世界変動展望

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30代東海三県娘の中の一人の大変な悪さについて

2013-03-03 19:22:55 | 社会

先日友人と飲みにいった店で店員から次の言葉を聞いた。

「私達東海三県娘で~す。」

みんな30代の東海地方出身(一部自称)の女性。30代で娘か?そういうツッコミは置いておくとして今回問題にしたいのはそれではない。

東海地方というと、中部地方で太平洋岸の地域を指すと理解している。昔は神奈川県も東海だったが、今は首都圏に含まれるので東海ということはない。だから、東海三県といった場合、私は静岡県、愛知県、三重県の三県を指すと思っている。無理にでも、そう思っている。なぜ無理にでもそう思っているかは後述。辞書でも東海地方は「本州中央部の太平洋側の地方。ふつう、静岡・愛知・三重の3県と岐阜県の南部をいう。(大辞泉より)」と載っているし、大辞林でも同様だから私の理解が最も適切のはずだ。

では、この店員たちの出身地はというと、三重県、愛知県、そして岐阜県だった。岐阜県が東海地方・・・。現代では確かに多くの人にそう思われている。政府は東海三県を三重、愛知、岐阜の三県としているようだし、メディアでも同じだ。岐阜県のテレビを見ると愛知県でも流れているCMが流れているし、ニュースでも「東海三県(愛知、岐阜、三重)のニュースをお伝えします。」という。

なぜ岐阜が東海三県かというと、大都市・名古屋と距離が近く経済的、文化的に大きく影響を受けているからだろう。名古屋駅から岐阜駅まではJR東海道本線特別快速で約19分(450円)でつくし、近い。実際に岐阜県でも名古屋寄りの地方は名古屋の影響でまるで名古屋の一地域であるかのような雰囲気だ[2]。大辞泉などで「岐阜県の南部をいう」と記載されているのはそのためだろう。現代では岐阜県が東海地方であることは正しく、上の東海三県娘たちのように誰もが疑いなく「東海三県=三重、愛知、岐阜」だと思っている。

しかし、私はこれを聞いていつも違和感を覚えるし、悲しくなる。「なぜ岐阜が東海なの?」 心の中でそう思う。岐阜が東海というのは、言葉の意味や地理的、土地の特色、歴史的にいってもおかしなことだ。

そもそも東海とは辞書にもあるとおり「本州中央部の太平洋側の地方」をいう。要するに京都から見て東にある海沿いの地域を東海といった。昔はまさに東海道といった。具体的には伊勢(三重)、尾張(愛知)、駿河(静岡)といった地域。

では美濃(現在の岐阜県南部)は東海かというと、明らかに東"海"ではなく、東"山"だ。美濃はまさに東山道だった。現在の岐阜県は昔の国名では美濃(岐阜県南部)と飛騨(岐阜県北部)だが、どちらも東山道で、こちらの方が適切な表現だ。歴史的にいっても、岐阜は東海ではなく東山だ。字義的、地理的に考えても、岐阜は全然海に面してないのだし、東"海"というのはおかしい。

では土地の特色はどうか。確かに現在では大都市・名古屋の影響では名古屋に近い地域はまるで名古屋の属国のような感じになっている。しかし、岐阜の本来的な特色はこういうものではなかったはずだ。私は下呂温泉(岐阜県下呂市)、岐阜県高山市にいったことがある。高速道路を降りて途中から続く一本道を約60kmほど北上すると下呂温泉、さらに約40kmほど北上すると高山市だ。道中ずっと山道が続き、道の横を深い緑色の川が流れていていた。ものすごく深そうな感じの水地だった。岐阜県の大部分は名古屋よりも長野県に近い印象で、まさに山国だ。

下呂や高山(その1,その2,その3)は自然豊かでとてもよい土地だった。特に高山市の街並みは古来のよい街並みでいい感じだ。岐阜の特色や風土は伝統的には下呂や高山のような感じで、東海ではなく明らかに東山だ。これは間違いなく後世に残すべき岐阜本来のよさだ。

上の東海三県娘たち、特に岐阜県出身者が何の疑いもなく「東海三県娘」という言葉を使っている様は大変悪いというか、まずいとういか、問題点があるような気がする。勿論道義的に悪いという意味ではなく、文化を守るという点で大変危機を感じるということだ。

文化の根源は言語であり、言語が崩壊すれば文化もまた崩壊すると文献で読んだことがある。現代では上の東海三県娘たちのように岐阜は名古屋の属国となったため、人々は何の疑いもなく岐阜を東海とよぶ。愛知県出身者も三重県出身者も「東海三県娘」という様に何の疑い持っていない。それは現在では岐阜が完全に名古屋の属国であり、岐阜本来の伝統的な風土やよさもまた人々の心から完全に消え去ってしまったような印象を与える[2]。だから私は東海三県娘たちが何の疑いもなく、その名前を使っている様が悲しい。私は文化を忘れないため、最後の一人になっても岐阜は東海ではなく、東海三県は静岡県、愛知県、三重県を指すと思おうと心に誓った。上で"無理にでも"と言った理由はこれだ。

冗談抜きで、現代の名古屋寄りの岐阜の人たちは、岐阜を東海とよぶように、まさに自分たちの地域が岐阜ではなく名古屋の一地域であるかのような民族性を持っている。心も体も文化も完全に名古屋の属国になっている。ぜひ北上して岐阜の伝統的かつ固有の風土を感じてほしい。それは決して名古屋に侵食を許してはならない守るべき風土のはずだ。

東山地方(山梨県・長野県・岐阜県)という言葉は今でもあるけれど、私が会った岐阜県出身者はみんな東海地方という。ああ、悲しいなあ。

思えば似たような形で整合性、日本の伝統的な文化破壊防止の観点で守っていることにひな祭りの人形配置と歌がある。

ひな人形の配置だが、現代では次のように置くのが一般的。

 画像1 現代的なひな人形配置 - このサイトより
上から内裏雛、三人官女、五人囃子、随身(左大臣、右大臣)、仕丁(泣き上戸、笑い上戸、怒り上戸)

特徴的なのは男雛と女雛が人形からみてそれぞれ右、左に配置されていること。これは昔から違和感を感じていた。なぜなら、左大臣、右大臣(上から四段目)の配置と整合的でないからだ。見てわかると思うが、左大臣は右大臣より年長で、偉いことはすぐわかる。史実として左大臣は右大臣より高位だ。つまり、日本の伝統では右よりも左の方が高位なのだ。では男雛と女雛はどちらが高位かといえば、現代では通じる考えではないが、男性上位ということで男雛が高位だ。男雛女雛は天皇と皇后であるから、男雛が高位なのはその意味でも当然だ。

従って、左大臣、右大臣の関係からいえば、男雛が左に配置されなければ整合的でない。だから違和感がある。なぜ、現代では男雛を右に配置しているかというと、明治になって西洋文化の影響を大きく受けたからだ。西洋では右が上位で、左が下位という文化で、男性上位の風習から右側が男性、左側が女性という風習となった。西洋化の影響で大正天皇以降、天皇が右、皇后が左に位置することが慣習となったため、現代では右が上位となり、画像1のような配置となった。結婚式でも新郎が右側に位置するのも同じ理由。現代の影響で岐阜を東海とよぶのと似た部分がある。

昔は天皇が左だったし、結婚式も男性が左だった。当然、男雛も左に配置していた。

画像2 古来的なひな人形配置 - このサイトより

現代でも老年者や京都地方は画像2のように配置するという。こちらの配置の方が整合的でよい。同じ趣旨のことは[1]で述べた。現代では右の方が高位だから、男雛を右に配置するというなら、左大臣も右に配置しなければおかしい。しかし、左大臣を右に配置したら左大臣ではないではないか。男雛を左に置かない限り整合性が保てない。雛人形は日本の伝統だし、西洋文化から切り離して伝統的な配置でよいのではないか。これは人形の配置の問題なので、たいした問題ではないが、次の歌の問題は文化が破壊されている様を感じる。

ひな祭りになると、女の子達がよく次の歌を歌う。

動画1 うれしいひなまつり (作詞:サトウハチロー、作曲:河村光陽)

「あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓(ふえたいこ)
今日はたのしい ひな祭り 」(このサイトより)

女の子達はひな祭りになると家にみんなで集まって、この歌を歌い、女の子達のお祭りを楽しく過ごすのだ。日本の伝統的なよさの一つ。

しかし、現代では男子たちが次のような歌をふざけて歌って、伝統を破壊しているという。

動画2 うれしいひなまつりの替え歌

「明かりをつけたら 消えちゃった
お花をあげたら 枯れちゃった
五人囃子は死んじゃった
きょうは悲しいお葬式」 (このサイトより)

「明かりをつけましょ 爆弾に
ドカンと一発 はげ頭
五人囃子は 死んじゃった
きょうは悲しいお葬式」 (このサイトより)

「男子たちがふざけて大声で替え歌を歌って、おひな祭りの邪魔をする!これじゃおひな祭りが台無しよ!!」と泣きながら訴える女の子達は何人もいただろう。男子達はせっかくの女の子達のお祭りを、ふざけて破壊し、痛快さを感じているのだ。いかにも子供じみたいたずらだ。

この歌の出所は探してみたが見つからなかった。一説には80年代に放送されていたドリフの「8時だヨ!全員集合」から発生したとされているが、はっきりとした根拠はつかめなかった。いずれにせよ近年になって、このような替え歌ができて、ひな祭りのよさや女の子たちの伝統的な楽しみを破壊するようになったのだろう。東山だったことを完全に消し去り、真に岐阜を東海とよばせるほど岐阜を文化的に属国にした現代の名古屋と似たようなところがあるかもしれない。

私は内裏雛の配置は男雛を左、女雛を右に置き、「うれしいひなまつり」もきちんと歌うことにしている。

ちなみに、「うれしいひなまつり」では「お内裏様とお雛様」という歌詞があり、これが原因で男雛をお内裏様、女雛をお雛様ということがあるが誤り。内裏とは天皇の住まいをいい、そこに居る貴人を内裏様といった。即ち、内裏雛とは男雛女雛の両方を指す。大辞泉にも端的に『男性の人形のみを指して「内裏」「お内裏様」と呼ぶのは誤り。』と記されている。

以上、現代文化の影響で整合性や伝統文化が破壊されていく様を論じた。東海三県娘もひな祭りも時代が進むとよい風習さえ破壊されていく様は何だか悲しい。ひな祭りでは男雛を左、女雛を右に配置するのはともかく、「うれしいひなまつり」は正しく歌うべきだ。「東海三県娘」も「東山海三県おばさん」と改称した方がいいんじゃないかな?(笑)

若さまで詐称してはいけませんよ(笑)

参考
[1]世界変動展望 著者:"雛人形の飾り方への違和感" 世界変動展望 2008.2.25
[2]岐阜県民からすると名古屋周辺地域の人は名古屋に目を向けており、まさに属国という感じだが、名古屋人の排他性から、名古屋市民は岐阜でも別地域と思っている人がいる。同化していると思っているのは岐阜人だけで、名古屋人は同化していないと思っているのだから、何か妙だ。ならば、なぜ名古屋人は岐阜を東海とよぶのか?少なくとも岐阜人が自分たちの伝統的な民族性や文化を忘れてしまったらまずい。

(本来発表日 2013-02-12 00:00:02)



1 コメント

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Unknown (Unknown)
2014-08-18 10:54:51
下らん戯言こうゆうおなごめちゃくちゃ嫌い(笑)
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