黒古一夫BLOG

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政治家の倫理観(2)――「歴史」は多様か?

2013-05-23 15:28:55 | 近況
 武漢にいた時の習慣が帰国してから続いていて、昼食の後小一時間「昼寝」するようになっていたのだが、1週間ほど前、仕事の都合でその昼寝が長くなってしまい、気が付いたら2時間カーペットの上で寝ていたことがあり、そこで風邪を引いたのか、鼻水が止まらず、また咳も続き、ずっと難儀してきた。そのためにブログを書く気力もなくなり、「従軍慰安婦」や「沖縄駐留の海兵隊はもっと風俗業を利用すべきだ」という発言に端を発した橋下大阪市長の一連の「釈明」――彼は発言を撤回せず、さすがタレント弁護士と思わせるような、少しずつ論点をずらしながら、自分の正当性を主張する方法で何とか失地回復を図ろうとしているようだが、ウルトラ右翼の石原慎太郎「日本維新の会」共同代表や平沼赳夫国会議員団長、あるいは「今でも韓国の売春婦が大阪にはうろうろしている」などと、とんでもない発言を行った西村真吾衆議院議員などの「応援団」の発言を見れば、橋下が「従軍慰安婦は必要だった」「沖縄のアメリカ兵は風俗業を利用すべきだ」と本気で思っていた、というのが「真実」だろう、と思っている――を聞き、体調不良(風邪気味)も重なって、その「うんざり度」はずっと鰻登りになっていた。
 それに加えて、今夏台湾の出版社から刊行される「国際村上春樹研究」(季刊)から求められていた『ノルウェイの森』論――24年前の『村上春樹論―ザ・ロスト・ワールド』(89年 六興出版刊)に収録した『ノルウェイの森』論の改訂版(加筆・訂正)を寄稿して欲しい――、という要望に応じるべく、『ノルウェイの森』を読み直し、かつ3分の1ぐらいはほとんど「新稿」と言っていい原稿を書くということがあった。鼻水をすすり上げ、咳を飛ばしながらの『ノルウェイの森』論執筆、自分では納得のいく作品論が書けたと思っているが、いずれ公開されたとき、どのように評価されるか楽しみでもある。
 そんな1週間ほどであったのだが、昔の自分の作品論を読み直し、また『ノルウェイの森』を何年かぶりに読み直し、僕自身が齢を重ねたということもあり、また橋下大阪市長を初めとする政治家たちの「倫理観=モラル」のかけらもないような発言に接して思ったことは、「歴史」は常に「改ざん」されるということであり、「政治」というものが決して国民のため」ではなく、「私利私欲」、言い方を換えれば、「公」の場において「私怨」あるいは「私の思い」を実現するものなのではないか、ということであった。
 例えば、安倍晋三首相の国会答弁における「学問的にも国際的にも<侵略>の定義はない」という発言について、これについては弁護士であり国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局長である伊藤和子が、1974年国連総会において有名な「決議3314」で「侵略」の定義を行っており、また近々では2010年に国際裁判所において、日本も参加して「侵略の罪」について定義しているという。ここで、「侵略行為」とは、「他国の主権、領土保全または政治的独立に対する一国による武力の行使、または国連憲章と両立しない他のいかなる方法によるもの」指しているというのだが、素人の僕が読んでも、この「侵略の定義」は、よくわかる。にもかかわらず、安倍首相は、「侵略の定義は決まっていない」、と強弁する。安倍首相の意図は明らかである。自分の祖父(岸信介)も深く関与した中国大陸への「侵略」を、何とかして「無化」し、そのことによって「戦前の政治」総体を「よきものであった」と掬い上げようとしているのである。その揚げ句に「アベノミクス」なる大企業優遇・富裕層優遇の「いかがわしい」経済政策に乗って、「憲法改正」までを実現し、「美しい日本=戦前の日本」を実現しようとしている。
 安倍首相にどんなブレーンが付いているのか知らないが、このような安倍首相の「歴史認識」ではとうてい国際政治(東アジアの政治・外交及び日米関係)の舞台では通用しないのではないか。自国中心主義の「歴史観」が国を危ういものにしてきたのは、「歴史」が物語るとおりである。もう一度、僕らは人間が「国家」のために「殺し合う」ことを経験しなくてはならないのか。何ともおぞましいことである。政治家たちが「倫理観」をなくすと、こんな状態になる、という見本のような状況を今日の僕らは経験しているとも言える。
 それにしても、そんなめちゃくちゃな「歴史認識」・「政治感覚」しか持たない安倍首相率いる自公政権に「70パーセント」近い支持を与え、かつ今度の参議院選挙では40パーセント以上の人が自民党に投票するという。政治家のモラルも問題だが、こんな世論調査の結果について平然としている国民のモラルも問題である。もし、今度の参議院選挙で、自民党が過半数を獲得したら、安倍首相は「憲法改正」も承認された(実際は、世論調査で第9条の改正に賛成の人は過半数以下であるにもかかわらず)として、一挙に「戦争のできる国」にするだろう。「国民主権」で穴区「閣下の主権」を大事にし、「表現の自由」も「公共」の名の下に制限される(さしずめ、僕のブログなど、「公共の秩序を乱す」として、閉鎖を強制されるかも知れない)、僕らはそんな「危険な状況」が目の前に来ていることを、もう一度認識すべきである。
 「甘言」にだまされてはならない。



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