こころとからだがかたちんば

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音盤日誌:ティアーズ・フォー・フィアーズ 「ザ・ハーティング」1983年

2022-02-27 21:00:00 | 音楽帳

ベストヒットUSAの2月25日放送(金曜・深夜)にオンラインでティアーズ・フォー・フィアーズの2人が登場した。克也さんとのインタビューは「Everybody Want To Rule The World」当時のベストヒットUSA映像を見ながらで、お互いの1985年の若い姿に苦笑いをしながら語り合った。彼らのファンであった私は、黙って息を潜めて番組を見た。
彼らはすでに新作を昨年暮れに発表しており、その新作から「THE TIPPING POINT」という曲のスタジオライブが掛かった。来週のベストヒットUSAも引き続き彼らのインタビューを中心にした番組になる。

映像で見るオンライン画面のローランド・オーザバル、カート・スミスの老い具合。
「いつのまにこんなに時間が経過してしまったんだろうか?」という浦島太郎さながらの心境になる。最近こう思うことが多い。しかし、その一方で、克也さんも彼らも、それぞれの持ち場で元気でいることには安堵する。それがいつまでとか・・明日は・・とか語らず、今なりの見方・聴き方で味わおう。そう言い聞かせる。



ティアーズ・フォー・フィアーズを初めて知ったのは1982年11月だった。
初めて聴いた曲はシングル「マッド・ワールド(狂った世界)」だった。1982年11月27日ピーター・バラカンさんがラジオ番組「スタジオテクノポリス27」(土曜深夜3時~・FM東京)で掛けてくれた。聴いたとたんに気に入り、この曲が入ったエアチェックテープを当時ずっと繰り返し聴いていた。
それと前後して(どちらが先だったか?)、大貫憲章さん&今泉恵子さんの「全英TOP20」(土曜深夜2時~・ラジオ日本)で、期待の新人アーチストの1組としてティアーズ・フォー・フィアーズが紹介され、「マッド・ワールド」が掛かった。すでにシングル「チェンジ」がイギリスのチャートに入っていた契機だったかもしれない。このへん記憶はあいまいだ。

多くの人にとって初めて聴いた曲は「マッド・ワールド」だっただろう。ナイーブなサウンド、流麗なメロディとシンセサイザー。レコードジャケットのポートレイトに象徴されるように、うつむき加減で繊細な2人の青年の姿。曲と彼らのイメージがとてもマッチしていて、自分をとりこにして離さなかった。「マッド・ワールド」は3枚目のシングルで、この前に2枚のシングルがすでにあった。
① 「サファー・ザ・チルドレン(悩める子供達)」(1981年10月発表)・・・デモテープとして作った曲がそのままOKとなったというこの曲は、プロデューサーにデヴィッド・ロードがクレジットされている。
② 「ペイル・シェルター」(1982年初頭発表)・・・マイク・ホウレットをプロデューサーに迎えた曲。余談:マイク・ホウレットというとついチャイナ・クライシスを想い出す。
③ 「マッド・ワールド」(1982年10月?発表)・・・クリス・ヒューズがプロデューサーになっており、彼は1,2枚目共にアルバムのプロデューサーにクレジットされている。また2枚目のアルバムでは、プロデューサー兼「メンバー」としてクレジットされることになる。
④ 「チェンジ」(1983年2月発表)
 12インチ・シングル盤「Mad World(狂気の世界)」

ティアーズ・フォー・フィアーズはこれら4枚のシングルを踏まえて、デビューLPレコード「ザ・ハーティング」を1983年3月に発表する。
(国内盤は1983年5月に発売)
★はシングル

A面
1/The Hurting
2/Mad World(狂気の世界)★
3/Pale Shelter (You Don't Give Me Love)★
4/Ideas As Opiates(★Mad World B面)
5/Memories Fade(想い出は消え失せて)
B面
1/Suffer The Children(悩める子供達)★
2/Watch Me Bleed
3/Change★
4/The Prisoner(★Pale Shelter B面)
5/Start Of The Breakdown

タイトル「The Hurting」=傷つくこと、というように、悩める子供の独白や嘆きとそこから脱するための模索が展開されている。自分が買ったのは輸入盤で、歌詞カードも無いし、彼らが何を歌っているかは不明だが、そんな当時の高校生でも彼らの志向は伝わってきた。
歌詞などよりサウンドありき主義の自分にも、響いてくる言葉のフレーズがいくつもある。
陰鬱な青年の内的世界ということでは、おもむきは違うが、当時とても愛していたDepecheModeの作品「A Broken Flame」に近い感触を覚える。
楽曲はほとんどローランド・オーザバルが創り上げたもので、彼が尊敬していたピーター・ゲイブルエルのサウンドに大きな影響を受けていた。民族音楽のエッセンスやリズムを取り入れ、緻密なスタジオワークから産まれたサウンドだったが、一聴すると実にポップな仕上がりだった。

マークを付けて今になってわかることだが、上記10曲のうち、★シングル4枚で6曲が発表済み、残り4曲がアルバムのために制作したものとなる。しかしA面などはあらかじめトータル・コンセプトアルバムとして作られたように思えてしまう。
レコードを買ってすぐはA面ばかり聴いていた。虚空を見上げるかのような「The Hurting」で始まり、2枚のシングルを挟み、曲がシームレスに繋がりながら、A面を一気に聴いてしまう。いっぽうB面5曲は、1曲づつが独立している感が強い。
A面・B面が終わるたびに勉強つくえから立ち上がり、何度もターンテーブルのレコードをひっくり返し、針を落とし直しては、そのたびに自室に夕刻の闇が濃度を増して迫ってきた。そんな1983年の下期を想い出す。


■Tears For Fears 「Watch Me Bleed」1983■

 シングル盤・アップ

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2 コメント

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Unknown (wakaby)
2022-02-27 22:06:01
ザ・ハーティングの紹介ありがとうございます。私は大学時代がリアルタイムで、アルバムを買っていつも聞いていました。とくにザ・ハーティングとペイル・シェルターが好きでした。ペイル・シェルターのシーケンサーの音とアコギの音とナイーブなメロディーの組み合わせが完璧で、何度聞いても鳥肌が立ちます。
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pale shelter (かたちんば→wakabyさんへ)
2022-03-02 22:39:33
wakaby様、いつもありがとうございます。wakabyさんは先輩だから、そうか・・大学生だったんですね。文面から音楽への想いが伝わってきて、みんな同じ思いを抱いて彼らのレコードを聴いていたんだな、としみじみしました。
やはり、ペイル・シェルターにやられた人が多いんですね。そういう私もその1人ですが。。。
当時の自分は繰り返し、語られる「You Don't Give Me Love」というセリフの切なさに参ってました。
こういったセリフや後を引く音が随所にあって、思春期の判然としないありさまに未だ惹かれます。
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