昨日、載せた「回向院」は、明和8年(1771)蘭学者杉田玄白らが、解剖に立ち合ったという場所。
要は、小塚原で死刑に処せられた後の死体を元に、解剖をしたということ。
これが、「解体新書」の元となる資料としてなったのである。

***
ここから少し歩くと、私の生まれ育った三ノ輪がある。
そこには、「浄閑寺」、通称「投げ込み寺」がある。
ここは、吉原の遊女が、死ぬとここに葬られたことから「投げ込み」という表現になったという。
中には、それらの遊女たちを祭る「吉原総霊塔」がある。

「墨東綺譚」の永井荷風は、度々、この遊女たちを哀れんで、その供養に、この浄閑寺に来ていた。それを記念して、荷風のためのモニュメントもここにある。
ちなみに、荷風のお墓自体は、ここには無い。
小さい頃、よくわがまま・ダダをこねた幼少時の自分に、よく親は「そういうダダこねると、投げ込み寺に、捨てにいくよ!」そういった。
100mも無い先にあるこの寺は、それゆえ、小さい頃は、自分にとってとても怖いお寺であった。
***
浄閑寺の斜め前の下駄屋さん(もう無いが)が、写真家 荒木経惟さん(アラーキー)の実家、そして、その数件先が、私の家だった。
アラーキーのお父さんと、私のおじいちゃん、久良吉(くらきち)さんは、盆栽仲間であったという。
アラーキーのお父さんも写真が好きで、よく写真を撮っていたという。
だから、昭和41年、私が生まれる数ヶ月前に、急死した久良吉おじいちゃんのお葬式は、アラーキーのお父さんに、写真撮影をしてもらったという。
そのことは、昔からよく聞いていたが、その写真自体は見たことが無い。
どこかにあるそうだが、そのありかを、実家に行った際に、再び親に聞いてみようと思う。
要は、小塚原で死刑に処せられた後の死体を元に、解剖をしたということ。
これが、「解体新書」の元となる資料としてなったのである。

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ここから少し歩くと、私の生まれ育った三ノ輪がある。
そこには、「浄閑寺」、通称「投げ込み寺」がある。
ここは、吉原の遊女が、死ぬとここに葬られたことから「投げ込み」という表現になったという。
中には、それらの遊女たちを祭る「吉原総霊塔」がある。

「墨東綺譚」の永井荷風は、度々、この遊女たちを哀れんで、その供養に、この浄閑寺に来ていた。それを記念して、荷風のためのモニュメントもここにある。
ちなみに、荷風のお墓自体は、ここには無い。
小さい頃、よくわがまま・ダダをこねた幼少時の自分に、よく親は「そういうダダこねると、投げ込み寺に、捨てにいくよ!」そういった。
100mも無い先にあるこの寺は、それゆえ、小さい頃は、自分にとってとても怖いお寺であった。
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浄閑寺の斜め前の下駄屋さん(もう無いが)が、写真家 荒木経惟さん(アラーキー)の実家、そして、その数件先が、私の家だった。
アラーキーのお父さんと、私のおじいちゃん、久良吉(くらきち)さんは、盆栽仲間であったという。
アラーキーのお父さんも写真が好きで、よく写真を撮っていたという。
だから、昭和41年、私が生まれる数ヶ月前に、急死した久良吉おじいちゃんのお葬式は、アラーキーのお父さんに、写真撮影をしてもらったという。
そのことは、昔からよく聞いていたが、その写真自体は見たことが無い。
どこかにあるそうだが、そのありかを、実家に行った際に、再び親に聞いてみようと思う。