1945(昭和20)年8月15日の正午、敗戦を伝える玉音放送は始まった。昼に分かった日本敗戦の事実が「8月15日付」朝刊に残っているのはなぜか。
経緯はこうだ。政府の敗戦決定は、14日深夜11時から各新聞社に伝達された。極秘の紙面製作が始まり、翌日正午の放送終了を待って印刷されたのだった。
15日付朝刊は朝に届かず、夕方になって読者に届いたのである。全国の新聞社が一律に前夜から対応できたのではなかった。新聞統合で一県一紙となっていたころで「大東亜戦争終結」を伝える石川県は朝刊は15日付で出たが、富山県では16日朝刊になった。
各地ばらばらで、15日付朝刊、15日夕刊か号外、16日付朝刊に掲載する3通のケースが生まれたのである。中には空襲被害で通信社の連絡を傍受出来ない地方紙もあった。
終戦時の混乱を物語る「8・15」の新聞事情である。その日から65年、8月15日付朝刊を何気なく手にしている。昨日と同じように、きょうも、また明日も変わりなく新聞は届く。
当たり前のことが当たり前にできる社会が続くように願っている。
経緯はこうだ。政府の敗戦決定は、14日深夜11時から各新聞社に伝達された。極秘の紙面製作が始まり、翌日正午の放送終了を待って印刷されたのだった。
15日付朝刊は朝に届かず、夕方になって読者に届いたのである。全国の新聞社が一律に前夜から対応できたのではなかった。新聞統合で一県一紙となっていたころで「大東亜戦争終結」を伝える石川県は朝刊は15日付で出たが、富山県では16日朝刊になった。
各地ばらばらで、15日付朝刊、15日夕刊か号外、16日付朝刊に掲載する3通のケースが生まれたのである。中には空襲被害で通信社の連絡を傍受出来ない地方紙もあった。
終戦時の混乱を物語る「8・15」の新聞事情である。その日から65年、8月15日付朝刊を何気なく手にしている。昨日と同じように、きょうも、また明日も変わりなく新聞は届く。
当たり前のことが当たり前にできる社会が続くように願っている。
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