格差のない平和な社会をめざして   

社民党の理念は「平和・自由・民主主義・平等・共生・連帯」
「社民党の活動を知って下さい」を目的に作成してます。

社会党員になることは、労組専従役員のパスポートだった

2021年03月08日 | 社会党・社民党と出会う

 社会党に入党して、○○社会党員協議会(党員協)に入会した覚えがないが、県の専従役員から会費が請求されました。
職場の組合役員で社民党員になることは異質な存在だったらしいです。
会費は納めていたが、それたいった活動もなかった。
党員協は、専従役員の人事をやるのが活動の目的な存在だったのでしょう。
 党員協から手紙が来たのは、1981年の第1回社民党委員長選挙のときでした。
「飛鳥田一雄・武藤山治・下平正一」の3氏が立候補して行われました。
派閥活動を否定する考えを持っていたので、党員協で推していた候補には投票しませんでした。
 総支部にも労組専従を降りると党を辞めて行く人がいました。
専従役員になるパスポートので、役員を降りたらパスポートはいらなくなります。
辞めていく人は党費は納めるが会議や活動には参加しない党員でした。
専従を辞めても、党に残ったひとは、ずーっと会議や党活動に参加していたひとでした。
 社会党を支持する労働組合の専従役員になるには、社民党員なることが暗黙の条件だったのでしょう。
まあ、○○党員ではない証明のようなものだったのかな。
 社民党になっても、党員協がある労働組合はあるのだろうか!?
私の元の職場は、民主党を支持しているので、分会長や事務局長は、民主党のサポーターになっていました。


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日本社会党から社会民主党へ

2018年10月23日 | 社会党・社民党と出会う

 1996年11月6日に日本社会党から社会民主党へ変更大会を開いて、社民党第2回の定期大会を6月14に開催しています。
議案には、「民主党の結成の動きで、社会党は全組織丸ごと移行するとなっていたが、民主党への移行は党中央の人たちの選別もあり、党全体での移行はできなかった。その影響で地方自治体の議員たちの動きがそのまま地方組織に持ち込まれ、多くの離党者をだしました。それは働く人たちの政治離れに拍車をかけ、地方は惨たんたるもので日常的な活動もかなり落ち込むことになった。」
 1996年10月の小選挙区比例代表並列制の初めての選挙が行われ、候補者がいない比例中心の選挙運動であった。
 憲法施行50周年集会が土井党首を迎えて行われ、熊谷から100名近い人が参加した。
組織強化の項では、「社民党は歴史的にみても、労働組合を背景に各種選挙を戦ってきました。しかし、今後は全面的な支援を受ける事は不可能です。労組の推薦を受ければ当選した時代は終わり、地域に根をはり地道な仕事をする人が勝利することになります。」
議員後援会づくりを提案しています。

 自分の所属する労働組合は、「民主党支持」になった。いまでも「社民党」に残っている。 
現在、労働組合は「立憲民主党」の支持となっています。

 

 

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1993年が分岐点

2018年09月18日 | 社会党・社民党と出会う

 1993年の定期大会議案には、第2回新報まつりを開催している。
参加者は約500名であった。
93年旗びらきの参加人数は約300名。
参加者は社会党を支持する労働組合員と議員後援会会員である。
後援会の会員の参加が多くなっている。
党勢は、新入党員が2名。
4月末の党員は61名。
61名の内訳は議員が8名、年金党員7名、60才以上2名、家族党員4名となっているが離党者も多い。

 大倉電気工場閉鎖、配転、整理解雇反対の取りくみ、国鉄清算事業団闘争などの取り組みの報告がある。

 第3回新報まつりは提案されていたが、7月の衆議院議員選挙で田並さんの落選もあり、実施できなかった。
平和寄席は5周年になる。
 

 

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1992年の定期大会議案を読んで

2018年09月17日 | 社会党・社民党と出会う

 1992年の総支部大会の議案を読むと、7月の知事選・参院選で立候補予定者の辞退があった年でした。
その頃の熊谷総支部は、60名あまりの組織で、衆議院議員1名、参議院議員1名、県会議員1名、市会議員5名、専従書記長がいました。
活動報告では、第1回新報まつりで1000人を超える参加者があり、新報を13部拡大した。
知事・参院選で3名の新入党員、集団入党運動で252名の協力党員が入党する。
社会新報の扱い部数700部を800部にする提案がされています。

その時の役職は、教宣部長をやっていました。
1988年に熊谷から転勤になり、1990年11月を最後に、地域版の「社会新報」を発行できなくなった。

 

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つなぐ「平和」運動

2018年09月01日 | 社会党・社民党と出会う

 社民党の事務所にある書類を「断・捨・離」していたら、「原爆絵画展を成功させるために」のパンフレットがでてきました。
「平和寄席」の前は、八木橋デパートやニットーモールなどで、熊谷地区労と一緒に原爆絵画展をやっていました。
会場でカンパを募り、原水禁大会に市民を派遣していました。
原爆絵画展の会場で映画の上映するために、16ミリ映写技術の資格を取得しました。
「10フィート映画運動」で入手したフィルムで作られた、「にんげんをかえせ」を上映したり、原水禁・広島大会、長崎大会に、平和についての作文を募集して、子供たちを原水禁大会に派遣しました。
社民党と熊谷地区労の平和運動は、社民党の市会議員による「熊谷市非核平和都市宣言」、「熊谷市平和基金条例」の制定につながっていきました。
 原爆絵画展から平和寄席に移行しても、平和寄席の会場で「ミニ原爆絵画展」や熊谷空襲を扱った「最後の空襲くまがや」や「おこりじぞう」映画の上映を行っていました。
平和寄席からの益金を「熊谷市平和基金」に寄付を行っています。

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