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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年8月25日 木曜日 遅ればせながら雑誌「ぴあ」廃刊に思うこと。

2011-08-25 21:32:42 | 想い出かたちんば
ニュースで、雑誌「ぴあ」廃刊を、想い出深いと語るキャスターが居たが、自分からすれば北斗の拳の名セリフ「お前はもう死んでいる」に「とうの昔に」と追記したい。

雑誌「ぴあ」は6つ上の1960年生まれの兄の影響もあり、小学生の頃から買っていた。背伸びして。
実質、自分に雑誌「ぴあ」が魅力的だったのは、この小学生の頃〜1980年代前半まで。

【当時「シティロード」もたまに買った。】

***

当時は薄い雑誌で、小さい文字を新聞を好きで読む人のようにして眺めて、鉛筆で気になる箇所に傍線を引いた。また、小さいながらも載る映画や音楽の写真カットを、カッターでキレイに切り抜いてノートに貼ったりしていた。
映画・音楽・芝居・・・そういう情報がところ狭しと画面にびっしりな中、ページの端っこに、何気ない投稿者の面白話があって、それを読むのも楽しみだった。

こんな風に情報そのものが貴重であって、そういう時代だから「ぴあ」は輝き・機能し得た。

毎回、終わりの方のページにクイズがあって、見開き2ページになる絵の中で色んなことをしないと答えが分からないようになっていた。答えが出た人ははがきに書いて送ると抽選でプレゼントがもらえた。
とその手前のページにはオススメレコードが3×3か4×4程度紹介されていて、各1枚プレゼントコーナーになっていた。
前回の投稿ハガキの数と各々の倍率が記載されていた。
自分も何度かはがきを出したが、当たったのは1回。

1982年に出たマライアの清水靖晃のソロ「案山子(かかし)」という手書きのネコの絵のジャケットだった。
当選の連絡をもらって、ほくほくと気持ちがしながら、池袋のレコード屋さんにそのプレゼントレコードを取りに行った。

***

似た年齢の方ならば御存知の通り、大学生がこの「ぴあ」を創り、それが細々と自分らのようなファンが付いていて続いていた。
同様にして、渋谷陽一も仲間たちと学生時代に「ロッキン・オン」を立ち上げる。そこには、相当な自費(家からの借金含む)が注ぎ込まれていた。

今回、この想い出を語るに調べたら「ぴあ」も「ロッキン・オン」も創刊は1972年という同一だった不思議な符号に驚いた。

「ロッキン・オン」は当時長髪にベース、ギターを抱えた6つ上の兄が毎月購入していた。
私が「ロッキン・オン」を買い出したのは1981年で、それは坂本龍一のサウンドストリートが始まった4月のほかの曜日(木曜日・金曜日)に渋谷さんが出ていて、それを聞き出すのと同時だった。

「ぴあ」は80年代に入って躍進する。次第に不動の独自の位置を確立する。
一方「ロッキン・オン」は、対立軸であった「ミュージック・マガジン」等に比べて決して売れている訳では無かった。

私が当時買った渋谷さんの「ロック微分法」にこんなくだりがある。

『音楽を文学的論理で語るのではなく、音楽そのものの論理で語る、
それができない限り音楽批評はその自立性を獲得する事ができない。
今あるのは、ごくわずかな心理学的アプローチのみである。
まずさしあたっては、そこから始めるしかないだろう。
太平洋までは出てきた、海の向こうはアメリカである。
泳いでいけば、いつかは着くのだろう。
しかし、そんな事が可能なのだろうか。
しかも、僕はカナヅチだし、そんな心境である。』(1982年2月 渋谷陽一)

「ぴあ」が販売部数を延ばし軌道に乗る中、「ロッキン・オン」は苦戦を続けていた。
渋谷さんがよく言っていたのは「売れなければダメなんだ」。
渋谷さんが音楽を語る際にも同様の事を言っていた。

ただ、当時の自分は、今もそう思うが、この時点での「ロッキン・オン」にはとてもでは無いが勝算は無かった。
それでも、編集長渋谷陽一の「ロッキン・オン」には多くの信者が存在し、ひたすら我が道を行くには、志(こころざし)と信念の強さを感じた。
「お前らはそうやって適当に戯れていればいい。いつか我々はお前らを超えてやる。」というモドキ音楽評論家や雑誌への発言。
元々自分含み死んだ「ロック」を否定・解体する流れに対して、化石化した「ロック」を掲げた「ロッキン・オン」の80年代の中での戦いというのは、極めて厳しい状況だったと思う。

その後、ニューウエイヴも去った後にやってきた、新しい解釈でのロックの登場と復権もあり、ロッキン・オンは自分が当時感じた地点から一転して、大きな躍進をした。
渋谷陽一・彼が目指そうとしたシステムが、メディアの中で実際に稼働し出したのである。これには正直驚いた。
そして、今では「ロッキン・オン」も不動の所へと行ってしまった。

***

話は「ぴあ」から逸れたが、軌道に乗った後の「ぴあ」には魅力が無くなった。
そもそも情報を掲載する雑誌は、情報を手に入れる方法がなかなか無い中で「ぴあ」は自分らの味方であったが、80年代情報の渦となりだした時点で、「ぴあ」は単なる雑誌の中の1つになってしまい、この時点で「ぴあ」本来の果たすべき役割は終えたのだ。

だが、それでも続き出し続けた「ぴあ」は、就職情報産業でバブルしたリクルート同様、多角経営とカネの亡者と化し、自分らの「敵」に変わった。

「ぴあ」も「ロッキン・オン」も、決して勝算があるとは思えない時代に立ち上がり目指した志は同じだったが、今では「ぴあ」=悪という意識が自分の中にある。

ということでまとめであるが、雑誌「ぴあ」が2011年に廃刊するのは遅すぎた。
その手遅れが逆に未だに残る「ぴあ」グループの「経営」自体への不信感を増幅させただけだった。
最後まで表紙を書いていたイラスレイター含めて、まあ既に「ぴあ」では無くなった雑誌でも一応利益が出ていたからここまで適当にやってきたのだろうが、そんな腐った雑誌が無くなろうが、自分にはどうでもいい。
逆に最後まで仕事をもらえるからと続けてきた者に欺瞞を感じざるを得ない。

単に巨大化した「ぴあ」グループの経営の中で、不採算部門を切り落とした。
今回の雑誌廃刊には、その程度のことしか感想が無い。

*********************************

PS:雑誌媒体とは異なる一個人の話。
近時、みうらじゅん兄貴は本当に凄いな、とつくづく思う。

80年代中盤だろうか・・「タモリ倶楽部」に出てきたみうらさんは、当時「オタク」という言葉さえ無かったが、自分の道を行くものの、長髪にサングラスはともかく、とても気持ち悪い感じが漂っていた。
先日、実家で親が「整理して出てきたよ」という中学・高校の自分の写真は、見たくもないほど気持ちが悪かった。
女性が学生時に綺麗な姿と反して、思春期の悩める男が抱えた姿はそういうもの。
当時のみうらさんにも、そういう出来上がった形を成してない段階の妖気を感じた。

そこから時代を経て、90年代以降のみうらさんは次第に、その自分が持っていた世界が世間に広がっていく。
結果、彼が創った「マイ・ブーム」も「ゆるキャラ」も一般人が使う言葉になる。
迷える求道師が、一個人でひたすら進めてきた世界がたどり着いたところ。
「童貞フォーク」を毎日創っては録音に残してきたみうらさんは、好きこそ物の上手なれではないが、今ではすっかりカッコイイ姿に変わっている。
53歳という自分より8つも上なのに、未だに精力的に活動していて留まることを知らない。

この休みに、過去自分が好きだった「ストリーム」というステキそのもののTBSラジオの昼の番組にあった「コラムの花道」のYOUTUBE等を知ることで、そこに出ていた映画評論の町山智浩さんが過去みうらじゅんのお付きの編集者で、今でも自分の師はみうらさんと言うのに出会う。
酒を飲みながら当時みうらさんに説教された町山智浩さん。

「悩んだら、自分の一番好きな人を思い出せ。その人だったらどうするだろうか?そういうことを考えたら自ずと答えは出てくる。」
「ボブ・ディランはどう考えるだろう。ジョン・レノンはどう考えるだろう。まあ、ポール・マッカートニーは常に日和った奴だから参考にはならないが、そういう人が思うであろう答えに、自分が進まなかったら、そこでお前の人生は終わる。自分が好きな人になるのを諦めたのと一緒だから。」
「馬鹿野郎、町山。お前、待っていて自分に仕事が来るとでも思っているのか。俺だってイヤゲモノ(変なお土産)とか独りでいくら言っても、誰がそんなものに寄って来る?自分で企画して、自分でその企画を色んな所に持ち込んで、自分でプレゼンして営業しているんだ。町山!営業しろ。」
みうら兄貴のこれらの言葉には、かなりシビれた休みでした。
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2011年7月24日 日曜日 EP-4・佐藤薫との再会・2

2011-07-24 14:01:31 | 想い出かたちんば
1983年にEP-4の「昭和大赦」(原題「昭和崩御」がアウトとなった)を聴いたが、自分には駄目だった中、一方では同時にカセット・ブック「制服・肉体・複製」が発売されていた。



もともとカセットテープにフェティシズムを持っていた自分は、とてもそそられた。
だが「思わせぶりなタイトルばかりだ」と敬遠していたのも事実。
また、もともとおカネが無かったのもある。

1983年に出始めた新しいメディアの形「カセット・ブック」。

限定版であることも多く、本のような厚みの中にカセットを埋め込み、小冊子が付いていて、その小冊子とカセットとの組合せが、私にはとても「欲しい」という感情を渇望させた。

この1983年には、教授の「戦場のメリークリスマス」のピアノ・ヴァージョンを収めた「AvecPiano」が発売され、それは真っ先に買った。



そして、YMOが1983年末に散会した後、1984年秋には、細野さんが「花に水」というカセット・ブックを出す。
イーノの影響で、公共の場で流れるアンビエントを収めたものだった。

***

話はEP-4に戻るが、1984年には「ファウンド・テープス」という12インチが発売される。



あまりにも興味をそそられるジャケットの美しさ。
ここで再度、自分はFMでエア・チェックしたEP-4を忍耐強く聴くが、これもまた自分の琴線には触れなかった。


【YMOウインター・ライブ1981年暮れの冒頭映像】

この頃になると高校2年生。
文武両道の厳しい規律の世界でぼろぼろになり、自分はどんどんと、リズムやドラムの音すら駄目になり、静かな音楽しか聴けない状態に傾いていく。
まあ、それは元からそういう体質と言えばそれまでなのだが。



***

本当にここ数年になって、YOUTUBEで発見したEP-4には狂喜した。
1曲聴いてかっこよく、それに連鎖する動画をすべて見た。
時を超えて気付くものという不思議さ。
同じニンゲンが聴いたものなのに、こんなにも違って聴こえるのは何なのだろうか?

2011年の夏聴く、「ファウンド・テープス」に収録された「ファイヴ・トゥ・ワン」に抱くかっこよさ。

幻のようなもの?
学者がよく言う「お得意のセリフ」を思い出す。

「過去など現存しない。
あるのは、脳が想起する思い違い・思い込みの世界。」

果たしてそうなのか?
私はそうは思わない。
私自体が変化したのだと思う。

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2011年7月23日 土曜日 EP-4・佐藤薫との再会

2011-07-23 16:18:17 | 想い出かたちんば
70年代末から80年代後半に向けて、ニューウェイヴ、そして、アンダーグラウンドを追いかけていた自分だったが、当時、自分に聴く能力が無くて後悔しているものがある。

それが、佐藤カヲル率いるEP-4である。
その粘っこいファンクネスなサウンドは、当時の自分の琴線には触れなかった。


【フールズ・メイト 1983年7月号より】

初めて聴いた記憶が、1983年8月、夏の暑苦しい中だったのもある。
余計に暑苦しさが倍増し、後に貴重なその録音したカセットを消去してしまった。

また、もろブラック・ミュージックそのものの系譜の音が苦手だったのもある。
と言いつつ、多様な音楽を自分の中に吸収していったが、ブラックだけの音楽というのは当時駄目で、インパクトが感じられなかった。
そこにデジタル、テクノ、エレクロニック・・・いろんな味付けが無いと興味をそそられなかった。


【当時の佐藤カヲルは、ハンサムでかっこよかった。そこに追いつくことの出来ない自分が居た。】

夏の暑苦しい自分の部屋に響いたEP-4は「まがいもの」の感じがぬぐえなかった。
ある種、アンダーグラウンドにとどまり、挑発的なタイトルをアルバムに付けたり、その後のミックスチュア的なことをするのも、高校生の自分には、そうすることで神秘感覚を秘めたかのごとく見せるための技術という確信犯的な感情を抱いて拒否してしまったのである。

同じ系譜として、23スキドーなどにも、それを感じていた。

あれから四半世紀以上経ち、ここ数年YOUTUBEで聴いたEP-4のかっこよさには参った。
とともに、当時、自分がそこに同化出来なかったことを後悔した。



高校生の頃、とにかく触覚がきわめて敏感で、胃潰瘍で入院するくらいの神経症だったから、ほんの少しのさじ加減が、自分と音楽とこの世の関わりを左右していた。
ほんの数mm違うだけで、YESかNOとなってしまっていた自分。
フリクション、エディプスは聴けてもEP-4は微妙にフィット出来なかった自分。

胃潰瘍も神経症も、逆療法で酷使することである程度は超えてきたが、途中、自害に失敗しつつ、カネも無ければ安住の地も無い、本当のことを言える・分かち合える友人も居ないといった高校生の心境と、カネ・モノには満たされた隔絶した今の大幅な距離感。

今、すんなりと、EP-4のかっこいいファンクが自分の中に入ってくるのが不思議である。
なぜこうも耳から脳に届く音が違って聴こえるのか?

私はかつて「歳を取ることを昔は自分が次第に摩滅していくと恐れていたが、今は逆に歳を取るたびに、視野が広がり、さまざまな発見がある」と語ったが、このEP-4との再会もその中の1つである。



四半世紀も遅れを取ってしまったが、今だからかっこよく聴こえるEP-4の音楽との再会を、まさに邂逅と言い換えて、聴き込むここ数年である。

EP-4 「Coco」
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2011年6月6日 月曜日 HOT VOICE 細野さんの「まったくアレなのよ」

2011-06-06 18:03:12 | 想い出かたちんば
高校当時、まだ朝日新聞が朝鮮人と中国人向けの反日新聞だとは知らない頃。

夕刊で毎週月曜日「HOT VOICE」という面白いページがあった。



それは、まるでビックリハウスや宝島に影響を受けたかのような、サブカルチャー的なページで、親の目を毎週盗んでは、古新聞が縛られる前に、このページだけを保存し・・・2011年の今も何とかこのゴミ屋敷に保存されている。
今では、約30年を経たおかげで、日焼けしてしまいオレンジがかった紙になってしまっているが、大事な切り抜き。

1982年~1983年の頃面白い時期を経て、次第に構成方針が変わったのか?
つまらなくなり、急に内容構成が変わってしまい、いつの間にか読まなくなった。。。。

***

その「HOT VOICE」に一時期、細野さんが毎週そのとき聴いているレコードを紹介する「まったくアレなのよ」というコーナーがあって、大いに刺激を受けた。

1982年10月18日版に、「拡大版 細野晴臣のまったくアレなのよ」があった。



細野さんのレーベル「ミディアム・レーベル」から出たインテリアのファースト・アルバムが掲載されている。
インテリアは、その後、インテリアズと名称を変えて、ウィンダム・ヒルに移籍してしまったが。



下記は、1982年6月21日の「まったくアレなのよ」。
この1982年初めから、日本のサブカルチャー人の関心を惹き、当時「流行った」ペンギン・カフェ・オーケストラが紹介されている。



教授のサウンド・ストリートでもかかった。
当時、相当な仕事を抱えていた細野さん。
仕事場を離れると、疲労困憊状態で、イーノのアンビエントをかけていた。
ペンギン・カフェ・オーケストラもブライアン・イーノのプロデュース。
確かこの年、ペンギン・カフェは日本に来日したんだっけ。
このときのライブ・テープが家のどこかにあるはずなのだが・・・。
いやいや、捜索には難儀である。

絶望や疲労困憊の東京に、ペンギン・カフェの音楽はゆる~いリラックスの風を運んでくれたのだった。


今日は、1982年前半によく聴いていた彼らの2枚目のアルバムから「エール・ア・ダーセ」をかける。

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2011年5月24日 火曜日 ピー助

2011-05-24 20:04:40 | 想い出かたちんば
大学の頃、ピー助は産まれた。
・・・ように思う。

庭に来ていたシロクロの野良猫メスのヒッキーちゃんと、同じ野良猫の大ボスのオスのシャム猫のかけあわせで、ピー助は産まれた。

何匹か産まれた中で、拾い上げたピー助。

母から離れて、母乳を受け入れないピー助には、当時、鶏がらスープを作り、スポイトでピー助を抱いて与えた。

そのせいで、産まれたときに欲したものが刷り込みになったのか?生涯ピー助は鶏を好んで食べた。

シャムの血を引いて、決起さかんに野良猫と血まみれになるまでよくケンカをした。
やんちゃなネコだった。

大学時代、描いた絵が出てきた。
ピー助を抱いた自分。
当時は、まだ髪があった。
相棒として、よく遊び、よく抱いた。

バックは当時よく行った草加付近の工場のエントツ。

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2011年5月23日 月曜日 雨の夜の望楼

2011-05-23 23:04:11 | 想い出かたちんば
昨夜は、0:00に床に入ったのに眠れず。

3:30までのたうちまわる。
頭の中は鬱になるような雑念渦巻きやまなかった。

7:30厳しくだるい起床。

目玉焼き、ナメコ汁、チオビタ、緑茶。

つくばへ向かうが、京浜東北線飛び込みの影響で、JR内で20数分ストップしたまま。
じたばたしても始まらないので寝る。

AMつくばの方々を歩き、話し、13:09の常総線に乗り都内に戻る。

途中で昼食。
最近、昼ご飯を食べると調子が悪くなる。

14:40都内仕事場に戻り、泥の中のムツゴロウ。

配分を考え、雨の中21:58に乗る。

***

さくりんさんへ

こちらも『ブルー・マンデイ』。



「持続力途切れ、逃避中(+_+)」
そういう時間は大事。

カフェやそういう時間の隙間を見つけて生きていかないとね。



私は、そういうのが下手くそですね。

趣味が懲り過ぎて、趣味では無くなってしまうという、神経症にはありがちなパターン。

『あの時期に、むせるほどの音・音に触れたことが支えになっているのは誰にも曲げようがない。』

自分はラジオも義務感に駆られて録音を随分としてきました。
80年代初頭、毎週日曜日のFM東京で、来日アーティストのライブを放送していました。
しかし、ロクに聞かす、テープが無くなる差し迫った際に、『貴重なはずだったライブテープ』を放棄して、上から録音するはめに…。
必死でチューニングし、FMアンテナの感度を分厚いヘッドフォンで慎重にあやつって録音に付き合った時間はゼロへ。

クラッシュ、プリテンダーズ、ゴーゴーズ、ピッグパグ、クラシックス・ヌーボー、ロキシー・ミュージック、下手くその極致だったニュー・オーダーの日本公演などなどが消去された。

まあ、よく考えれば『ロック恐怖症』の自分が、スタジオ録音のレコードを上回るライブに出会うこと自体、確率的に『打率』は低かったです。

ライブに、アルバムには無い価値を見い出だしたのは極めて少ない。
今、手元に残るは、

●トーキング・ヘッズの奇跡的にカッコ良かった日本公演のライブ。
●アッコちゃんの『また、会おね。』ライブ。
●坂本龍一&B-2UNITSライブ。
●YMO、幸宏、ジャパンの一連のライブ。
●ファンカラティーナの南洋色満載の頃のカルチャークラブのライブ。

結局、色んなライブを録音しながら『コレだ!』というものはそれくらいです。



何でも知ったかぶりをせずにはいられず、得た知識を口にするも、兄に言葉であっという間にねじふせられ、落胆した日々。

まさに、背伸びしては叩かれ、生意気言っては叩かれという具合でした。

若き日の望楼。。。。。。
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2011年4月30日 土曜日 午後 グーグー・・・

2011-04-30 16:28:10 | 想い出かたちんば
音楽・アート・・・そういうものの中、自分は「映画」に対する偏見を長い事思っていた。
何も映画を見ないで生きてきた訳ではない。
ただ、2時間○分見ないと表現が完結できない「映画」なるものは、音楽や絵や写真といった短時間で、人の心に届く力に比べ、極めて表現の力の低いものと、今も思っている。

かつて、細野晴臣大先生が言っていたコトバが僕には正論として、今も心にある。
「1秒、その音楽を聴いただけで、その音の魂が分かってしまう。」

よく、かつてはお金が無かったので「失敗だあ!」と分かってもお金も情報も制限あった中、買ってしまった失敗レコードに、「でも、聴いているうちに何か良いことを発見するだろう」と何度も買ってしまったレコードに「何かが見つかるだろう」と期待を込めて聴いたものの、やはり、音楽のスピリッツというものは瞬時に判断できる、また、それ以上の動物的なカン以上のものは無い。

***

2時間○分見ないと表現が完結できない「映画」は、アートにおいて、極めて低い表現方法と未だに思っている。
ただ、瞬時ピピッときた映画というものは、友となる。



数年前、兄から勧められて、一緒にDVDで見た「グーグーだって猫である」。
実は、私はこの映画に因縁がある。

仕事場に、20代の早稲田出身の女の子が来た。
彼女は、破綻的なお酒の呑み方をする。

私は、いろいろあって40代・独身。
さらに、歳もあって、仕事への拘束時間が長い。

そんな中、20代の女の子に、
「あなたは魅力的な人。
付き合ってください。
一緒に映画を見に、まずは行きましょう。」
という告白をされて動揺した。

彼女は美しい人だった。
しかし、僕には時間がなかった。
そして20代の子を相手にする勇気も、体力も、余裕も、時間もなかった。

私が躊躇し、仕事の渦に巻き込まれて、数ヶ月間経つ間に、彼女には同世代の彼が出来た。

そして、一緒に見るはずだった「グーグーだって猫である」を兄夫婦と見るハメになった。
因縁の映画だった。

***

私は、中高生の頃、やたら「元気」という様を呈した小泉今日子が大嫌いだった。
しかし、歳をお互い経てドラマ「ハタチの恋人」に、長澤まさみのお母さん役で出た小泉今日子の落ち着きと、あえて歳を取ったことに拠る美しさに惹かれた。

大島弓子の実話と、それを投影した漫画を下に創られた映画「グーグーだって猫である」。

因縁はさておき、自分が死に掛けているという中、それでも、「グーグーがシアワセでありますように・・・」とつぶやく小泉今日子のコトバに涙を流して泣いた。
寝転がった青草の見上げる永遠の青空に伸ばす手。



単にネコ好きだけに向けられた映画では無い。
そして、ここに大島弓子役として居る小泉今日子の、歳を取ったがゆえに認められるかもし出す美しさといとおしさ。

愛する麻生久美子の映画以外ほとんど見ない映画に、多くの発見と生きる切なさを感じた。

***

本当は一緒に見る映画だった彼女は、鬱病にかかって私の仕事場を去り、今はどこかで病院に掛かりながらどうして居る事だろう。

2011年4月末、今では、近くて遠い望楼。


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2011年4月24日 日曜日 夜想

2011-04-24 23:31:49 | 想い出かたちんば
夜の街は、明かりも少なく、いつ地震が再発するか分からない中で、風が吹いている。

スーちゃんが亡くなったことで、キャンディーズのCD・DVDが売れているという。
人間というのは野蛮なるものである。
清志郎の時にも思ったことではあるが。
亡くなって急に行動に出る人々。

常に過去を振り返る私はよく馬鹿にされるが、輝いていた瞬間とそれをモロに浴びた事は私の中で未だに輝いて影響を及ぼしている。
だから過去では無く、私にとっては「今」なのである。
そういう輝きを忘れてしまったならば、生きてきた今までは何の意味があるのだろうか?
私が過去にこだわるのではなく、私の中に「在る」から、それを淡々と語り、誰か見えない人に発信し続けるだけである。

歴史は、その過去を歪曲して伝える。
リアルタイムで「在った」事実を歪曲する。
そこには、せめてあらがいたい。
責め・イジメに会うことは昔から慣れている。
言いたい人は言えば良い。

そう思えば、どんなエライ事が起きたのかを語る、現代では大事にされない昔の老人のような若年寄かもしれない。
古いものを汚いものとして処理し、新しいものばかりを大事にする考えにはあらがいたい。

初めて夜中の時間の穴埋め番組で、派手派手のぶっ飛んだ衣装と化粧に包まれ・今まで聴いた事の無い曲を演奏した、まだ売れていない頃のRCに感じた「なんじゃ、これは!」(Byジーパン刑事)いう出来事。

色々な出来事との出会いの集積が私であり、それを捨て去ったら私は成り立たない。

そういう事をひたすらまるで「今の出来事のように」語り続ける事が、暗がりの中で自分の存在を照らす明かりのように思う。

PS:30代は歳を取る事=マイナスと思っていたが、今そんなネガティブな思いは自分には無い。

歳を経ると共に過去が一層輝きを増し、お世話になった同世代の方々が更に新しい輝きを生む事に、生きる喜びを感じる。
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2011年4月19日 火曜日 夜

2011-04-19 22:39:43 | 想い出かたちんば
21:17電車に乗り、ドアの横のパイプ手すりに背中の筋を合わせてぐりぐり。
インスタントマッサージ。

***

くもおさん、お疲れ様です。
スネークマンショー(桑原茂一+小林克也+伊武雅刀)は、想い出深いものがあります。
初めて、私が彼らに出会ったのは、小学生高学年の頃でした。
当時、無理矢理塾に通わされる中、そこでの友達も居ない・作れない自分。
その孤独な友達は、いつも持ち歩いていた小さなラジオとイヤホン。
当時、TBSラジオの21~24時の番組「夜はともだち」とパーソナリティの小島一慶さんの語り口が大好きで毎日聴いていましたが、この番組の1コーナーがスネークマンショーでした。
英語のセリフ、洋楽、間に挟まれるギャグ。
今まで聴いたことの無い・カテゴライズされない不思議な番組。

一方で、YMOとの邂逅。
そして、スネークマンショーとYMOファミリーとのコラボレーション…。

くもおさんも「教授のサウンドストリート」を聴いていたとは…。
まだ暗い陰を漂わせていたシャイな教授とのギャグと本気の入り混じった40分の放送でしたね。



ホルガー・シューカイの「ぺルシアン・ラブ」を初めて聴いたのがこのアルバム。
少し遅れて「ムービーズ」が国内発売されました。

カンの曲で個人的に好きなのは「フロウ・モーション」に入っている『ゴモラー』という曲。
クロスオーバー・イレブンで聴いたものです。

***

「桑原茂一さんの選曲センスはすばらしいと思いました」
まさに。
自ら『選曲家』と語る茂一さんの「つなぎ」や流れはセンスそのもの。
スネークマンショー復活は知りませんでしたが、期待したいですね。

***

PS:今持ち上がっている税収問題。
しつこいようですが、宗教法人名義で全く関係の無い商売しまくっている所から引き出せばあっという間でしょう。
ただ、みんな表に出ている登場人物たちはお互いもたれ合い癒着しているから無理でしょうがね。
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かたちんば夢々日記 : YMO World Tour 1980 ~ 1981 BGM

2011-03-04 00:04:09 | 想い出かたちんば
しんどい夜だから、夢に満ちた『或る日』を想起していた。
頭にあるまま自動筆記をつらづらと……。

***

1980年YMOの確固たる音楽を(結果的には)世界に広めた第2期ワールドツアーは、皮肉にもアルファレコードの強要であった。



そのプラン段階で強要に対してYMO脱退を叩き付けた坂本龍一。
最終的にアルファレコードとの戦いの結果の交換条件が「ソロ・アルバムを何の制限も無く1枚やりたいように作る」ことで決着し、その産物が「B-2UNIT」となった。

少年だった自分は、そんな裏の闘争を知らぬなか、夕方の衛星中継でのテレビ・ライブ生放送に興奮しながら、テレビとラジカセをジャックで結び、生放送の録音の用意を着々とした。

まだ日の明るさが残る下町のテレビの前にひざまつき、刻を待つ。

時差のある現地時間は夜・その刻々とライブが迫るざわめきに同期化していた。

自分にとり、東京が世界の発信基地となったその瞬間の瞬きそのものだった。

素晴らしくシンプルでカッコイイ、ステージセット。





真ん中奥に鎮座した憧れの大きなコンピューターの『たんす』とそれを神妙に全体コントロールする名参謀=松武秀樹。

それを中心に均等に配置された、幸宏オリジナルデザインのYMOシャツに黒のパンツ姿で統一された6人のしゅっとした姿。

そして、腕に巻いた真っ赤なスカーフ。

後列、左から大村憲司・松武秀樹・矢野顕子
前列、左から坂本龍一・幸宏・細野さん

全てがカンペキだった。

***

……松武秀樹のチューニングするパルス音が、次第に次第に高音に高まりながら、聴衆者を静寂と緊張に導いていく。

次に背後でうごめく疾走音・泡立つ音。

そして、リピートしながら崩れ落ちるワーンワーンワーン…という音。

そして、このツアーの最初の曲に細野さんが決めた『ライオット・イン・ラゴス』が始まった…。

あえてノイジーなこの曲を選定したプロデューサー細野さん、YMOという役割を演じねば為らなかった3人の、ささやかな謀反の一端…。

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元来、温度等環境に影響されやすい巨大コンピューター=『たんす』をステージに持ち込む発想自体無理があった中、YMOは初めてそれを決行する。

『ライオット・イン・ラゴス』の途中から、このコンピューターが暴走し・停止する様が、音の旋律からわかった。
大舞台での中枢基幹の停止を察知して、必死に、ライブ慣れした矢野・細野・坂本のキーボードがその場のインプロビゼーションでカバーに回る。

そんな緊迫感の中の事故。

そんな事件すらも、この歴史的ライブの一側面を成しており、今では懐かしく思う。

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ライブの途中で、現地で芳村真理が騒がしく大きくズレた「大衆的」粗い口調でYMOそれぞれにインタビューする。

細野さんは、芳村真理のくだらない質問に一瞥冷笑し、適当にあしらった。

そのライブのカセットテープは30年後の今も残る。

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1980年とは、諸手を挙げて拍手喝采の「YMOイヤー」で、日本国じゅう何処に行ってもYMOが流れていた。
3人はまともに外を歩く事すら出来なくなり、坂本龍一には自分の名を呼ぶ幻聴が鳴り出す。

元々ワールドツアーに前向きではなかった3人が、逃げ場無く陥った『YMO』という呪縛。



数ヶ月に及ぶ、1980年後半~年末の武道館凱旋公演まで。
日々同じ演奏での世界行脚に次第に疲弊しノイローゼに傾いていく3人。

アルファレコードと大衆からのプレッシャー(公的抑圧)が、3人の内的抑圧の水位を上げていく。

1980年の末には大衆側の「みんなのYMO」と「3人が進もうと思う道」に大きな乖離が既に亀裂として生じていた。

繰り返す日々の中で、早く次のアルバム・異なる地点に向かいたいという心境に3人の意志は収斂していく。

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『モンスター=YMO』という化けものとなってしまった状況・アルファレコードへの復讐・ちゃぶ台をひっくり返す転覆行動に出る事を、プロデューサー細野さんの思惑を核にしながら1981年がスタートする。

大衆もアルファレコードも「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー2」を期待していた。

そこに、「Bー2UNIT」的要素を細野さんが導入する。

(まるで今、自分らの仕事チームがやっている様を思い出してしまった。
あるタイムリミットに走りながら、各パーツを分解作業しつつ、相互連携し、途中で合体し、最終リミットに仕上げる。)

1981年3月21日が新譜発売日と設定される。
そこから逆算していく。

時間が無いので、AB面1~4曲を約4分30秒、各面最後の曲だけを約5分20秒と設定し、各自に細野さんが「こんな曲」と割り当て、制限時間が来たら一気に仕上げてカットする、という荒削りな手法。

3人が揃わなくとも各パーツを分解し、ドラムまでを分解し、ひたすらキコカコ鳴るパーツに合わせて、スタジオへの入場者がその場で作り、去っては入りを繰り返す。

各自が詩を日本語で書き、スタジオ内で作っている途中トラックのテープと共に、ピーター・バラカンに差し出し、スタジオの外でピーターがそのテープを聴きながら、詩が曲に乗るような英訳をする。

凄まじい殺人的作業スケジュールの中の進行状況。

ノイローゼ状態がひどくスタジオにも来なくなってしまった坂本龍一を抱えながらも、ひたすら3月21日に向かって、時を刻んでいく。



最終期限を向かえ、プロデューサー細野さんが坂本に要求していた曲は出来ず、「千のナイフ」をノイジーにセルフカバーする形ではめ込む形とした。

また、歌詞カードを印刷・封入する事が時間的に不可能になり、歌詞カードは、ワールドツアーの写真などを納めた写真集『OMIYAGE』(=YMOエイジに愛を込めて)に入れる事とした。

そして、3人が企んだ、大衆・アルファレコードへの豪快なる裏切りは、その名も『BGM』(=バック・グラウンド・ミュージック)として結実する。

《つづく…かもしれない》


YMO - Tighten up, Riot in Lagos Live from Los Angeles 1980
コメント (2)
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