こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

坂本龍一  「Steppin Into Asia」'85年9月9日発売

2009-09-30 00:36:01 | 音楽帳


休み明けの月曜日は、正直、体調が極めてすぐれなかったが、珍しく、昨年度までの上司(といっても、昔一緒に働かせてもらった「仲間感覚」の先輩ですが)が「一杯やって行こうよ」というので、断る訳にも行かず、21:30から2人で落ち着いてビールを呑んで帰ったら、0:30になってしまった。

帰ると、大好きな果汁100%のアップルジュースを、「ゴキュゴキュ」とノドを鳴らして1リットルくらい呑んで寝た。

肝機能が悪いのか?
元々カラダの弱い自分はたんまり酒は呑めるが、その分、たんまりの水分を摂って寝ないと、見事に二日酔いになる厄介な体質である。
それは、自分のカラダを知っている自分にしかわからない事であるが・・・。
(しかし、最近、歳と共に更にそれが悪化したような気がする。)

・・・結果、今朝は、寝坊し、タクシーで近道の駅まで行き、地下鉄に乗って仕事場に着く。
酒は残っていなかったが、体調は昨日より悪化し、絶不調。

そんな中だが、ミーティングやなんやらで、雑事に忙殺されているうちに、「またかよ!」22:00になってしまう・・・・・。

パソコンに向かい過ぎで目がしんどい。
小雨の中、帰る。
天気は下り坂のようだ。

***

またまた、今夜も、かたちんばの素浪人時代、1985年に戻る。

トーマス・ドルビーとの共作「フィールド・ワーク」に続く、矢野顕子・一般人の女の子との共演のシングルがこの「ステッピン・イントゥ・エイジア」であった。



A面は通常MIX、B面は「アーバンMIX」となっているが、正直B面のアーバンMIXはエコー処理が効き過ぎていて好きでは無いので、A面の通常MIXの動画をYOUTUBEで探していたら、こういうナゾのアニメ映像のモノになってしまった。
まあ、画像は無視して、音楽で聴いてくんなはれ。

***

確か、このシングル発売前に、坂本龍一はバリへの旅行を行い、その模様はTV番組(現在で言う「情熱大陸」みたいなもの)でも映像で残っている。
その中で教授が、海で泳ぐシーンがあるが、そんな姿というのも、今に至るまで、これが初めてで最後だった。

現地に、フェアライトなどを持ち込み「Cafe Lotus」という曲を演奏したのが記憶に残っている。

実は、このシングル「ステッピン・イントゥ・エイジア」とほぼ同時期に、モリサ・フェンレイの舞台のダンス・パフォーマンスの為のサントラ「エスペラント」というアルバムも発売されるが、共に、バリ現地で採集した音をサンプリングして使用している。

***

当時、1170円でのこの7インチシングル、発売になってすぐレコード屋さんに走って買いに行った記憶がある。
シングル盤としては高かったが、A面に教授の写真が写ったピクチャー・ディスク仕様だったので納得。

歌っている人は?というと、教授のサウンドストリートのデモ・テープ特集に送ってきた浅野智子さんという一般の人で、教授が気に入って、自分のシングルに採用した。

***

1981年4月にスタートした「坂本龍一のサウンドストリート」。

僕は、その1982年までの初期の、たどたどしい陰鬱な影を感じさせたシャイな教授が、今でも一番好きだが、1982年の矢野顕子との結婚・「戦場のメリークリスマス」でのサントラに対する評価も手伝って、次第に「明るい坂本龍一」に変わって行ったが、1984年の「音楽図鑑」の完成と共に「MIDIレーベル」を立ち上げる頃から、元来持っていた野心家の面が出てきた。
ナム・ジュン・パイクとの「オール・スター・ヴィデオ」、本の世界にも進出し、村上龍や「ニュー・アカデミズム」の旗手=浅田彰とのコラボレーション、ラディカルTVとの「TV-WAR」と、次々とそのスノビズム的な【=実に80年代的な】世界へと、まるで「YMOが自分を束縛させていたのだ」と言わんばかりに、あるいは「YMOからいかにして離れるか/”個”としての坂本龍一とを認めてくれ」と言わんばかりに、躍起になっていく。
<・・・のちのち紹介するが、その彼の抑圧がついに自己崩壊的に爆発するのが1986年の「未来派野郎」と「スポーティな坂本龍一」を演じる「初」のソロ・コンサートだと、僕は理解している。>

僕は、この時代の教授を、今では同時代を生きた過去を愛でる(めでる)、という点では愛しているが、正直な気持ちは、その多様な変化についていけずに、「自分の坂本龍一」(というファンにはありがちな心理だろうが)から、離れていくのを感じていた。
多くの人に、拍手をされると共に、遠い存在になっていった感がある。

正直、「自分が一番」というプライドが高い、彼元来の本性が剥き出しに成り出した訳だが、本気で「若い芽を摘む」という意識も高い彼が、音楽においては本当の素人の人々が作り出す稚拙だけど面白く・心惹かれる「デモ・テープ」を特集し続けたのは、後になってみれば不思議な現象であった。

まあ、それも、世間に出ている「プロ」という人々(特に日本!!!それは、80年代も今も変わらないが)が作り出した多くの音楽がいかにつまらなかったかの裏返しであり、「そんなくだらない・しょーもないプロ音楽よりも面白い音楽が、ここにあるよ」という無言の訴えでもあった。

何はともあれ、全くの一般人の素人だった女の子が可愛い声で語るタイ語の昔話をまじえた「STEPPIN INTO ASIA」。
サビの部分、流麗な英語で歌うのは、矢野顕子。

新たな教授の実験的なシングルであり、当時、毎日、レコード・プレイヤーの上で、このシングルの教授の顔がくるくる回っているのを見ていた。
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2 コメント

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24年か〓 (エチュード)
2009-09-30 12:49:00
ご無沙汰です
この曲が発表されて24年もたったなんて、ハァ うちの娘(17才)に聴かせたところ、「変なラップ(笑)」と言われました まぁ確かにポップな感じが足りないかなって思います
でも、出だしのピアノのバッキングは今聴いてもCOOLデスヨ
また教授関連のお話楽しみにしてます
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80年代は古くならない。 (かたちんば→エチュードさんへ)
2009-09-30 23:13:36
エチュードさんへ

自分は、幸宏さんなみに髪は薄くなったけど、それ以外は、いまだに全く「24年」という時間を全く感じないんですよね。

たぶん、それは、結婚していないのもあるかもしれません。
エチュードさんの娘さんは17歳ですか。
43-17=26
そうか、自分ももし26歳に結婚していたら、居ても不思議は無いのか・・・と全く鈍いですね。

僕は、「すんごくPOP!」と思うのですが、「変なラップ」か・・・・
んんんん。。。そう聴こえるのかな?今の人には。

でも「ラップ」というコトバが出てくるのが、当時と今の違いですかね。
今、「ラップ」という分野があって(自分は興味無いですが)たくさんあるその似たもの同志の「ラップ界」が前提にあると、この曲は異端なんでしょうねえ。

当時は比較する曲もなかったのですが・・。
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