工房八重の部屋

京都の紹介、日々の出来事や思いを綴ってます

疎水北にある本圀寺は静寂に満ちた寺で金ぴかではなかった!

2013年09月22日 | Weblog
天智天皇山科陵の北側は疎水ですが、すぐそばに本圀寺という寺があります。

以前からどんな寺?と興味あったので、行ってみることに!

行く前にネットで調べたら、境内の梵鐘や楼門の両脇の像など、装飾も金ぴかの寺とのですが

行ってみたら、自然にあふれた山中にある静寂に満ちた寺で、金ぴかの装飾はなくしたようで

品位のあるたたずまいの寺でした。

この寺は山科に移転された寺と聞いたことがあります。

どういう歴史のある寺なのでしょうか?

鎌倉幕府が滅亡し京都に室町幕府が出来てから、足利尊氏は鎌倉にある本勝寺を

京都・堀川六条 (現堀川警察署の南側辺り)に移し本国寺としました。  

京都に移された本国寺はその後、足利将軍家の援助を受けて祖師堂・五重塔などを整備。

応永年間(1394-1428)、近衛道嗣(みちつぐ)の子・日秀(にっしょう)が住持となった

以後は貴族の子弟が代々貫主となったこともあり、更に堂宇も整備され一時塔頭は100を超

えた寺になりましたが、天文5年(1536)に比叡山の僧徒の焼き討ち(天文法華の乱)に

あい荒廃したため、一時、和泉(大阪)の堺に避難する苦難もありました。
 

再興は豊臣秀吉の姉・日秀尼や加藤清正が行い、江戸時代には徳川(水戸)光圀の外護を

うけ、往来の隆盛をとり戻した。

寺名の「国」を「圀」へ改めたのは、寺の援助に尽力した光圀公にちなむとされている

とのことです。

天明の大火(天明8年(1788))で経堂以外は全焼し、復興されたが往時の姿を取り戻すこと

は出来ず、昭和45年(1970)には現在地の山科へ移転して、現在は、疎水の北の山中にあるの

ですね!


赤い橋が見えてきました!


すぐそばに案内看板がありました。 疎水に沿って歩いて行けるようです!


橋を渡ってみましょう!


疎水も水は先日の台風の影響なのでしょうか? 濁っていました。


右側に天智天皇山科陵の木立が見えます


門は赤門です!


社務所らしい建物は、古い建物です。移転は1970年とのことですが、以前から
あった建物なのでしょうか?


境内  梵鐘は金ぴかではない? 自然にあふれた静寂な寺です! 山中にあるせいか
観光客はだれもいなかった!


本堂と本師堂


本堂


本師堂


仁王門 中にある2体の像は金ぴかではない! 黒塗りでした!


鳥居がありました


建物はすべて渡り廊下でつながっています


境内からの赤門


赤門を出たら、山の中にある道です


疎水に出たら、山科の住宅が見えてきました


民家に咲いていたスイフヨウ 夕方近くなっていたので色はピンク色になっていました。
酔芙蓉の花の名の由来がわかりました!


この住宅地の何軒かにスイフヨウの木がありました!


林は天智天皇山科陵の西側の木立
この住宅ではありませんが、門のそばに人がいる新しい住宅があり、住み心地を聞いて
みました! 地下鉄の御陵駅まで5分で行けますが、買い物は山科駅まででるとのことです!
静かでよいのですが、先日台風の時は、陵の木立が倒れそうで怖く、陵は高い場所になるので
水が流れてきて、家の北側は池のように水が溜まったそうです。
でも町が近いのに、自然が多く、素晴らしい環境です!