flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

夕張「南部」

2007-09-16 00:00:41 | 漂い紀行

 清水沢から、アイヌ語でユーパロペッ(鉱泉の湧く川の意)という夕張川に沿ってバスで東方に向かった。
終点は「南部」…かつて大夕張炭鉱で栄えた町である。
然し今は夢の跡のように、ひっそりと静まり返っていた。
停留所の程近くには、この地で活躍した大夕張鉄道の車両が保存会の手によって維持保存され、往時の残映を後世に伝えている。

 私は財政破綻によりメディアで有名になってしまった、この夕張の地が気になっていた。然し、北炭地区と呼ばれる市街地ではなく、この南部地区が気になった。それは、北炭地区のように、繁栄の後閉山で衰退し、その後過剰な再開発をして、それがまた二次的な衰退をもたらしたところではなく、同じく栄えていた大夕張炭鉱の閉山から、衰退しながらも往時の面影が感じ取れるこの地を選んだのだった。

 辺りは雪の時期が長いこともあってか、それとも衰退の影響なのか、「色合いの主張」があまり感じ取れない。少し西に歩くと、大夕張鉄道の廃止によって無用となった歩道橋があり、そこから赤い鳥居と共に、南大夕張神社の社殿が見えた。

 この地のことを吸収するため、辺りの何人かの住民に方に話しを伺ってみた。そして「南部新光町」で酒屋を営むご婦人が語ってくれた。
「私は一度嫁に出ましたが、両親の稼業を引き継ぎたいと思い、主人と帰ってきました。」
「私が子どもの頃は市の人口も今の十倍の約12万人いました。そして、山あいのこの狭い平地に大勢の人がいました。」
「しかし平成二年に大夕張炭鉱が閉山してから急速に衰退し、市も北炭(市役所の存在する場所、大夕張の北側の地区)ばかり投資し、そして破綻、この南部地区は何も投資されずにあるのに、財政負担の重荷を背負わされてしまったのです。」
「寂れて何も残らずに消えていくのがしのびなく、住民からいろいろなことを尋ね、聞き書きをしました。」
 そして私に、自費出版されたご本を手渡してくださった。
今年80歳になられる方ながら、外見はさることながら、その好奇心はゆうに一回り以上はお若く、専門家にも負けない文章、このような郷土史を、もう何冊も書かれたそうだ。然し、このような努力は、市としてはあまり把握してはいないようだった。
私は、市の職員以上に地元のために、見返りを求めるでもなく、努力をされていることに対し、感銘した旨を申さずにはいられなかった。そして、聞き書きをしてその歴史を後世に残す行為が、私の大切に思っている部分と合致し、更なる感動につながった。
私は何もできる力は無いが、何か少しでも、このまちにできることはないだろうかと、そのとき無性に感じたのだった。

  そんな中、私の親類と炭鉱会社に関連する話に至り、「社史をお出しします」と幾つかの炭鉱会社の本を出された。
私はあまり、この地とは関連性がないものと当初思っていたが、活字の中から役員をする親類の名前が出てきた。
「あなたもこちらにご縁のあったお方なのですね。私は昔のことを少しでも残したく思っています。ぜひ、お時間があればゆっくりとお話を」
そしていろいろと接待してくださり、お金を取るでもなく、お相手いただいた。
「また今度来られることがあれば、離れにでも泊まってください。」

 バスの時間が近づいた。
「あちらの体育館の裏に、炭鉱の殉職者慰霊碑があります。バスが来たら止めさせますので…」
私は足早に向かった。
そこにはまちの人たちのゲートボールする姿があった。
その人たちが語ってくれた。「私らは、このまちのためだったら、命もかける。だから何でも助けあっていく」
その言葉に、衰退するまちに反比例するような深い絆とつながりを感じた。

 バスが来た。
深々とお辞儀され、お見送りされる姿に、私はまた来ますと、約束をし、南部の地をあとにした。
      


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