
頭・頚・肩・眼・背中・腰・脚と痛む箇所を、自分自身でマッサージし・ストレッチをし・歩き・更に鎮痛剤を服用しても、何ら消えることの無い、痛みの大波小波の振幅を繰り返す。
接骨院・整骨院・マッサージに行ってはいないが、癒えたと思うのは数十分程度のことで、あっという間に元に戻るのを知っているから行かないでいる。
持病の頚椎ヘルニアマンのせいかどうか?は分からない。
占い師やエセ宗教家と変わらぬ程度の医師が多い中、まっとうな医師なり施術師に出会うには時間を要する。
診察と称したヒアリングをしていくうちに、占い師の常套手段のような軽い発言でもって全てを括り、クスリに「後をよろしく」と託して終わる程度。
「パソコンをいじっていたか?」と聞かれれば「ああ、そうだ。」と答えれば、眼の使い過ぎに帰着。
逆に「いや、今日は外を歩いていた。」と言えば、食事・運動・姿勢・生活環境・他者関係性・ストレス等々、さまざまなる宗教的盲信要因と即直結させ、一件落着させようとする。或いは「様子を見ていきましょう。」
目の前で血を吹き出していれば、それなりの対処療法はあるものの。
如何様にも逃げ道を持ち・変幻自在なるパターン化された応酬話法。
白衣を着て権利をもったがだけの理由で、医師と呼ばれている多くの者たち。
その様は、一般企業人の中によく居る「浅い」あさはかな者たちと何ら変わりは無い。
時間が永遠に続く限り、瞬間瞬間のへんげに応じて、身をかわしつつ・中庸や合間を縫うのが生きることなれども、すぐ0か100かに振り子/メーターが振れてしまう人種たち。
頭が悪く・狂気をはらんでマイナスからスタートし、その借金を祓いきれないままでいるじぶんだが、その程度は分かる。
十人十色だから、そんなレッテル貼り好きの[俗世間]には、我が身は我で守るしか手は無い。
ある地点で我にフィットしていたとしても、ある時を境に我にアンマッチとなれば盲信は捨てるしか無い。
名残惜しいとしても、それを振り切る勇気のみが、我が身を方向転換させる。
それは大衆がよく呼ぶ「風見鶏」とは違う。
そもそも、感知能力が高い優れた生き物たる鳥が、そう呼ばれるのは、実に不名誉であり・迷惑でしかない。
まあ、風見鶏とよく言う大衆側が、風見鶏であるのだが。。。

日々虚ろであるのは、長年に渡る我が身の事実だが、時・々・をまだ生きている我自身が欺瞞そのものであり、日々転向を繰り返している様は、そういう人から見れば風見鶏。
しかし、転向も数千日繰り返せば、0か100では無い・ある範疇に収まっていく。
1つの言い訳として、過去発見した名言が、エイリアンであるゲイリー・ニューマンの「Everyday I Die(日々、ボクは生死を繰り返す)」。
生命体が、寝るという死を経て、再び目覚めるように。
■Gary Numan 「I Dream of Wires」1980■
