先週、ある新聞の文化部から電話があって、今度の芥川賞候補作になっている「ボーダー&レス」(藤代泉)についてどういう意見を持っているか(芥川賞を受賞すると思うか)、等々について聞かれた。第46回文芸賞を「犬はいつも足元にいて」(大森兄弟)と共に受賞した本作は、たまたま入社した会社に「在日」がいて、いつのまにか友達になり日々を過ごすようになった、という作品であるが、電話取材で聞かれたのは、僕が『<在日>文学全集』(全18巻 勉誠出版刊)を名古屋の磯貝治朗氏と共に編集した関係で、在日文学に詳しいだろう思われてのことであった。
確かに、在日作家の李恢成とはかなり親しく、金石範さんや梁石日さんなどとも親しくさせていただいているということもあり、普通の批評家や近代文学研究者(大学教師)などよりは在日文学について詳しいと言えるかも知れない。しかし、文化部記者が一番に聞きたかった「日本人が在日に対して、この作品のように民族の壁を越えて接するような作品がこれまでにあったか。もしあったとしたら、それらの作品と本作との著しい違いは何か」については、丁寧に(くまなく)戦後文学作品を読んでいると言えない僕としては、記憶にある作家と作品を頼りに、記者の質問に答えるしかなかった、ということがある。
戦後文学史において、日本人と在日朝鮮人・韓国人との関係を作品の主要な柱としていたということでまず第1番に思い出すのは、3年前になくなった小田実である。彼は17歳の時に発表した『明後日の手記』(51年)やその後の『わが人生の時』(54年)にはじまって、遺作(中断)となった『河』(3巻 07年)まで一貫して主要な作品に「在日」を登場させ、日本人と在日(本国である北の朝鮮人・南の韓国人)との「連帯・共闘」の可能性を探ってきた。
他に記憶しているのは、小田実より上の世代に属する井上光晴が、長崎の炭坑で働いた経験を生かした作品、例えば『虚構のクレーン』や『心優しき反逆者たち』の中に在日を登場させ、彼らがどのような歴史を持ち現在を生きているか、を小田と同じように日本人と在日との「連帯・共闘」を探る形で描き出してきたことである。また、地味な作家だが、朝鮮半島で生まれた「新日文」系の作家である小林勝も自らの体験を生かして日本人と在日との複雑な関係を作品化してきた。そう言えば、大江健三郎の『同時代ゲーム』(81年)にも、在日が重要な役割を担って登場していた。
小田にしろ井上光晴にしろ、戦後文学の作家が在日を作品の中に登場させる源流は、かの有名な「革命運動」の同志たる朝鮮人への呼びかけ(「辛よ さようなら 金よ さようなら」)で始まる中野重治の詩「雨の降る品川駅」(1929年)にある、と僕は思っている。ざっくり言ってしまえば、戦後文学史の中での在日の位置は、日本人と「共生」することによって反権力の可能性を探る存在、と言うことになるだろう。
そんなことを考えた上で今回の『ボーダー&レス』を読むと、日本人が在日を差別しているという現実に踏まえて作品が書かれていることは、これまでの作品と枠組みとして変わらないと思うが、この作品に「新しさ」があるとすれば、戦後文学者たちがその可能性を探った「連帯・共闘・共生」ということは、基本的に不可能なのではないか、ということから出発しているということだろう。つまり、「連帯・共生」などが不可能だということを知った上で、なおかつ「人間」としてどのような付き合い方が可能なのか、を問うている作品ということになるのではないか、ということである。
なぜそのように言えるかというと、この作品には主人公が在日と付き合うというメインテーマの他にサブテーマとして「恋愛」が描かれていて、作者は男と女も根本的には理解できない関係しか結べない、と言っているように読めるからである。いかにも現代社会を象徴しているように、主人公にとって在日との関係も女性との関係も同じ、というのがテーマになっているようで、僕としては「悲しいね」としか言えないが、表面的な「優しさ」の裏に隠された「硬質」な資質は、久々に読み応えのある小説だなと思った。
作者は筑波大学(人文社会系)の卒業生という。もし彼女が芥川賞を受賞すれば、青山七恵に次ぐ受賞者となるが、果たして結果は堂だろうか。結果は確か、狂発表のはずだが。
確かに、在日作家の李恢成とはかなり親しく、金石範さんや梁石日さんなどとも親しくさせていただいているということもあり、普通の批評家や近代文学研究者(大学教師)などよりは在日文学について詳しいと言えるかも知れない。しかし、文化部記者が一番に聞きたかった「日本人が在日に対して、この作品のように民族の壁を越えて接するような作品がこれまでにあったか。もしあったとしたら、それらの作品と本作との著しい違いは何か」については、丁寧に(くまなく)戦後文学作品を読んでいると言えない僕としては、記憶にある作家と作品を頼りに、記者の質問に答えるしかなかった、ということがある。
戦後文学史において、日本人と在日朝鮮人・韓国人との関係を作品の主要な柱としていたということでまず第1番に思い出すのは、3年前になくなった小田実である。彼は17歳の時に発表した『明後日の手記』(51年)やその後の『わが人生の時』(54年)にはじまって、遺作(中断)となった『河』(3巻 07年)まで一貫して主要な作品に「在日」を登場させ、日本人と在日(本国である北の朝鮮人・南の韓国人)との「連帯・共闘」の可能性を探ってきた。
他に記憶しているのは、小田実より上の世代に属する井上光晴が、長崎の炭坑で働いた経験を生かした作品、例えば『虚構のクレーン』や『心優しき反逆者たち』の中に在日を登場させ、彼らがどのような歴史を持ち現在を生きているか、を小田と同じように日本人と在日との「連帯・共闘」を探る形で描き出してきたことである。また、地味な作家だが、朝鮮半島で生まれた「新日文」系の作家である小林勝も自らの体験を生かして日本人と在日との複雑な関係を作品化してきた。そう言えば、大江健三郎の『同時代ゲーム』(81年)にも、在日が重要な役割を担って登場していた。
小田にしろ井上光晴にしろ、戦後文学の作家が在日を作品の中に登場させる源流は、かの有名な「革命運動」の同志たる朝鮮人への呼びかけ(「辛よ さようなら 金よ さようなら」)で始まる中野重治の詩「雨の降る品川駅」(1929年)にある、と僕は思っている。ざっくり言ってしまえば、戦後文学史の中での在日の位置は、日本人と「共生」することによって反権力の可能性を探る存在、と言うことになるだろう。
そんなことを考えた上で今回の『ボーダー&レス』を読むと、日本人が在日を差別しているという現実に踏まえて作品が書かれていることは、これまでの作品と枠組みとして変わらないと思うが、この作品に「新しさ」があるとすれば、戦後文学者たちがその可能性を探った「連帯・共闘・共生」ということは、基本的に不可能なのではないか、ということから出発しているということだろう。つまり、「連帯・共生」などが不可能だということを知った上で、なおかつ「人間」としてどのような付き合い方が可能なのか、を問うている作品ということになるのではないか、ということである。
なぜそのように言えるかというと、この作品には主人公が在日と付き合うというメインテーマの他にサブテーマとして「恋愛」が描かれていて、作者は男と女も根本的には理解できない関係しか結べない、と言っているように読めるからである。いかにも現代社会を象徴しているように、主人公にとって在日との関係も女性との関係も同じ、というのがテーマになっているようで、僕としては「悲しいね」としか言えないが、表面的な「優しさ」の裏に隠された「硬質」な資質は、久々に読み応えのある小説だなと思った。
作者は筑波大学(人文社会系)の卒業生という。もし彼女が芥川賞を受賞すれば、青山七恵に次ぐ受賞者となるが、果たして結果は堂だろうか。結果は確か、狂発表のはずだが。
松村栄子は筑波大を舞台にした作品で受賞したと思います。
夏休みになるとみんな帰省してしまって
留学生だけになって妙な雰囲気
とか書いていたと思う。
筑波ってボーダーレスなんですね。
先生んちも年賀状がどんどん減って
but中国人留学生がどんどん増える
というのも
「ボーダー&レス」ですよね。
それにしても
広告代理店に就職したら在日ばっかだった
なんてよく書きますよね。
都知事の選評が楽しみですよね