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ひねもすのたりにて

阿蘇に過ごす日々は良きかな。
旅の空の下にて過ごす日々もまた良きかな。

名も知らぬ駅に来ませんか -2-

2008年05月07日 | 「名も知らぬ駅」に来ませんか
「いらっしゃいませ。」
「おや、今夜は一人ですか?」
滅多に一人では来ることのないYさんが顔を出したのは、土曜の夜、もう11時になろうかという時刻だった。
「ホント、めずらしいよね、Yさんが一人って。」
おしぼりを渡しながらマキちゃんがYさんに向かって言う。
「たまにはね。」
Yさんは軽く受け流して、おしぼりで手を拭くと、店内を見渡した。

土曜の今の時間帯としては客は割と少なく、3人と2人のグループがそれぞれ一組ずつだった。
どちらにも、何度か店に来たことのある顔がある。
「Yさんいつものでしょう?」
とマキちゃん。
「そうね・・・。うんっ。」
とYさん。
Yさんの「いつもの」は、ギムレットである。

もう2年くらいになるだろうか、
それまでのYさんの「いつもの」は、ソルティ・ドッグだった。
2年ほど前のある晩、店にやってきたYさんが、めずらしく「ギムレット」を注文した。
マキちゃんが、一瞬驚いたような顔をして、
「ソルティ・ドッグじゃないんだ。ふ~ん。」
と言って、不振な顔のままでわたしを振り返った。

ソルティ・ドッグなら自分でも作れるが、ギムレットとなるとそうはいかない。
シェイクするカクテルは、わたしの番であるというマキちゃんの仕草だ。
ギムレットは、ドライジンをベースにフレッシュライムを加えてシェイクする。
アメリカのハードボイルド作家、レイモンド=チャンドラーが、
小説「長いお別れ」の中で、主人公フィリップ・マーロウに、
「ギムレットには早すぎる」の名セリフを言わせて、一躍有名になったカクテルである。
原文は確か、「I suppose it's a bit too early for a gimlet」だった。

ジンとライムの簡単な組み合わせだけに、バーテンのシェイクの技量が問われる。
そのことをYさんは何かの小説で読んだらしく、
その夜から今に至るまで、一杯目はギムレットと決めている。
どうやら、わたしの腕が落ちてないかいつも気にしてくれている、とわたしは好意的に解釈している。
こういうことは何となく知れてしまうようで、
あるときマキちゃんが、
「Yさん、ギムレットでマスターの腕を判断しているんでしょう。」
と言うと、Yさんは、照れたように笑みを浮かべて、
「なーに、マスターの腕がおちないよう協力しているだけさ。」
と言って、2杯目のソルティ・ドッグに口をつけた。

最近は、ほんとうにシェイクするカクテルをオーダーされることは少ない。
1日中オーダーのないこともよくある。
バーテンは、シェイクするからプロであると、わたしは秘かに思っている。
Yさんは、バーテンにとって有難い客なのだ。

Yさんには、これも「いつもの」つまみを出す。
スライスした八代産の塩トマトに、あるものを乗せた簡単なつまみである。
Yさんは、
「これこれ、マスター、やっぱり塩トマトじゃないと駄目なんだよね。」
八代産の塩トマトは、一種の地域ブランドで、甘みが強い。
干拓地で作られたところから、トマトが十分水を吸いきらず、その分味が濃くなったといわれている。
本来、トマトは極限まで水を少なくした方が美味いのだ。

ギムレットに合わせたこのつまみ。
トマトの上に何を乗せるかですって。
もしそれを食べたかったら、一度、名も知らぬ駅に来ませんか。

※この話及び登場人物も基本的にはフィクションです。

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