60歳を過ぎ、ただ1人で地方の山小屋に住み自給自足の生活ができるか・・・となるととても自信はない。
詩人で彫刻家の高村光太郎はそれをやってのけた。まことにタフな芸術家でもあった。「智恵子抄」で知られる最愛の妻、智恵子を亡くしたのは1938(昭和13)年である。
戦後すぐに岩手県花巻郊外の山中にこもり自伝や詩作を続けた。妻の死と当然、無関係であるまい。やまごもりは戦争に協力したのも一因とする説がある。
やがて青森県に依頼された裸婦像作成のために上京。悪化した結核と闘い完成した。
智恵子のもとへ旅だったのは昭和31年の4月2日だった。
詩人で彫刻家の高村光太郎はそれをやってのけた。まことにタフな芸術家でもあった。「智恵子抄」で知られる最愛の妻、智恵子を亡くしたのは1938(昭和13)年である。
戦後すぐに岩手県花巻郊外の山中にこもり自伝や詩作を続けた。妻の死と当然、無関係であるまい。やまごもりは戦争に協力したのも一因とする説がある。
やがて青森県に依頼された裸婦像作成のために上京。悪化した結核と闘い完成した。
智恵子のもとへ旅だったのは昭和31年の4月2日だった。