSJ」
その中の一人にヤマオカ・メイさん(87)がいます。カリフォルニア州ローダイで生まれたヤマオカさんは第2次世界大戦がぼっ発した当時、日本の学校に通うため広島に滞在中でした。1945年の原爆投下を生き抜き、その後カリフォルニア州の自宅に戻ったヤマオカさんはそこで、この最も辛い記憶を60年間封印してきました。
ヤマオカさんがインタビューや家族へ宛てた書き物などを通して、自身の経験を詳しく語り始めるようになったのはここ10年くらいのことです。父親と一緒に2日間妹を捜し回り、焼けただれてボロボロになった遺体の山の上にようやく死んだ妹を見つけたこと。妹だと分かったのは、米国で買った肌着に施されていた刺しゅうが目に入ったからだったからです。
被爆した影響で体が弱りつつあった父親は高校を卒業させるためにヤマオカさんを米国に帰しました。戦時中、米国で日系人の強制収容所に入れられていた経験を持つヤマオカさんの夫は、家族が日系であることを話したがらなかったといいます。
ヤマオカさんは「(夫は)差別を肌で感じてきた。米国人は原爆について聞きたくないと思っていると彼は話していた。だから多くを語らなかった」と話しています。
オバマ大統領の広島訪問は、戦後の日米関係の劇的な変化と、核の不拡散という重要な政策目標の象徴となるだろう。大統領が原爆投下について正式な謝罪をしないことは、少なくとも一部の被爆者にとっては問題ではないようです。
ハワイ生まれの被爆者であるサラシナ・ジュンジさんは「オバマ大統領は謝るべきかどうかと言われているが、一番お願いしたいのは、原爆の被害がいかに惨めなものだったのかを理解してもらいたい」ことだと話しています。サラシナさんは朝鮮戦争で戦った経験も持ち、オバマ大統領に絵はがきを送って広島訪問を促す日系米国人の取り組みを率先した人物です。
20世紀初頭、日本は多くの移民を米国に送りました。中でも広島県からの移民は多くいました。渡米して新たに米国人になった日系移民たちは裕福になると、子供たちに言葉や文化を学ばせるため、祖国に数年滞在させることも多かったのです。
ミシガン州立大学で日系米国人の被爆者に関する研究を行っているワケ・ナオコ准教授によると、日本では学徒動員に積極的に参加した若い日系米国人もいました。一方、上空に飛来する米軍のB29爆撃機を、戻りたいと切望する国からの友人や救済者として眺めた人もいたといいます。
広島と長崎には数千人の日系米国人が暮らしていました。原爆で多くが犠牲となった。生き残った人々の多くは「被爆者」として米国に戻りました。そして彼らは差別の対象となったのです。
数十年もの間、多くの被爆者はその事実を隠し通しました。就職や結婚に不利になるのを恐れてのことです。終戦は米国における10万人を超える日系米国人強制収容の終わりも意味していました。それが状況をより複雑なものにしました。戦後、米国民の大半は広島と長崎に原爆を投下するというハリー・トルーマン大統領の決断について、日米両国の犠牲者を抑えるために正当な決断だったと感じていた。歴史家は10万人から25万人が原爆の犠牲になったとみています。
現在、米国に暮らす被爆者は日本政府からわずかな賠償金と医療面での援助を得ていて、年2回、日本から放射線の専門家が渡米していますが、それもこれに含まれています。日本政府は戦時中に強制労働者として朝鮮半島から日本に連れてきた数千人も被爆者として認めています。
米国政府は核実験で被爆した退役軍人や、ウラン採鉱で被曝した人とは異なり、彼らを正式には被爆者として認めていません。
4歳の時に広島で被爆した中野博子さんは「戦争で他にも苦労した人は沢山いる。被爆者だからと特別扱いされるのは心苦しい。あれをして、これをしてと裁判で勝ちとっていくようなことはあまりしない」と話りました。
中野さんは崩壊した家の壁の下から引っ張り出されました。兄のひとりは学校から戻ってきませんでした。その後は、家族のなかで原爆のことは話さないという暗黙の合意があったといいます。中野さんは60代で髄膜腫と甲状腺異常を患いました。
ヤマオカさんは9歳だった1938年に一家が日本に渡ったときのことを語ってくれました。日本人労働者向けの下宿を含むカリフォルニア州の3軒の家は親戚に預けてきました。そして戦争がぼっ発しました。
1945年8月、ヤマオカさんは学徒動員で働いていました。原爆で命を落とさなかったのは、タバコ工場の中で高校の同級生と一緒に作業をしていたためです。13歳だった妹のマナさんは屋外で作業をしていました。ヤマオカさんと父親は長い捜索の末に、マナさんの遺体を爆心地の近くで見つけました。
ヤマオカさんは「私は米国人を少しも恨んではいない。あれは戦争だったし、両国とも自分たちは正しいことをしていると考えていた」と話します。「ただ、広島が原爆の標的となったのは不運だった。私たちは言わば一種のモルモットになった」と。(ソースWSJ」