黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

迷走する現代社会

2010-01-17 10:27:58 | 近況
 昨日、野暮用があってある公立の文学館関係者にあって昼食を共にしたのだが、文学館の現状について、あれこれ「愚痴」めいたことを聞くことになった。昨今の文学館が、公立の図書館や美術館、あるいは博物館などと同じように「経費削減」を旗印に、「文化」などには全く関心のないお役人や議員が、「運営予算」の学だけを問題にして、事業規模の縮小や図書(資料)購入費の削減を主張したり、人件費削減ということで学芸員や館の職員を減らそうと躍起になっている様については、これまでにも知り合いの関係者からよく聞いていたのだが、近頃その傾向はますます強まり、本音を言えば「もう、やってられない」ということであった。
 このような「地方(の文化)が危機的な状態にあることと裏腹に、中央(民主党政権)では「コンクリートから人へ」が政権の「売り」にしている民主党の「迷走」ぶりがこの頃目立つ。「コンクリート=箱物」どころではなく、文学館や図書館といった「文化・文学」の情報発信基地において「人=学芸員や職員」が削られる現実、これはこの社会がいかに「病んで」いるかを如実に物語る事態だと思うが、1国の宰相が母親から月に1500万円(1日に50万円)をもらい、実質的な指導者といわれる人が何億もの金で「秘書の宿舎」用に土地を買い、建物を造る現実を知ると、数千万単位の文学館や図書館の事業予算が減らされたりしていることとの「落差」を思い、暗澹たる気持にさせられる。
 半年前、国民は「新しい社会」になることを望んで、「政権交代」を実現したはずである。しかし、鳩山政権の有り様は、この国の「現実政治(リアル・ポリティックス)」が戦後64年間続いた「保守政権」と構造的には全く変わらないことを明らかにするものであった。「数は力」というのは、小沢一郎民主党幹事長が尊敬する元首相の田中角栄の哲学(政治信条)だったというが、「二大政党論」の提唱者・主導者の小沢一郎がやっていることは、まさに田中角栄と同じ「数は力」で現実政治を領道していこうとするもので、悲しいかな、民主党の本質(思想)が自民党(=保守本流)と何ら変わらないことを自ずと明らかにするものに他ならないものである。
 半年前「国民」が「政権交代」で望んだものは、そのような「保守党」と同じ轍を踏むような政治ではなかったはずである。余りにもロマンティック(センチメント・とっちゃんぼ坊や)過ぎて口にするのもはばかれるが、鳩山首相の「友愛」がもしも1789年のフランス革命時に言われた「友愛」と同じものであるとするならば、それは大まかを承知で言えば、「王様・貴族・一部の金持ち」の存在を否定し、社会的富を「市民」に分配する思想であったはずである。それなのに、21世紀の「友愛」は、何億という金に全く「鈍感」な政治指導者が「仲間をかばう」もの、つまりその「友愛」は「(貧富などの)格差」を解消するものではなく、情けないことに自分たちの立場が安泰であればいいという「ジコチュウ」的なものになってしまった、と国民に知らしめるものになってしまった。
 もちろん、一見「中立」で「正義の味方」のように見える検察や警察が、全て「正しい」わけではないことは、本質的には検察や警察が「権力」を守るために存在し、また足利事件などの「冤罪事件」を一つとっても明らかだから、その点では今回の小沢一郎を狙い打ちにした「政治資金規正法」違反による秘書3人の逮捕も、本当に正しいやり方だったのかどうか、ある新聞でコメンテーターが、今回の事件は「官僚=霞ヶ関」VS民主党政権だというようなことを言っていたが、穿った見方をすれば、案外的を射た意見なのではないか、と思った。「政治は伏魔殿」という言い方があるが、どこまで透明度が実現するか。
 それにしても、国民の支持を得て国会議員になった民主党の新人議員及び旧社会党に所属して議員たち、国民の期待を裏切って、このまま黙っていていいのか。もし検察のやり方に批判的ならば、堂々と小沢擁護の発言をすればいいので、沈黙は己の立場を危うくするものだ、と知るべきである。

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