こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2015年4月1日 水曜日 ~ 2日 木曜日

2015-04-02 22:16:41 | 音楽帳

2015年4月1日 水曜日
どうしても離れられない”場所”。
”場所”に”時(とき)”と”記憶”がらせん状に絡まり合う。

赤坂・麹町・永田町。この場所は、この数年降り立っていない。
だが、小学一年生から中学三年生まで9年も居た場所である。
ここでさまざまなことが起き、その場に自分は居た。はずである。

音もしない静かな部屋。
外には、やっと咲いてくれた満開の桜にダメージを付ける雨が降り、その雨音だけがする。

東京。
といっても、ほとんどが23区内の限られた場所に、この40余年自分がすり減らしたクツ底が削れて地べたにうっすら「在る」。(多摩地区にも愛と想い入れは強いが)

ユングが思索する際にこもった”ボーリンゲンの塔”のように独り部屋でたたずみ、眺めすぎてボロボロになってしまった雑誌をめくりながら、タバコをくゆらせていると、点と線が先述のらせんとさらに絡み合ってくる。

悪しき記憶も多いが、赤坂周辺を去る前1981-1982年の雑誌をめくると、教師・PTAの目を盗んで入った赤坂見附駅のサーティーワンで食べたアイスの味なんかを想い出す。
また、1982年1~3月受験の頃というのに、友達数人でほつき歩いていたときのことや、チケット売り場に有って・持って帰ったトーキングヘッズ、プリテンダーズ、ウルトラヴォックスなどのライブ広告の2色印刷チラシのくすんだ色合いも想い出す。

ゴミ屋敷に在って、いつも手に取りめくるのが80年代前半の「ミュージックマガジン」。
この家にあるほとんどは(いつも見る雑誌は別として)やはり処分すべきモノばかりじゃないだろうか?と冷静に今夜思った。

というのも、引っ越し以来開封していなかった段ボールを開封し出したのだが、中に入っているのはほとんどが紙類。
それはチラシ、新聞の切り抜き、雑誌、本、あと広告の入ったウチワやポストカードなど。
今夜開けると、ほとんどがカビをかぶってしまっていた。ああ、と嘆く一方、カタチあるものはどうあがいても壊れていく無常を感じた。結局ためこんでもこうなるのだ。

それらが全て崩れていっている様を眺めると、やはりモノではなくココロに刻まれたものしか残らないのだろう。残るも何も、この自分が消えればすべて消えるのだが。

先日、とある方の素敵なブログを見ていて一番自分を惹きつけたのが”備忘録”というテーマに沿って文字を綴っている点だった。
その方は「自分がいつまでボケないでいられるか自信がないから、忘れる前にこうして綴るのだ」と書いていた。共感する部分があった。

【トーキングヘッズ「リメイン・イン・ライト」ライヴ。1981年春にNHK-FMでエアチェックしたカセットテープが出てきた。
インデックスカードは”FMfan”から切り抜いた吉田カツさんの絵。】


2015年4月2日 木曜日
二日酔い的なふらふらの朝。なんとかはいつくばって外に出る。そうして電車に乗る。
歩くことに慣れてしまった最近まずありえないことだが、椅子にすわりたい。冷や汗が出る。
車内には、気持ちが悪いまっさらの新しいスーツで中身をごまかした者たち。男も女もいる。群れじゃないと動けない集団。吐き気を催す。

外に出ると苦しさも一山越える。
歩き出す。雨上がりの朝。青空を雲が悠々と流れている。そこに満開の桜がある。
空・雲・桜、そして日差しとやさしい風。その組み合わせのなか、歩く心地良さ。
決して見下ろすこともなく、空ばかりを見ていた。

そこに加わるのは、デイヴ・ギルモアの弾くギターが美しいピンクフロイドの曲。
選んだインストゥルメンタル曲を、聴いている今週。
なんの変哲もなく流れていく音に身をゆだねる心地良さ。

体調がひどく悪いときに「こそ」、そういう心身を救ってくれる音楽のいとおしさが分かる。それはかつてブライアン・イーノ、ハロルド・バッドらに救われた出来事と同じ。どんな飲食や薬より自分の魂を鎮めてくれた音楽たち。

外で横になって、流れる雲を見ながら音楽を聴きたくなる。
CDウォークマンを持ち歩き、川端でごろんとやって、音楽を聴いていた幸せな時間がふたたび訪れそうな予感。
風が気持ち良い。



■藤原さくら 「Walking On The Clouds」2015■
最近ラジオから不意に流れ、一発で惹き付けられた一曲。
こんなふんわりした素敵な曲も、ピクニックみたいにサンドイッチと一緒に、布袋に詰め込んで風の下へ行きたい。ステキな曲との出会いに感謝。














コメント
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