デジカメぶらりぶらり

デジカメのほやほやの写真をご覧下さい。

ミャンンマー

2010-11-10 06:13:44 | Weblog
ミャンマー軍事政権が総選挙後にアウン・サン・スー・チーさんの自宅軟禁を解くという。実に7年余りの軟禁である。

軍事独裁の前近代的な圧政は覆うべくもないが、巨大な軍事政権が何を恐れて、1人の女性を長期間軟禁してきたのか。欧米型の民主化運動では説明できないものがあることに、もっと光を当ててほしい。

スー・チーさんは、ビルマ独立の父アウン・サン将軍の娘である。特徴の一つは、父の威光がいまだに健在で、軟禁以上の弾圧はできないこと。二つ目は、父の力が娘に受け継がれるアジア的な権力継承スタイルが残っていること。

これがミャンマー問題の特徴だろう、スーチーさんのほか、インドのガンジー元首相、パキスタンのブット元首相などの例がある。ともに父親は独立運動の強力なリーダーだった。
最近のブラジルやオーストラリヤとは異なる女性指導者登場の形といえる。

父系の権力継承で娘がカリスマ的存在になるのは宗教的な意味があるとする研究者もいる。日本の古代神話や女帝の系譜を思い出させるが、アジアに残る前近代性は軍事政権だけではないのかもしれない。

ウクレレ

2010-11-08 07:22:14 | Weblog
ウクレレの漫談の牧伸二さんは息の長い芸達者である。歌う漫談の決めせりふは「あーあーやんなっちゃった」。

時事ネタが大半だから歌詞はあらかた忘れたが、「女房持つなら美人はおやめ」で始まる一曲は覚えている。

美人は三日で飽きるけど、不美人には三日ですぐ慣れる。「あーあー驚いた」異論、反論もあろうが、似た話はいくらもある。

脱官僚のお題目にはとっくに飽き、政治家の言葉の軽さにはすぐ慣れた。ものの見方は斜めからではなくちゃ、と牧さんは芸の大事な心得を語る。

ネタは電車や街中で拾うという。書斎にこもって本から知識を借りてくる評論家諸氏と、どっちが勉強家だろう。

「やんなっちゃった」も、大勢の人がぼやくのを聞いてピンと来た。今も「嫌になった」の声はあふれる。視界不良の時代、ため息は重苦しいが、牧さんの話では、50年前もボヤキを詰め込んだ電車が走っていた。

列島の勤勉な住民は、いつの時代も「やんなっちゃった」と一緒に歩んできた。そう思うと、肩の力がだいぶ抜けてくる。


おばあさん

2010-11-06 06:57:12 | Weblog
184日間、上海万博に毎日通った日本人女性が「万博おばあさん」の愛称で人気者になったという。

61歳である。それで「おばあさん」とはかわいそうと思ったが、中国では実年齢より上の呼称で呼ぶのが敬語の一種である。「老」が「老い」ではなくて、尊敬を示すのと似ている。

「愛すべきおばさん」と言ったところか、40年ほど前まで日本でも「ことし六十のおじいさん」(船頭さん)と歌ったのと同じで、中国人の平均寿命に合わせて60歳以上は「おばあさん」と呼ぶのかと誤解した人も多かったろう。

国と国の距離感は政権によって変わる。やむを得ないこともあろう。だが、遠くなるばかりでは困る。自国の文化を知り、相手の文化を学ぶ。比較して違いを理解できる目を育てたい。

土足

2010-11-04 09:36:34 | Weblog
尖閣諸島で中国にけんかを売られ、北方領土にロシアの大統領が土足で上がり込む、大手を振って理不尽がまかり通る。

無理が通って道理が引っ込む。そんな話は落語にもある。「つぼ算」は、つぼを商う善良な店主が手玉にとられる一席。

ずる賢い男が店を訪れ、まず3円でつぼを買う。男はいったん店を出て舞い戻り、6円の大きなつぼがほしい、と返却を持ち掛ける。

それなら売値の3円で引き取る、と店主は言う。すかさず男は畳み掛ける。「先に3円払ってある。都合6円になるな」。「そうです」とつい口にする店主。

6円のつぼが3円で買えた。笑福亭仁鶴さんの十八番で、巧みな話術に聴いている方も引っ掛かりそうになる。

「先に三円渡してある」が、だましのタネ。同様に、ありもしない既得権益を振りかざすのが領土問題の火種である。

道理を押しのけて無理を通す。国際政治の裸の姿をまた見せつけられた。おかしな「つぼ算」に納得できず、店主の頭はこんがらがる。「それがこっちの思うツボや」がオチ。

楽しい落語だが、無愛想な隣国の指導者たちの顔が浮かんできて、笑えそうにない

中国

2010-11-02 07:54:12 | Weblog
中国の反日デモが収まらず、矛先が中国政府に向けられ始めたという。当局が「一定の理解はできる」としながら強力な抑え込みに転じた理由もそこにある。

反日をスローガンにすれば破壊行為も許されるのを「愛国無罪」と叫んだ。かって日本の全共闘運動が好んだ「造反有理」を思わせるスローガンである。元々は「水滸伝」のエピソードに由来するのが「造反有理」である。

それが革命運動の中で、目的が正しければ暴力で民衆主義を破壊するのも許される意味に転化した。ストレートに「革命無罪」と表現することもあった言葉が、時代とともに「造反有理」から「愛国無罪」へと変わってきたのだった。

表現がいくら変わろうとも、一党独裁の矛盾が変わることはない。貧富の格差や自由が規制されることの不満の源は自国政府にあることが、過激なデモの中であぶり出される。

大衆を扇動することの危険性と言ってもいいだろう。過去に身勝手な論理を振りかざして来た者は、自らの過去に逆襲される。

「造反有理」と叫んでのし上がってきた日本の市民運動出身の政治家も、ひとごとではない。