小説とノンフィクションを両方書く。
そのような執筆活動をしてきました。これまで書いた小説とノンフィクションは、タイトルベースでいうと(単行本から文庫化したものは1つとして数える)、3対2くらいです。言い換えると、6割小説、4割ノンフィクションですね。
どんなテーマなら小説になって、どんなテーマならノンフィクションになるのか、明確な説明はできません。強いて言えば、「現実的に訴えたい内容が明確にある場合」や「事実は小説よりも奇なり(現実的なものですでにセンス・オブ・ワンダー!)」場合は、ノンフィクションになるのだと思います。
前者は拙著でいえば、PTAについての書籍や色覚についての書籍が、それにあたるかと思います。一方、後者は、人類学についての書籍、生き物についての書籍がそれにあたるでしょう。
でも、こういったことって、厳密な話ではないですし、「今そこにあるセンス・オブ・ワンダー」を超えて、さらなる物語を書きたくなることだってあるわけです。これまでそれを明確にはしてこなかったけれど、はじめしてやってみました、というのが今回の小説『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)です。
先行作品である『ドードーをめぐる堂々めぐり 正保四年に消えた絶滅鳥を追って』(岩波書店)は、「1647年に日本に来ていたドードー」をきっかけにして、ドードーという現象を追いかけました。センス・オブ・ワンダーに満ちたノンフィクションになったと思っています。
でも、このテーマはそれだけでは足りないんです。「もっと、もっと」という心の声が最初からあって、ノンフィクションだけでなく小説も書くと、決めていました。順番としてどちらが先かという問題あったのですが、おそらくは、ノンフィクションが先で正解でした。
というのも、先の小説を書いていたら、あれもこれも小説の中に詰め込みたくなってしまい、ドードー版の『白鯨』(ハーマン・メルヴィル)になってしまうところでした。実際には『プチ白鯨』くらいですみました。
今回、つくづく思ったのですが、ものすごく時間をかけて書き上げたノンフィクションのテーマって、「その先」があるんですよね。そこにあるセンス・オブ・ワンダーをさらにふくらませるタイプのものです。
そして、予告しておきますが、「近代の絶滅」については、もう一つノンフィクションを書きます。今、岩波の「図書」で連載しているものをまとめる形で、前作のドードーだけではないもっと広い「近代の絶滅」についてのノンフィクションで、ステラーカイギュウ、ソリテア、リョコウバト、タスマニアタイガー、ヨウスコウカワイルカなどが出てきます。さらにその先に、別の小説があるのかどうかは……まだわかりません。
一方で、一度、ノンフィクションで描いた世界をベースに、小説を書くことは、これから再考していこうという気持ちが強くなってきました。『我々はなぜ我々だけなのか』で描いた人類学、人類進化、『色のふしぎと不思議な社会』で描いた色覚の話は、センス・オブ・ワンダーに満ちているし、『理論疫学者西浦博の挑戦 新型コロナから生命をまもれ!』とリンクするCOVID-19流行初期の話などは、記録文学としても重要なものになるのではないかと思うのです。
そんなこんなで、小説とノンフィクションを同じ題材で書くことについて、これからあらためて考えていこうという、きっかけにもなったのが、『ドードーをめぐる堂々めぐり』(岩波書店)と『ドードー鳥と孤独鳥』(国書刊行会)だったと、今考えている次第です。