【「聖教新聞」 2014年 12月23日(火)より転載】
【広宣譜30】
山本伸一は、電話に出た関西総合長の十和田光一に、弾んだ声で言った。
「できたよ。『関西の歌』を作ったよ」
そして、歌詞を読み上げていった。
それを書き取った十和田は、「ありがとうございます」と、感極まった声で応えた。
伸一は、率直な意見が聞きたかった。
「もし、ここを直してほしいという箇所があれば、遠慮なく言ってください。関西の皆さんの歌だもの、皆さんが心から納得して歌えるものにしたいんです。どうだい?」
十和田は、申し訳なさそうに口を開いた。
「二番の一行目に『我等の誇り 金の城』とございますが、この『金の城』を、『錦州城』にしていただけないでしょうか」
伸一が「金の城」としたのは、皆の目に鮮やかな色彩が浮かぶような歌にしたかったからだ。だが、関西の同志にとって、「錦州城」という言葉には、格別な思いが詰まっていた。
一九五六年(昭和三十一年)二月、大阪の戦いの指揮を執っていた伸一は、大勝利への決意を託した歌を詠んだ。そして、戸田城聖の誕生日である十一日に、この歌を贈った。
関西に 今築きゆく 錦州城
永遠に崩れぬ 魔軍抑えて
そこには、大阪城の別名の「錦城」と、中国遼寧省の難攻不落の都城「錦州城」を掛け、関西に金城鉄壁の民衆城を築き上げようとの誓いが込められていた。
戸田は、即座に返歌を認めてくれた。
我が弟子が 折伏行で 築きたる
錦州城を 仰ぐうれしさ
伸一は、この歌を心に刻み、関西の同志と共に戦い、大勝利した。したがって、彼らには、“関西は創価の師弟が築き上げた広布の錦州城だ!”との強い共戦の誇りがあった。
だから、十和田は、「錦州城」という言葉を入れてほしいと、要請したのである。
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