和井弘希の蘇生

桂信子先生に師事。昭和45年「草苑」同人参加。現在「里」同人「迅雷句会」参加

若芽51/小説「新・人間革命」  

2013年12月20日 05時36分09秒 | 新・人間革命


      小説「新・人間革命」

【「聖教新聞」 2013年 (平成25年)12月20日(金)より転載】


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若芽51(12/20)

 運動会は、やがて閉会式に移った。

 新木校長、来賓のあいさつのあと、山本伸一が演壇に立った。

 「今日は、ちょっと難しい話をします。児童の皆さんよりも、むしろ、保護者の方にお話し申し上げたいと思います。

 昨日、私は、筍を育てる名人と会いました。その方が、こう語っていたことが、深く印象に残っております。

 『多くの方は、“筍というのは、毎年、五月ごろになって初めて生長し、立派に大きくなる”と思っているようですが、それは間違いなんです。

 実は、収穫する年ではなく、前年の七月、八月ごろに、地下茎に小さな芽ができる。これで勝負が決まってしまうんです。四月とか、五月というのは、一つの結果としての姿を見るにすぎません』

 この話を聞いて、私は感銘しました。

 というのは、人間も同じだからです。小学校時代の教育が、将来の大成を決める、大事な時期になるからです。

 その意味において、私は、今日の運動会を見て、皆さん方のお子さんがすくすくと成長している姿に、大成の芽が育っているとの確信をもち、本当に安心いたしました。

 私は、創立者として、この小学校の児童から、絶対に、人生の落伍者を出すことなく、全員が立派な社会のリーダーに育っていくよう、最大の力を注いでまいる決心です。これからも応援をよろしくお願い申し上げます」

 伸一の深い決意に、保護者も教職員も、胸を熱くした。

 詩聖タゴールは、さまざまな困難を乗り越えて創立した学校を、自身と“不二”であると宣言し、「この学校の成長は私の人生の成長」と語った。

 伸一も、東京創価小学校をはじめ、創価一貫教育のすべての学校と自分とは、“不二”であると思っていた。

 そして、児童の成長、卒業生の社会での活躍を、最高の生きがいとしていたのである。


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冬桜/今日の俳句 第1445号

2013年12月20日 04時56分59秒 | 今日の俳句


◇冬桜/今日の俳句◇
       ◇※第1445号※◇

 2013年(平成25年)12月20日(金)


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■ 12月20日。
○ 人間の連帯国際デー(International Human Solidarity Day)。
 2005年の国連総会で制定。多様性の中での人類の連帯を祝い、2000年に定められた貧困撲滅などの「ミレニアム開発目標」の達成に向けて団結の重要性を思い起こす日。

【「ウィキペディアフリー百科事典」より転載】


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   ■※今日の俳句※■


  汲みたての水ほのめくや冬桜
         三橋迪子


  寒桜花びら小さしいつ消えし
         石原八束


  冬桜庭下駄厚く奈良に在り
         桂信子


※ 冬桜→寒桜。
 冬季に咲き早咲きの桜で花期は1~3月。植物名は寒緋桜・寒桜・大寒桜などがある。寒緋桜は台湾原産。花は緋色で、直径2センチ。
 庭木や街路樹として植えられるが、沖縄県の石垣島などに野生化している。寒桜・大寒桜は寒緋桜よりやや大きめの淡紅色の花が咲く。
→桜(春)。 

【「合本・俳句歳時記/第三版」(角川書店)より転載】


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※わが友に贈る/名字の言※
【「聖教新聞」2013年(平成25年)12月20日(金)より転載】


     ※わが友に贈る※


 苦労し抜いてこそ
 友の心が分かる
 偉大な指導者になれる。
 青年よ烈風の中で
 不動の自身を築け! 

      ◇※12月20日※◇


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    ◇※名字の言※◇


作家の向田邦子さんの作品を読んでいると、時折、“食べてきた、お雑煮の数が違います”といった言い回しに出くわす。年長者が若い人に対して、「だてに年を取っているわけじゃないよ」と、小気味よい切り返しで使っている



雑煮を食べる新年を迎えた回数は、すなわち、越した年の数。年の功は、波瀾万丈を乗り越えた一年一年を積み重ねてこそ、熟成される



福島の多宝会の壮年は、原発事故の後、温暖な浜通り地域から、寒冷な会津地域へ避難し、今も暮らす。当地での初めての冬、あまりの豪雪に閉口した。だが、しんしんと唱題を重ねる中で確信した。
“この試練を勝ち越えるために、これまでの信心の鍛錬があったのだ”と。反転攻勢に打って出た。使命の天地が広くなった分、張り切って友の激励に走ろう、とマイカーも新車に替えた



信心の大先輩の不屈の姿が“発火点”となり、同じく避難してきた同志の心にも、勇気の火が付いた。これから本格的な雪となるこの冬も、皆で団結して広布に走っているという。「負けじ魂を燃やすと、年々、元気になっていくようです」と、その多宝会の友は語った



「心の財」は磨けば磨くほどに輝きを増す。自分らしく完全燃焼して、年を越えたい。
              (代)

 

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● 石鼎忌。
※ 原 石鼎(はら せきてい、1886年3月19日 - 1951年12月20日)は、島根県簸川郡塩冶村(現出雲市)出身の日本の俳人。本名は鼎。最初は鉄鼎と号していた。
医師の家に生まれ、県立簸川中学校(現在の島根県立大社高等学校)に入学。5年生の時、新任教員であった俳人の竹村秋竹の家に寄宿し、秋竹の影響を受け俳句、短歌を初めとする文学活動に熱中したが、耽溺し過ぎて学業が疎かになり進学に失敗した挙句、放校処分となる。
その後歯科医を志して上京するも頓挫し、各地を放浪しながら職を転々とする。放浪生活の中で高浜虚子の知遇を得、彼の指摘を受けて帰郷の途に着くが、途中奈良吉野の小川村で次兄が営む病院に逗留し、そのまま定着して診療所の手伝いをしながら、吉野の山中で孤独な生活を送った。石鼎の俳人としての感性が培われたのはこの時期であった。二年足らずで吉野を後にし帰郷したが、医者になれなかったことを叱責され両親から勘当される。各地を漂泊した後、大正4年(1915年)再び上京して「ホトトギス」に入社し、虚子の手伝いをしながら生活していた。
大正6年(1917年)にホトトギスを去り、東京日日新聞に入社。同紙と大阪毎日新聞の俳句の選者となった。また俳句雑誌「鹿火屋」の主宰も行った。晩年は神経症に苦しみ、昭和16年(1941年)に隠棲したが、その後も俳人としての活動は続けた。
虚子からは前田普羅と肩を並べる新進気鋭の逸材であると称賛されていた。
【国史大辞典より「原石鼎」】


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◆浩ko・ 編集後記◆

今日も有難う御座います。和井弘希です。皆さまのご健康と無事故をお祈りしております。

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12月19日(木)のつぶやき

2013年12月20日 01時54分18秒 | 公明党

朴大統領の非礼外交の集大成が今でしょ!: youtu.be/7W_n3KKFfHY @youtubeさんから


朴大統領の非礼外交の集大成が今でしょ! goo.gl/NEmeV2


ブログを更新しました。 『朴大統領の非礼外交の集大成が今でしょ!』 amba.to/1gGtOfn


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