かつて世界第4位の広さを誇った内陸湖が干上がり、消滅の危機に瀕しています。その環境変化が及ぼす影響は、私たちに何を伝えているのでしょうか。
カラカルパクスタンは、ウズベキスタン国内にある自治共和国です。その砂だらけの断崖から眺める風景は、普通の砂漠と何ら変わりありません。しかし、よく見ると貝殻の山があり、砂地には打ち捨てられ、さびついた漁船が5、6隻鎮座しています。ここはかつて、アラル海に突き出た半島の突端だったところです。1960年代まで、アラル海は世界で4番目に大きな内陸湖で、面積は約6万7000平方キロもあったのです。
1987年に南北に分断されたアラル海は、その後、異なる運命をたどることになります。2005年に完成したコクアラル・ダムは分断に拍車をかけ、北の小アラル海に復活の兆しをもたらしたものの、南の大アラル海にはシルダリヤ川の水が入らなくなってしまいました。そして2014年までには、灌漑(かんがい)と干ばつで、大アラル海東側の浅い部分は完全に干上がってしまったのです。
カザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海には、長い間、アムダリヤ川とシルダリヤ川という二つの大河が注いでいました。流出する川がなく、流入と蒸発が自然に釣り合うことで、アラル海の水位は一定に保たれてきました。紀元前4世紀にはすでに、これらの川は中央アジアの人々の生活に欠かせない存在となっていたのです。中国とヨーロッパを結ぶシルクロード沿いの集落が何世紀にもわたって繁栄できたのは、アラル海と大河の河口に広がるデルタ地帯のおかげだったのです。
状況が変わったのは、1920年代初めに一帯がウズベク・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦に組み込まれてからです。スターリンは中央アジア一帯を綿花の大生産地にしようと決めたのですが、大量の水を必要とする綿花栽培は、この乾燥した気候の土地には不向きだったのです。そこで世界史上でも類を見ない壮大な計画がもちあがった結果、全長数千キロもの運河を手掘りで建設し、アムダリヤ川とシルダリヤ川の水を周辺の砂漠に引いてしまったのです。
1960年代に灌漑用の運河が1本、また1本と造られていくうちにアラル海の水位は急激に下がり続け、1987年にはアラル海は水位の低下で南北二つに分断されてしまいました。カザフスタンの小アラル海と、カラカルパクスタンの大アラル海です。2002年には、大アラル海の水位が下がり、さらに東西に分かれてしまいました。そして2014年7月に、その東側は完全に干上がってしまったのです。
悲惨な経過のなかで唯一の明るいニュースは、小アラル海に復活の兆しが見えてきたことです。2005年、カザフスタン政府は世界銀行の支援を得て、小アラル海南岸に全長13キロにわたるコクアラル・ダムを建設し、シルダリヤ川の水を蓄えられるようにしました。その結果、小アラル海と、そこに生息する生き物が、予想を上回る速さで回復しつつあるのです。しかしその一方で、ダムによって重要な水源を断たれた大アラル海は、もはや消えていくしかないのです。(ナショナルグラフィックより)
そして今、ひえ上がった大アラル海は塩の混じった砂漠とかし塩害にさいなまれているのです。
カラカルパクスタンは、ウズベキスタン国内にある自治共和国です。その砂だらけの断崖から眺める風景は、普通の砂漠と何ら変わりありません。しかし、よく見ると貝殻の山があり、砂地には打ち捨てられ、さびついた漁船が5、6隻鎮座しています。ここはかつて、アラル海に突き出た半島の突端だったところです。1960年代まで、アラル海は世界で4番目に大きな内陸湖で、面積は約6万7000平方キロもあったのです。
1987年に南北に分断されたアラル海は、その後、異なる運命をたどることになります。2005年に完成したコクアラル・ダムは分断に拍車をかけ、北の小アラル海に復活の兆しをもたらしたものの、南の大アラル海にはシルダリヤ川の水が入らなくなってしまいました。そして2014年までには、灌漑(かんがい)と干ばつで、大アラル海東側の浅い部分は完全に干上がってしまったのです。
カザフスタンとウズベキスタンにまたがるアラル海には、長い間、アムダリヤ川とシルダリヤ川という二つの大河が注いでいました。流出する川がなく、流入と蒸発が自然に釣り合うことで、アラル海の水位は一定に保たれてきました。紀元前4世紀にはすでに、これらの川は中央アジアの人々の生活に欠かせない存在となっていたのです。中国とヨーロッパを結ぶシルクロード沿いの集落が何世紀にもわたって繁栄できたのは、アラル海と大河の河口に広がるデルタ地帯のおかげだったのです。
状況が変わったのは、1920年代初めに一帯がウズベク・ソビエト社会主義共和国として、ソビエト連邦に組み込まれてからです。スターリンは中央アジア一帯を綿花の大生産地にしようと決めたのですが、大量の水を必要とする綿花栽培は、この乾燥した気候の土地には不向きだったのです。そこで世界史上でも類を見ない壮大な計画がもちあがった結果、全長数千キロもの運河を手掘りで建設し、アムダリヤ川とシルダリヤ川の水を周辺の砂漠に引いてしまったのです。
1960年代に灌漑用の運河が1本、また1本と造られていくうちにアラル海の水位は急激に下がり続け、1987年にはアラル海は水位の低下で南北二つに分断されてしまいました。カザフスタンの小アラル海と、カラカルパクスタンの大アラル海です。2002年には、大アラル海の水位が下がり、さらに東西に分かれてしまいました。そして2014年7月に、その東側は完全に干上がってしまったのです。
悲惨な経過のなかで唯一の明るいニュースは、小アラル海に復活の兆しが見えてきたことです。2005年、カザフスタン政府は世界銀行の支援を得て、小アラル海南岸に全長13キロにわたるコクアラル・ダムを建設し、シルダリヤ川の水を蓄えられるようにしました。その結果、小アラル海と、そこに生息する生き物が、予想を上回る速さで回復しつつあるのです。しかしその一方で、ダムによって重要な水源を断たれた大アラル海は、もはや消えていくしかないのです。(ナショナルグラフィックより)
そして今、ひえ上がった大アラル海は塩の混じった砂漠とかし塩害にさいなまれているのです。