こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年4月5日 日曜日 「1981~1982年1~4月の断片」

2015-04-05 23:03:33 | 音楽帳

歩き疲れ、眠った昨夜。朝、窓ガラスに当たるような音がした。
「雨だ」と思ったが、その固い音はまるでひょうのように聞こえた。

何度か寝たり目覚めたりをしつつ、ダルさから横になっていた。光に乏しい日。
おまけに冬に戻ったような寒さ。昨日は薄着で外に行ったが、失敗して震えていた。今日もその延長線上。
歩いても少しもからだがあったまらない。

ネコたちには、あまり出逢わない。雨に寒さの二重苦で、どこかに避難しているんだろう。
容量の少ない野外録音機をmp3プレイヤーとして使っているが、今日はもっぱら、ザ・ポップ・グループ、スリッツ、ニューエイジ・ステッパーズ、ノン・バンドなどの選曲したものが友。

このへんも1981→1982年の”におい”がする。あくまで”私”の体内で喚起されるもの。
プログレ、パンクにはリアルタイムで出会えなかった”私”を位置づけすると、アフターパンクとなるのだろう。それらの音からチョイスしたものを、テクノかニューウェイヴで当時も今もくくっていた。

今日聴いていたものにも、パンクという先達が居てこその流れ。そこで産まれた自由度ある音だったのだ。そうよく解かる日である。
「パンク」と一言でまとめて呼ぶことに大竹伸朗さんは大きな抵抗感を示していたが、クラッシュやアンディ・パートリッジなどにレゲエ、ダブ、カリブといった要素が入り混じる姿から、言わんとする空気感は想像つく。

これらの空気に触れられたのは、教授の「B-2ユニット」とそれが産まれた背景と周囲の音楽。それらは1981年4月に始まった「坂本龍一のサウンドストリート」で掛けてくれた音楽で、やっと出会うこととなる。

ザ・ポップ・グループは、1981年に解散してしまうが、アルバム未収録曲をかき集めた「We Are Time」が国内発売されたのが1982年2月1日。同時にラフ・トレードからレインコーツのLPが発売される。スリッツの2nd LP「ザ・カット」は3月の国内発売。ニューエイジ・ステッパーズ含めて、いずれも教授は1981年の放送で掛けてくれた。

ノン・バンドがテレグラフ・レコードから作品を発表したのは1982年だが、このへんの日本のアンダーグラウンド/自主制作盤を「ミュージックマガジン」で見たのが2月号。
それらを特集した森脇美貴夫さんの記事を再びながめて「そうそう」と思うのが、オートモッドや水玉消防団、ゼルダにスターリンに・・・そういったレコードジャケット。モノクロ印刷の小さな写真。
といって、それらをちゃんと聴いて、ちゃんと受け入れられたのは後のことであった。まあ、ゼルダだけはリアルタイムで何の抵抗も無く受け入れられたが。

スリッツは曲によって、トレイシー・ソーンが居たマリン・ガールズに重なる。またノン・バンドも、これら2バンドおよびゼルダの音と指向性がお互い繋がり会う。またスネークマンショーの2nd LPに収録されたリップ・リグ&パニックの曲に似たニュアンス曲があるな。
そう思いながら、雨が降っては傘を再び差し、シャッターを切りつつ歩くのだが、途中から腰痛が出始め・ぎっくり腰のようになる。

休み休み何とか歩き、土着喫茶店で心身ともに温まり家に戻る。
そうしてPIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の作品「フワラーズ・オブ・ロマンス」(1981年)を久々に聴く。
当時も気付いていたか否かは今では分からないが、1982年1月マルコム・マクラレンのプロデュースで発表されたバウ・ワウ・ワウの原型じみた曲があることに気付く。まあ、ピストルズもマクラレンなので、そうなるのだろう。
B面最後の曲「Francis Massacre」は、バウ・ワウ・ワウの”コピー”として使われた造語「ジャングル・ビート」。そこから、1981年、ニューロマンティスクの代表バンド”アダム&ジ・アンツ”も想い出される。

これらすべてに言えることだが、土俗的なにおい。ロックが行き詰まりパンクを経て、それらは第三世界の音楽に救いを求めていたのだから当然と言えば当然。
こうやって聴いていると、どれも音にホネがある。そこがおもしろいし、未だに聴ける。

こう言うと”年寄りが昔はよかった、と懐かしんでいるんだろ、しょせん”と思う人が必ずいる。だが、全然的外れもいいところ。じゃあ、90年代以降のアンビエント~エレクトロニカは?と言えば、そこにもちゃんとホネがある、と思うし、説明する必要も無いことである。
単純にホネの無い一過性の音楽は聴きたくないだけのこと。だ

■New Age Steppers 「Private Army」1981■
(「坂本龍一のサウンドストリート」1981年5月12日)


本日も備忘録なり。

PS:今日聴いたこれらの音は、どれもが「大くくりではポップス」「大くくりではロック」から逸脱しようともがいているが、そこにヴァイオリンが効果的な役割を果たしている曲が見られるのが妙味。












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2015年4月3日 金曜日 「春の嵐の月夜。ピンクフロイドを聴く。」

2015-04-03 23:52:07 | 音楽帳

「散るをいとふ 世にも人にも 先がけて 散るこそ花と 吹く小夜嵐(さよあらし)」(三島由紀夫)

春の嵐。せっかく咲いたというのに、すぐに桜を散らして行く。止めようもなく。
桜という花の美しさとはかなさ。
花びらは風に舞い、落ちた川のみなもで文様を描いて流れてゆく。

夜はまんまるのお月様が流れる雲の中で、ぼんやり浮かんでいる。
幻想的な光景。

***

「人生で君ができることは、結局君自身であり続けることくらいだ。
ある人たちは君が君であるために、君を愛してくれるだろう。
大部分の人たちは、君がその人たちにしてあげられることで、君を愛してくれるだろう。
そのほかの人たちは、君を愛してはくれないだろう。」


“きみはきみでしかない・ぼくはぼくでしかない”ということを神経質に恐れすぎるときには。。。

上に書いた手合いのシニカルな「物言い」は、いい加減聞き飽きた。
確かに事実だろう。だが、ネガティヴになり過ぎたところで、何もありはしない。気にし過ぎたところで意味がないのである。

ただ、そうは言っても、逃げられない鬱な意気消沈するようなときはあるはず。
そういうとき用に、自分なりの気を紛らわす術を何パターンか用意するだけだ。

ウソでもいいから、好きな“あなた”がしあわせであるように。

ピンクフロイドは歴史に残るべき音楽なのだということを、自分が必死こいて言うまでもなく、それは数十年前から確定した“事実”。その理由もはっきりしていて、“にんげん”なる存在の深淵と訳の分からない不可解さの源を切り取り音楽に定着させている点。

決して難易度が趣味の音楽ではない。道を進もうと思えば自然とそうなるはず。
ところが、そこで奏でられる旋律がとてもメロディアスだったりするので、腰砕けという批判も浴びた。あるいは、80年代をむかえようとする段階で既にプログレッシヴロックは絶滅しており、唯一と言っていいくらいにその中で残っていたのがピンクフロイドだったので、自分の兄のようなプログレ世代からも「フロイドはきたない」などと当時言われるような存在だった。(現代のように、多くの支持者に囲まれる状況では無かった。)

しかし、そんな80年代になってもアメリカの「ビルボード」チャートに延々としぶとく、ピンクフロイドのアルバム『狂気(ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)』は頑として居座っていた。これがヨーロッパなら分かる部分はあるが、それがアメリカのチャートだったので、なお一層の謎が当時の自分にはあった。

私がピンクフロイドと初めて出会ったのは、ラジオから聴こえてきた「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」。二枚組アルバム『ザ・ウォール』からのシングルカット。1980年、土曜昼下がりのポップスベストテン。先だって話した「フロイドはきたない」(兄)とは、この頃言われた言葉である。

この頃、カセットテープを買うとポイントシールがあって、集めると抽選でLPレコードがもらえるキャンペーンがあった。その小冊子には2~3センチメートル角のカラー印刷でびっしりLPレコードのジャケットが掲載されていて、何度もながめては、ピンクフロイドのジャケットデザイン(ヒプノシス)の素晴らしさに「ああ、こんなレコードが全部買えたら」と憧れていた。特に「アニマルズ」の工場と煙突の風景に胸打たれた。

その後、やっと1981年、兄が彼らの存在を認めていた時代に買った「狂気」「炎」のLPレコードを借りることが出来た。その日からカセットテープに落として聴くことになる。アルバム一枚まるごとがコンセプチュアルに創られていて、ジャンルがどうのこうの・・・プログレがどうのこうの・・・では済まない世界を覗いた感覚が産まれた。

1982年春。「なぜか」ブロンディ、スティクス他ベスト盤シリーズがたくさん発売された中、ピンクフロイドのベスト盤(?)も発売された。作品名「時空の舞踏」。元々長い分数構成のフロイドを一枚にまとめようという暴挙。「ベスト」というより「入門編」と言えばよかったのに。

ピンクフロイドというバンド全体を哲学的、と言うと、ただのスノッブが気取って小難しい詞とケムに巻くような音で括っているバンド&「取り巻き」を思い出すが、そんな連中と一線を画した「シャレにならない」度合がフロイドたるもの。

たとえば「Wish You Were Here」と「Time」、このたった二曲だけ挙げてもそれだけでノックアウトである。たいていこういった音楽は、日常茶飯事聴きたいとは思わない(であろう、ふつう)。それは私も同じはずだったが、この十余年フロイドを聴き直すうちに、何度も何度も聴きたくなる。
その「この十余年」は、初めてピンクフロイドを聴いた80年代とは異なる。
歌詞を知ったということが大いなる違いであり、たぶん知れば青ざめることは分かっていた。むしろ知らなければ良かったとさえ思える内容。そこで「狂気」「炎」「鬱」などを改めて聴いていくこととなった。

大学からの友MZ師と会って話していると、文学青年だった彼もピンクフロイドが好きで、よく「Time」の歌詞をそらで言うことがあった。それもあって昔、このブログでその歌詞を載せたこともあるが、その時点さえ肉感を持ってその意味合いの重さを理解していなかった。

MZ師「(歌詞をすらすら言ったあと)・・・いかに怖い歌詞か、分かるか?」
私「ああ、わかっているよ」

三人で会っては毎週街歩きをしていた。そこから相当時間が経過する。この頃二人でなした会話を、今はもうしたくない。

今夜はむしろ、気が狂ってきちがいになってしまったシド・バレッドへの愛がつづられる「Wish You Were Here」の詞を載せたい。
■今夜の写経■
今でも、おまえは分かっているのか?

天国と地獄 青空と苦痛の違いを
冷ややかな鋼鉄の線路と緑なす野原の違いを おまえは今でも分かっているのか?
英雄と亡霊とを交換するやつらの取引に おまえは応じてしまったのか?

樹々のために熱い灰を売りとばし 涼しげな微風のために暑い空気を忘れ
変化がほしいために居心地のいい安らぎを 手放してしまったのか?
檻のなかの主役になるために 戦いに参加することまであきらめてしまったのか?


ああ おまえにそばにいてほしい
ぼくらは来る年も来る年も ひとつの金魚鉢のなかをさまよう哀れな魂
同じ大地を走りまわるだけで いったい何を見つけたというのだ?

結局、昔と変わらぬ恐怖だけ 
おまえがここにいてくれたら  (訳:山本安見)

■Pink Floyd 「Wish You Were Here」1975■




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2015年4月1日 水曜日 ~ 2日 木曜日

2015-04-02 22:16:41 | 音楽帳

2015年4月1日 水曜日
どうしても離れられない”場所”。
”場所”に”時(とき)”と”記憶”がらせん状に絡まり合う。

赤坂・麹町・永田町。この場所は、この数年降り立っていない。
だが、小学一年生から中学三年生まで9年も居た場所である。
ここでさまざまなことが起き、その場に自分は居た。はずである。

音もしない静かな部屋。
外には、やっと咲いてくれた満開の桜にダメージを付ける雨が降り、その雨音だけがする。

東京。
といっても、ほとんどが23区内の限られた場所に、この40余年自分がすり減らしたクツ底が削れて地べたにうっすら「在る」。(多摩地区にも愛と想い入れは強いが)

ユングが思索する際にこもった”ボーリンゲンの塔”のように独り部屋でたたずみ、眺めすぎてボロボロになってしまった雑誌をめくりながら、タバコをくゆらせていると、点と線が先述のらせんとさらに絡み合ってくる。

悪しき記憶も多いが、赤坂周辺を去る前1981-1982年の雑誌をめくると、教師・PTAの目を盗んで入った赤坂見附駅のサーティーワンで食べたアイスの味なんかを想い出す。
また、1982年1~3月受験の頃というのに、友達数人でほつき歩いていたときのことや、チケット売り場に有って・持って帰ったトーキングヘッズ、プリテンダーズ、ウルトラヴォックスなどのライブ広告の2色印刷チラシのくすんだ色合いも想い出す。

ゴミ屋敷に在って、いつも手に取りめくるのが80年代前半の「ミュージックマガジン」。
この家にあるほとんどは(いつも見る雑誌は別として)やはり処分すべきモノばかりじゃないだろうか?と冷静に今夜思った。

というのも、引っ越し以来開封していなかった段ボールを開封し出したのだが、中に入っているのはほとんどが紙類。
それはチラシ、新聞の切り抜き、雑誌、本、あと広告の入ったウチワやポストカードなど。
今夜開けると、ほとんどがカビをかぶってしまっていた。ああ、と嘆く一方、カタチあるものはどうあがいても壊れていく無常を感じた。結局ためこんでもこうなるのだ。

それらが全て崩れていっている様を眺めると、やはりモノではなくココロに刻まれたものしか残らないのだろう。残るも何も、この自分が消えればすべて消えるのだが。

先日、とある方の素敵なブログを見ていて一番自分を惹きつけたのが”備忘録”というテーマに沿って文字を綴っている点だった。
その方は「自分がいつまでボケないでいられるか自信がないから、忘れる前にこうして綴るのだ」と書いていた。共感する部分があった。

【トーキングヘッズ「リメイン・イン・ライト」ライヴ。1981年春にNHK-FMでエアチェックしたカセットテープが出てきた。
インデックスカードは”FMfan”から切り抜いた吉田カツさんの絵。】


2015年4月2日 木曜日
二日酔い的なふらふらの朝。なんとかはいつくばって外に出る。そうして電車に乗る。
歩くことに慣れてしまった最近まずありえないことだが、椅子にすわりたい。冷や汗が出る。
車内には、気持ちが悪いまっさらの新しいスーツで中身をごまかした者たち。男も女もいる。群れじゃないと動けない集団。吐き気を催す。

外に出ると苦しさも一山越える。
歩き出す。雨上がりの朝。青空を雲が悠々と流れている。そこに満開の桜がある。
空・雲・桜、そして日差しとやさしい風。その組み合わせのなか、歩く心地良さ。
決して見下ろすこともなく、空ばかりを見ていた。

そこに加わるのは、デイヴ・ギルモアの弾くギターが美しいピンクフロイドの曲。
選んだインストゥルメンタル曲を、聴いている今週。
なんの変哲もなく流れていく音に身をゆだねる心地良さ。

体調がひどく悪いときに「こそ」、そういう心身を救ってくれる音楽のいとおしさが分かる。それはかつてブライアン・イーノ、ハロルド・バッドらに救われた出来事と同じ。どんな飲食や薬より自分の魂を鎮めてくれた音楽たち。

外で横になって、流れる雲を見ながら音楽を聴きたくなる。
CDウォークマンを持ち歩き、川端でごろんとやって、音楽を聴いていた幸せな時間がふたたび訪れそうな予感。
風が気持ち良い。



■藤原さくら 「Walking On The Clouds」2015■
最近ラジオから不意に流れ、一発で惹き付けられた一曲。
こんなふんわりした素敵な曲も、ピクニックみたいにサンドイッチと一緒に、布袋に詰め込んで風の下へ行きたい。ステキな曲との出会いに感謝。














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