こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年4月7日 月曜日 音楽風景 ~今は亡き・幻想としての中国~

2014-04-07 23:41:50 | 音楽帳

現2014年、国家(政府)としては、どーしようもないという事実があきらかになってしまった中国。
その巨大な国土と人民の数は、地球に及ぼす悪影響の度合いとして、アメリカと双璧をなす脅威となり、事態の深刻度は増している。
(今「巨大な」と言ったが、いったいどこまでは国土であり、どれだけを人民とするのかも、極めて不明瞭)

実際に、自分が初めてその国の土を踏んで・空気を吸ったのは1999年頃だったが、現実の恐ろしさを肉眼で確認した。
「もう二度と、この地の土を自分の意志で踏むことは無いであろう。」
と思った。

この時点では、とうの昔に夢から醒めており、粛清という名義の元に、数千万人以上の虐殺をしてきたことを知っていた。

***

しかし、遠く思い返せば、アメリカ同様、中国に対しても、子供・学生時代には、異国への幻想を抱いていた。

1972年(昭和47年)初めてジャイアントパンダが上野動物園にやってきて、日本国内大騒ぎになった。
そのとき、寿司詰めの中、母親とパンダを見に行った。
初めて見る不可思議な動物。

その頃、パンダのイラストをデザインした水彩絵の具セットを買ってもらって、それを使っていた記憶がある。
その絵の具セットの「あか(赤)」は、それまで塗っていた、チューリップのような赤ではなく、まさに中華人民共和国の旗の色である「深紅(しんく)」という黄味ががった、まるで血のような紅(べに)色をしていた。

***

その次の、自分の中での「中国への幻想」と言えば、ついつい浮かぶのは、80年代初頭、中国を用いたCM戦略である。
サントリーが出したウーロン茶のCM。まだ当時、ウーロン茶がお茶として無名だった頃。
こんもりした山の合い間を縫って流れる川、うっすらガスった風景。そこを上手に小舟をあやつり・流れていく三角帽子の船頭さん。
場所は桂林。
このCMの音楽は、清水靖晃が担当していた。

或いは、その後(というかテクノ頂点の段階だが)即席ラーメンの中でも、中国色を強調した「中華三昧」のCM。
言わずもがな、このCMのバックは、坂本龍一作曲。そして、それは1982年の幸宏作品「フラッシュバック」という形となって現れる。

70年代から80年代に掛けて、YMOは、日本人なのに人民服を着て演奏し、わざと誤解をさせるように、ナゾのアジア人を演じてみせた。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ/黄色魔術楽団)の極めて重要な戦略でありながらも、彼らがそれまでのミュージシャンにはない斬新さを持っていた点。
それは、『ただ演奏するだけのミュージシャン/バンド』のみで終わらない「見せ方」「見られ方」を含めた、自分らの『在り方』へのスタンスの取り方だった。
それも、広告代理店なるものが、ハバを利かせる前夜。
その絶妙さは、彼らに刺激されて集まってきた・多くの優れたスタッフを伴いつつ、1983年末の散会まで、見事な芝居を演じてみせた。
濃厚なる5年の大活劇。

【80年代当時、雑誌から切り抜いて取ってあるチラシ・ファイルからの数枚】
ヨーロッパのミュージシャンの東洋アジア幻想は、この時期のYMOをはじめとした日本の音楽に大きな影響を受けていた。
だが、かれらにとっては、日本も中国も朝鮮もどれもが一緒くたのイメージであり、違いなど分からない。
それらユーロピアンにもたらしたアジアン・オリエンタリズムに対する魅力と興味は、奇妙な想像上のどの国でもない「アジア的音楽」を産み、日本のテクノとの相互影響をさせながら、独自の世界観に発展・結実していった。

■イエロー・マジック・オーケストラ 「TONG POO(東風)」1978■
PS:ぜんぜん関係ないのだけれど、即席ラーメン「中華三昧」が大好物だった。
即席ラーメンとしては、高級品であったが、さすがそれだけあって、おいしく、キャベツ・にんにくを油コテコテで炒めたものを乗せては、ようく食べた。
思えば、1985・1986年あたりまで、しょっちゅう作っていた記憶がある。
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