工作台の休日

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1966年のル・マン24時間レース 

2020年02月23日 | 自動車、モータースポーツ
 前回のブログでも少し触れましたが、映画「フォードvsフェラーリ」に合わせて、映画のハイライトとなった1966年のル・マン24時間のことを調べておりました。そんな中「オートスポーツ」誌が2月8日号で別綴じとして「1966年ル・マン24時間の真実」という特集を掲載しており、私も買ってみました。この特集記事では、映画であまり触れられなかったマシンができるまでの過程も含めて知ることができます。1966年ル・マンの様子をとらえた写真など、興味深い内容も多いのですが、別冊の裏表紙に掲載されたレースのエントリーリストとリザルトを追っていきますと、まさにこの時代のモータースポーツの紳士録という感があり、特に興味深いものでした。
 24時間レースということで、当然一人でレースを完遂することはできないわけで、この時代は2人交代でレースをしていました(現在は3人です)。フォードの顔ぶれから見ていきましよう。
 映画の主役の一人、ケン・マイルズのチームメイトはデニス・ハルムでした。この時代に多く渡欧した南半球出身のレーサーの一人で、ニュージーランド出身でした。F1でもブラバム、初期のマクラーレンチームに在籍し、1967年にはブラバムのマシンに乗り、F1でチャンピオンとなっています。1966年のハルムはF1、ル・マンだけでなく、F2にも乗っていました。当時はF1とF2の掛け持ちということも行われており、F1ドライバーも多数出場していたのです。ハルムはF2でもブラバムチームに在籍していましたが、エンジンはホンダでした。ホンダは第一期F1参戦時に欧州のF2にも参戦しており、車体まで作っていたF1とは違ってF2では既存チームにエンジンを供給する形をとっていました。F1と同様、当初は相当苦労と失敗を続けていましたが、1966年には苦労が実を結び、エースのジャック・ブラバムとハルムで11連勝を成し遂げています。また、ハルムはそれまでもホンダと縁があり、1964年にはホンダS-600でニュルブルクリンク500kmに出場しています。
 マイルズ・ハルム組以外のフォードMkⅡのドライバーの顔ぶれもなかなかです。
 マイルズ・ハルム組と並ぶエース格のブルース・マクラーレン、クリス・エイモン組から紹介しましょう。ブルース・マクラーレンは今も続くマクラーレンチームの創始者であり、F1では既に自身のチームを興していましたが、ル・マン24時間ではフォードのマシンを駆っていました。エイモンもF1で活躍した選手です。F1では優勝することはかなわなかったのですが、ニュージーランド出身のこの二人の能力をフォードが評価していたということなのでしょう。
他にも、第一期ホンダF1の最初のドライバーだったロニー・バックナム、空冷ポルシェF1に勝利をもたらしたダン・ガーニー(いずれも米国)、先日のブログでマクラーレンMP4/8の話をした際に触れましたが、モナコGP、ル・マン、インディを制したグラハム・ヒル(英)らもフォードMkⅡのステアリングを握っています。ヒルはこの年のル・マンの直前にインディ500に出走、荒れた展開のレースを制してのル・マン入りでした。F1、インディ500、ル・マンと主要なレースを掛け持ちというのは今では考えられないことですね。1991年、マツダのル・マン初優勝のメンバーの一人だったジョニー・ハーバートはF1と全日本F3000、ル・マンという掛け持ちをしていましたが、それも当時としては珍しい方でした。
 他にもマリオ・アンドレッティ、ルシアン・ビアンキの二人がコンビを組んで出走しています。マリオ・アンドレッティの子供がセナとチームメイトだったマイケルで、という話は先日もふれましたが、1966年のル・マンはマリオ・アンドレッティにとって初参戦でした。この時点では北米を中心に活躍する若手ドライバーで、F1デビューもこの2年後です。ルシアン・ビアンキですが、ル・マンで後に優勝するなど、実績のあるドライバーでした。ルシアンの弟、マウロ・ビアンキもこのレースにフランスのアルピーヌのマシンを駆って完走しています。そしてこのマウロの孫が、先年鈴鹿の日本GPでの事故が元で亡くなったジュール・ビアンキでした。
 フォードは従来型のGT40も持ち込んでいました。後にル・マンで6回も優勝することになるジャッキー・イクス(ベルギー)も、ル・マンデビューのこの年にフォードをドライブしていました。また、フレンチブルーの車体でおなじみのリジェ・チームのオーナーだったギ・リジェもこの時代はまだドライバーであり、フォードに乗っていました。他にもフォーミュラカー、スポーツカーで活躍したピーター・レブソンなどの名前も見えます。前年にフェラーリでル・マンを制したドライバーの一人であり、後にF1でチャンピオンとなった(ことを天国で知ることになる)ヨッヘン・リントもベテランのイネス・アイルランドと組んで出走しています。
 迎え撃つフェラーリ勢もバンディーニはF1も含めてフェラーリのエースでしたし、スカルフィオッティとパークス組の二人はこの年のF1でも活躍しています。F1、ル・マンだけでなく、この頃はシチリア島で開催されるスポーツカーによる「公道ラリー」とでもいうべき「タルガ・フローリオ」というレースもありました。この時代のドライバーはさまざまな車をドライブする能力に長けてなければならないわけですから、今とは違った能力が求められていたわけです。他にもフェラーリにはP.ロドリゲス(メキシコ)とギンサー(米)がコンビを組んでいます。ギンサーは前年までホンダF1をドライブし、ホンダに初勝利をもたらした人物です。フェラーリもフォードほどの物量作戦とは行かなかったのですが、前年の覇者、マステン・グレゴリー(米)もフェラーリをドライブしていますので、実力のある選手を揃えていました。しかし、ル・マン直前にエースだったジョン・サーティース(英)がチームと対立してチームを離脱しています。サーティースは翌年ホンダに迎え入れられ、ホンダの二勝目に貢献することになります。
 他にもアメリカのコンストラクター、シャパラルをドライブしたのはル・マン3度の優勝経験のあるフィル・ヒル(米)と当時珍しかった北欧出身のジョー・ボニエ(スウェーデン)のコンビで、フィル・ヒルはF1でアメリカ人初のチャンピオンを取った人物です。
 一人ひとり挙げていくとキリがありませんのでこのあたりにしますが、実に多彩な顔ぶれだったことがお分かりいただけたでしょうか。
 映画の話に少しだけ戻りますが、映画の製作にガーニー、バックナム、フィル・ヒルの子息も参加されており、父と同じレーサーの道を歩んでいるアレックス・ガーニーは父・ダン・ガーニー役を演じています。
 そして映画のもう一人の主役、キャロル・シェルビーについても、ドライバーとしての実績を再発見する機会となりました。シェルビーの名前は車を作る人としてのイメージが強かったのですが、映画でも描かれたとおり、1958年にル・マン優勝を果たしています。また、同じ頃にマセラーティでF1をドライブしています。この時代のマセラーティのマシンはまとまった台数が製造され、様々なドライバーがレースに出場していました。
 キャロル・シェルビーはその昔に日本を訪れ、ホンダの工場を訪問している写真が残されています。第一期ホンダF1の監督だった故・中村良夫氏の「私のグランプリ・アルバム」によれば、シェルビーはリッチー・ギンサーの案内で訪れたとあり、背広姿のシェルビー、ギンサーと作業服姿の本田宗一郎、中村良夫両氏がカメラに収まっている姿を見ることができます。中村氏は後にアメリカを訪れた際にシェルビー・コブラをドライブしたとあり、その時にシェルビー・コブラのテストを担当していた「ケン・マイルズのヘルメットを借りて・・」とあります。シェルビーとマイルズの関係がうかがえるエピソードです。
 さて、この映画で描かれた1966年ですが、日本ではビートルズ来日といった出来事もありました。モータースポーツはまだよちよち歩きだった時代ですが、春にはF1のチャンピオン、ジム・クラークが富士スピードウェイで走行する機会があったほか、秋にはインディカーのレースを「日本インディ」として富士スピードウェイで開催、といったこともありました。
 こうしてみると一つのレースに様々な人生が交錯しているものです。そしてそのことが子供たちの世代まで受け継がれ、また交錯しているというあたりも(モータースポーツに限りませんが)、歴史をたどり、書籍を紐解く楽しさであったりします。
 モータースポーツの話が多くなりましたが、そろそろそれ以外の乗り物の話に移りたいと思います。

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