ポツダム中尉が裏から見た太平洋戦争史
「21世紀への反省 不思議な戦争」
著者:瀬谷英行
発行:昭和61年5月28日・第1刷
著者は、社民党熊谷総支部に所属していました。(昭和37年7月の参議院埼玉選挙区で当選、以後6選。参議院の副議長を務める。)
4選目の時に書いた本です。
「
戦争を知らない世代こそ知ってほしい」(まえがきにかえてより)
日本の国民の中で戦後生まれの人が多数を占め、戦中派、あるは戦前派が少数となった昨今では、太平洋戦争も歴史の中の一コマになってしまったのは、やむを得ないところである。
だが、軍服も着たこともない、軍隊の飯の味も知らない連中に、今頃になって軍備の必要性を強調されたり、非武装中立を論難されたりすると、無知の恐ろしさと無分別の情けなさを今さらのように感ずるのである。
<略>
我々は日本の国民が、同じ失敗をこりもせずにくり返すほど、愚かではないと信ずる。だからこそ我々は、この太平洋戦争がどのようにしてはじまり、いかにして終わったかを決して忘れてはならないし、正しく後世にまで伝えていかなければならないと思う。
映画になった「硫黄島から手紙」でなく、瀬谷氏の本から「硫黄島最後の電文」を転載したいと思います。
映画「硫黄島からの手紙」で注目を浴びた栗原忠道(小笠原方面最高指揮官)中将の孫にあたる、新藤義孝衆議院議員はこの「硫黄島最後の電文」を読んで何を思うか。
硫黄島最後の電文
戦局遂に最後の関頭に直面せり。17日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち、皇国の必勝と安泰とを祈念しつ、全員壮烈なる総攻撃を敢行す。
敵来寇以来想像に余る物量的優勢を以て、陸海空よりする敵の攻撃に対し、よく健闘を続けたるは、小職のいささか自ら欣(よろこ)びとするところにして、部下将兵の勇戦は、真に鬼神をも泣かしむるものあり、然れ共、執拗なる敵の猛攻に将兵相次いで倒れ、御期待に反し、この要地を敵手に委ねるのやむなきに至れるは、真に恐懼に堪えず、幾重にも、御詫び申しあぐ。特に本島を奪還せざる限り、皇土永遠に安からざるを思い、たとい魂魄となるも、誓つて皇軍の捲土重来の魁たらんことを期す。
今や弾尽き、水渇れ戦い残れる者全員いよいよ最後の敢闘を行わんとするに当り、つくづく皇恩の辱けなさを思い、粉骨砕身、又悔ゆるところ非ず。ここにに将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ、とこしえに、お別れ申あぐ。
終りに先立ち駄作御笑覧に供す。
国のため 重き務を 果たし得で
矢弾尽き果て 散るぞ口惜し
仇討たで 野辺には 朽ちじ われは又
七たび生れて 矛をとらむぞ
しこ草の 島にはびこる 其のときも
みくにの行手 一途に思ふ
(命令)
1、戦局は遂に最後の関頭に直面せり。
2、兵団は、本17日夜総攻撃を決行し、敵を撃砕せんとす。
3、各部隊は、本夜正午を期し、
各々当面の敵を攻撃し、最後の一兵となるも、あく迄、決死敢闘すべし、大君の御楯となりて顧みるを許さず。
4、余は常に諸子の先頭にあり。
(小笠原方面最高指揮官栗林中将)
この電文を最後に硫黄島からの通信は途絶し、同島守備隊の玉砕が3月21日(昭和20年)には、公表されることになった。
海も空も敵に支配された小さな島で、上陸した敵の大群に包囲攻撃を受け、食なく水なく、絶望的な戦況の下に、このような最後の電文を
起草した栗原中将の心境は、どんなだったろうかと思う。<略>
死を選ぶよりほかに道はなかったのである。死に直面しながら愚痴や恨みごとを述べることなく、和歌3首までつけ加えるゆとりは、立派だったと思う。敬意を表したい。<略>