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こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2012年7月16日 月曜日 祝日 「お誕生会」

2012-07-16 15:17:08 | 想い出かたちんば
伊集院光さんは、自分と1つしか歳が違わないのもあり、ラジオを聴くたびに、頷く部分が多い。
磨きが掛かった話術・頭の回転の速さゆえ、幼い頃の微妙な感じをコトバにするのが、実に上手い。

伊集院さんは、荒川区西尾久出身。
自分が、2年だけ住んでいた場所。

同じ下町生まれではあるが、都電荒川線沿線とはいえ、
三ノ輪が位置的に貧しくリスキーだった時代とは異なり、尾久はもっと牧歌的。
都電沿線は、荒川区・北区の方向に向かうほどに、おおらかさがあった。

小学生の頃、尾久にあるゴルフ練習場に、よく老父の荷物持ちで付き添い、都電に乗った記憶がある。


【昭和42年の三ノ輪橋】

***

伊集院光さんの話の1つに、お誕生会の場面や心理が出てくる。

「お誕生会」は、コドモの残酷さの側面がよく現れる。
金銭面も含めた制限の中、誰を呼ぶか?という選択は、イコール・誰を呼ばないか。
また、呼んだとしても来ないケースなどなど・・・狭い世界の勢力図が見える場面。

当人と、精一杯のもてなしをして上げようとする親は、むしろハラハラする方で、
飽きられないように、食事は何を出し、催し物は何にして・・・・

大人になって振り返るに、こんな残酷な催事の風習はやめるべきなんだろう。
長きに渡って付き合いが出来る友人など、コドモを無理矢理閉じ込めた集団生活からはほとんど生まれない。
人間の残酷さを垣間見るだけのこと。

そんな学校ならば、誰に何と言われようと行かないで良い。
イノチを取られるくらいならば、個になることを選択した方が良い。

***

大人の仕事場の世界も似たようなもの。
しょせんは集団心理が左右する。

しかし、いい歳を迎えて、色んな人が殺される場面を見つつ・見抜いてしまった自分は、仕事にイノチをささげるつもりはさらさら無い。
一緒に釜のメシを食った・共に苦難を越えた人など、
仕事を外しても付き合ってきた人以外はどうでも良い。

嫌な話をしてしまったが、話しを音楽に180度変える。





他人に擦り寄ることなく・我が道を行くだけの細野さん。
「サル山のボス」になるつもりは一切無いのに、そういう細野さんの周りには自然と様々な人が細野さんを慕って集まってくる。
サル山ならず、森のような世界が形成される。

自分が一番で無いと済まないエゴを持った教授が、その様に嫉妬をし、確執を自ら作り出してきた歴史は、いつかも書いたので、あえて書かない。

細野さんの1982年・YENレーベル発足時に発表された「フィルハーモニー」。
この中に「お誕生会」という曲がある。

■細野晴臣さん 「お誕生会(Birthday Party)」■


細野さんの中では、元々構想として有ったという曲。
アルバムを創るスタジオへ、細野さんにおみやげを持って現れた人の声を撮り、サンプリングして曲としている。
偶発的なチカラが生むもの、ということでは、発想の根源はブライアン・イーノの影響が強い。
ネコちゃんの声は、細野さんの友人(故)モロさんの飼っていた「南無」ちゃん。



ピーター・バラカンさん&アッコちゃんの「スタジオテクノポリス27」に、デヴィッド・シルヴィアンがゲストで来た際に、この曲を彼が選んだ。
曲を掛けた後に、デヴィッドが「happy birthday , hosono san」と親しげにつぶやいた。







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2012年5月8日 火曜日 - 「九段下ビル」 2011年12月30日 / 2012年5月4日 -

2012-05-08 22:31:30 | 想い出かたちんば
中学2年の後半から3年生を通して、神保町にある塾に通っていた。
2人の親に挟まれて、もんもんとしつつ・やむなく「通わされた」塾は多かったが、唯一と言っていいほど、ここだけは先生も仲間も好きで、通うのが楽しみだった。

大学生3人(友人2人+「たぶん」片方の彼女)が、靖国通り・専修大の交差点のビルの一室で教えていた、小さな塾。

2人の先生は、まるで兄貴分みたいに、とても身近で親身な人だった。
また、ここでは普段交流の無い、ヨソの九段中学らの同級生と出会い・友だちになった。

ひたすら、放浪し、街の風に漂っていた者が、居場所を見つけた感じがあった。
家でも学校でもない、貴重な第三の空間。
十数人程度での、なごんだ授業。
ツッパリもいれば、可愛い女の子もいて・・・気の良い人が多かった。

その塾に通うのに、自分は九段会館付近の東西線・九段下駅出口から、外に出ていた。
(当時、都営新宿線はあっただろうか?)

そして、神保町に向かっててくてく・・・靖国通りをよく歩いた。
歩くと、俎橋(まないたばし)という風情ある橋を渡る。
(夏にセミが鳴く中、ギラギラとアスファルトに光が反射する中、橋を渡ったシーンが思い出される。)

橋の上には首都高速。
その高速をくぐると、向かって左側に古い歴史的建物「九段下ビル」が現れた。
昭和二年に建てられた建物。

当時は、カメラなど持っていなかったから、写真には納めることなく、ただ歩いて・見る。
それだけを楽しんだ。

***

・・・・あの地点から30年。
2011年末のハブ噛み師匠・MZ師との歩き旅。
本郷の宿で一泊二日の、昨年最後の集まり。
御茶ノ水で待ち合わせ、駿河台を下り、神保町を通って、靖国神社に向かう途中。

いつもの通り現れた「九段下ビル」。

この年末12月30日の眺望は、「九段下ビル」解体決定後の残り時間無き中。
これが、長年見てきた「九段下ビル」への最後のあいさつの日となった。

この休みに、雨の中歩くと、えぐられるように更地と化していた。
「九段下ビル」も約85年の歴史に幕を下ろした。

***

■2011年12月30日撮影






















■2012年5月4日撮影



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2012年5月5日 土曜日 丸尾末広「少女椿」 ~コドモの日に想う~

2012-05-05 19:15:06 | 想い出かたちんば

自分が生まれ育った三ノ輪。
そこは、遊郭=吉原、そして、処刑場=小塚原、日雇い労働者の山谷に囲まれた地であった。

近時「下町」というコトバを勘違いしている人が居るが、下町とは低地で雨が集まる、高台の山の手の反対。
低所得層が集まる地域であり、そこには貧しい人が住んでいた。
貧しいがゆえに、隣三軒のご近所は、一体になって寝起きをし、物資も時には融通し合う共同体だった。

【荒木経惟の写真より・下駄屋さんから南千住への一本道を、陽子さんと銭湯に向かう】

自分は、ずいぶんと近所の人にお世話になった。
自分は親よりも、むしろ近所のおじさん・おばさんに可愛がられた。
お向かいの家に入り込んでは、家では飼えないそこのネコと遊び・家には帰りたくない、とむずかった。
向かいのおばあちゃんが好きだった。
「なあ~に、泣いてるんだい」と、明るい声で、腰の曲がって前掛けを付けたおばあちゃんは、ほがらかにいつも優しかった。
迷惑も掛けたが、近所の人とは、家族のうちのりのような存在であり、親に見捨てられて泣いていても・ケンカをしている中追い出されても、その中に割って自分を助けてくれる人でもあった。

「下町情緒」というのは、でっちあげに過ぎない。
いっときも、そこに住んだ事の無い人が言う言葉ではない。
資本主義が家族や共同体を破壊すると共に、メディアが作ったクチ当たりの良いプロパガンダに扇動された連中が「ああ~下町情緒だねえ」と、ヨソからやってくるだけのこと。
まんまと、そういう流れにだまされているだけのこと。

下町は、貧しく、怖く、むしろ、ヨソ者に対しては閉鎖的なのである。
自分らの通りに、知らない人が歩いているだけで、我々は臨戦態勢になる。
これが、「かつてあった」下町の真実。

***

お袋さんから、上野・浅草・千住は怖いから行ってはダメだよ・・・と幼い頃、言われていた。
それでも、冒険するのがコドモ。
猥雑な空気。
歩いてラビラントに入っていけば、昼から酒を飲み行き倒れた者、手や足がもげた人々、暴れている人、意味不明の言葉を吐く人。
いろいろ出会う。

上野には、地下への通路にそういう者たちが左右に行列し、駅前では傷痍軍人が手足が無い状態で路側で土下座をしている。
その付き添いにラッパを吹く人。
共に軍人の服を着て、お金を恵んでくれる人を待っている。

浅草に行けば、任侠の人、ストリップにフリークスたちの見世物小屋、そしてギャンブルと酒におぼれる者たち。

千住、及び、足立区は不良の溜まり場だった。

三ノ輪の家の通りは、四六時中、人のウンコが落ち、行き倒れた人が寝ていたり、公衆便所で衣類を洗濯する人、酒臭い息で道を尋ねるが・結果物乞いの人・・・。
そんな光景は、いわば自分には日常だった。

ゆえにして、自分は、同じ三ノ輪の生まれ育ちのお袋さんの裁量によって、あえて千代田区の小学校に越境入学させられた。

江戸幕府はうまいもので、色街・吉原を配置した近くの小塚原(こづかっぱら・今の南千住駅前)で公開首切りをしていた。

「酔うのも・女におぼれるも良いが、犯罪を犯したらこうなるんだよ」

人間の欲望をコントロールするために、江戸幕府があえて近くにセットした装置。
オモテと裏社会。
光と影。

***

2012年、21世紀。
まもなくアメ横は潰されると聞くが、上野のインチキ臭い猥雑さ・怖さと背中合わせの空気は、まだ残っている。
一方、浅草は特定の種族しか歩けない空気を浄化活動で排除し、すっかり一般人が歩ける観光地になり果てた。
山谷は、といえば、かつてあった「あしたのジョー」のように生死ギリギリで生きていた西成のような空気は、もうすでにない。
千住は、再開発をし終えて、なにごとも無かったかのように「キレイな街」に変わろうとしている。

***

丸尾末広に出会ったのは、雑誌「フールズ・メイト」だった。
精緻で繊細なタッチで描かれた独特の世界。
テクニックもあれば・内容も濃い。
個人的には、つげ義春さんと並んで、愛する漫画家・・・というより文学者の意識に近い。

小学生の頃、江戸川乱歩に凝り・たくさんの乱歩の本を読んだ。
乱歩の描く世界は、昭和の自分の生まれる前のノスタルジックな匂いと、ウラの世界・日本の闇を描いていた。
その言わば弟子に当たる横溝正史も「犬神家の一族」以来、ドラマ・映画・本と熱中する。
横溝正史の角川映画は、ほぼ全部見に行った。

丸尾末広さんに惹かれた自分は、そこに80年代独特のサブカルチャーの匂いを見い出していたが、思えば、その源泉は乱歩・横溝に繋がっていた。
また、先人の寺山修司さんの影響も。

***

共通点として描かれるのは、不具者(かたちんば)。
精神面、肉体面・・・表出の仕方はいろいろあるが、それぞれの物語には必ず出現してくる。
しかし、それこそが人間なるあけすけの本当の様。

今日、YOUTUBEにて、丸尾末広さんの「みどりちゃん」が出てくる「少女椿」の動画を発見し、見入った。

2012年。
情操教育だか何だか分からないが、ウソ臭いものだけをコドモに見せて「あとは見てはいけない」。
都知事としては失格の石原慎太郎よろしく、「千葉でずにーらんど」的世界ばかり見せて・本当の人間の姿を見せようとしない。
そういうカベを築けば築くほど、より反動は大きくなり、結果、あまりよろしいことは無いように思う。
コドモが世の中の深層を知ろうとするのを阻めば、より過保護不具者や殺人者が増えるだけのように、つい思ってしまう。


■丸尾末広 「少女椿」■
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2012年5月5日 土曜日 ショナ族のムビラ 「ローデシア・ショナ族の伝統を訪ねて」'80.12

2012-05-05 08:49:12 | 想い出かたちんば


この曲のタイトルは「ニムティム」というもの。
親指ピアノと呼ばれる、木の板に細い長さ違いの金属が貼り付けられた楽器。
その棒をはじいて音を出す。

このムビラという楽器に魅了された初めてのきっかけは、1981年「坂本龍一のサウンドストリート」で出会ったペンギン・カフェ・オーケストラ。
彼らの素朴な曲の「カッティング・ブランチーズ・フォー・ア・テンポラリー・シェルター」。

この原曲が、ショナ族がムビラで奏でたものだったこと。

■Penguin Cafe Orchestra 「Cutting Branches For A Temporary Shelter」■

プロデューサーはブライアン・イーノ。

***

この「ニムティム」は、1980年12月に国内レコードで発売された「ローデシア・ショナ族の伝統を訪ねて」に収められている。

これを聴いて以降、というか前後から、民俗音楽への傾倒が始まっている。
(向田邦子さんのNHKドラマ「阿修羅のごとく」のテーマ曲は好きだったが。。。)

イーノ含め「第三世界」と読んでいた、アフリカや未知の領域の音楽をニューウェイヴは、せっせと取り込みながら融合した不思議な音楽を奏で出す。

***

その後、FM東京の深夜3:45.
マイ・サウンド・グラフィティなる、3:00からの新譜や特定ミュージシャンに焦点を当てた特集を組んだ「エア・チェック」専用番組の後、4:00の放送終了までの15分、毎日「民族音楽を訪ねて」という番組があった。

語りは、田中美登里さん。
とても魅力的な語り口で、我々を音楽にいざなった、当時のFM東京のベテラン・アナウンサー。
録音した教授(坂本龍一)との一週間ぶっ続けの対談番組は、今でもカセットテープに保存してある。

教授は元々は、民族音楽をフィールドワークしてきた小泉文夫先生に憧れて、その道を行こうと思っていた、というが、結果ミュージシャンとなった。
ということで、民俗音楽をめぐり、田中美登里さんと教授には深い接点があった。

***

「民族音楽を訪ねて」は、世界各国の様々な土地の音楽を紹介してくれた。

1983年にブライアン・イーノが、初めて来日。
ラフォーレミュージアム赤坂で彼の環境ヴィデオによる、不思議なドリーミーな空間を設置したインスタレーションが行われ、自分も同級生と行った。
夏の暑い日だった。


その頃に「民族音楽を訪ねて」で、「イーノと第三世界の音楽」特集が組まれて録音した。
イーノ及び周辺ミュージシャンが、いかに様々な各地の音楽を吸収しながら、新しい音楽を産み出してきたかが、良く分かった番組だった。


***

これらの流れの中で、打楽器奏者の高田みどりさんにも出会う。
FM東京の夕方にやっていた「音楽の森」に、高田みどりさんがゲストで出演。
サティの曲や、高田さんらが作ったユニット「ムクワジュ」の曲など、素晴らしく、ポップ界より離脱した世界を見せてくれた。


・・・という土曜日。
TBSラジオをひねると「土曜ワイドラジオ東京」。
永六輔さんと(「ピノコ」こと)外山惠理さんの、ゆる~い時間。

この番組をよりゆる~くしているのが、それぞれのコーナーのコロコロした可愛い曲。
これらの曲は、高田みどりさんによる作品。
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2012年4月24日 火曜日 - 「夜はともだち」~夜のミステリー~ -

2012-04-24 22:53:07 | 想い出かたちんば
昨夜「『夜はともだち』を毎日聴いていた」と言ったが、実はあるコーナーだけは聞けなかった。

それは、23時台後半から始まる「夜のミステリー」というコーナー。
小学生当時の自分は、まだ幽霊・UFO・宇宙人・・・そういった不可解な世界をまるまる信じていた。

人は、元よりどうしてもウソを付いてしまう存在ゆえ、両手でおぞましいものに顔を覆ったフリをしながら・その合間からそのシーンを見たくて仕方がない。
小学生時代の自分も、怖い何かに惹かれ、その手の本を買って読み・テレビ番組にも熱中しながら、その一方では、寝るときに怖い本の背表紙が見えないように本棚に裏返しにしたり・テレビを見たあとにトイレに行けなくなったりしていた。
「怖いもの見たさ」というもの。

***

『夜はともだち』は「夜友郵便局」というコーナーから始まり、愉しさや感慨にふけることが出来るコーナーがメジロ押しだった。
「話の本棚」という中盤のコーナーは、当時TBSに入社したばかりの三雲孝江さんが進行をしていた。
少しお姉さんの彼女にあこがれ、応援をしていた。

しかし、唯一、怖くて聞くことが出来なかったのが「夜のミステリー」というコーナー。

当時、23時を過ぎると、夜の闇世界は深かった。
1つには「コドモは寝る時間」という意識。
もう1つは、コンビニさえ生まれていない、実際に光の量が少ない暗さに満ちた空間が、そこには現実に在った。
ハレとケの空間は、明らかに分かれていた。

三雲さんのコーナーは聞くことが出来たが、「夜のミステリー」だけはどうしようもない怖さで、聞くことは出来なかった。

***

真っ暗な中、ミニラジオをまくらもとの耳のそばに置いて『夜はともだち』を掛けながら、ついうとうと・・・。
気が付いたらラジオをつけっぱなしで寝ていた、ということは、今も昔も変わりない。

ある夜のこと。
いつものように・そんな具合に・・・つけっぱなしで寝てしまった夜。
ふと目覚めたら「夜のミステリー」のコーナーが始まるところだったことがあった。
始まりの音楽の怖さに、ビビッてしまい、寝床でカラダが硬直して冷や汗をかいた。

***

あの頃、自分は欲しかったラジカセが買えなかった。
もし買うことが出来たならば「一慶・美雄の夜はともだち」を絶対録音していただろう。
二度と聞くことは出来ないのだろうと、未だ記憶の中でだけ鳴っている放送。

しかし、時代はえらいところまで来てしまった。
「一慶・美雄の夜はともだち」そのものは発見出来ていないが、この休みに、当時怖くて聞けなかった「夜のミステリー」がYOUTUBEにアップされているのを知った。

約35年ぶりに聞く「夜のミステリー」。
大人になって、開けてみた「パンドラの箱」。

アップしてくれた同志に感謝を抱くと同時に、当時の空気を感じた。
ラジオドラマの中での風景や会話に時代のにおいがする。

中でもよく出てくる大学生の寮、アパート住まい、同棲・・・そんなシーン。
当時小学生だった自分には、遠い日になるであろう大学生のイメージを抱かせる。
もうすでに無い70年代の幻影。

■夜のミステリー 体験実話 傑作シリーズ第13回 「隣はなにを・・・」■
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2012年4月23日 月曜日 - 70年代、ラジオ、夜、闇、春 -

2012-04-23 22:21:33 | 想い出かたちんば
ラジオとの本格的出会いは、小学生にさかのぼる。

ラジオそのものは、幼稚園の頃から家の中で聴こえていた。
音楽好きのお袋さんは、FM東京を1日中誰が居なくても流していた。
トイレの前の「仕事部屋」(洋裁を教えていた部屋)の一角にある冷蔵庫の上。
そこでホコリをかぶりながら、ラジオはいろんなお話しや音楽を絶え間なく流していた。

三ノ輪の自分の家は、貧しいというほどではなかったが、裕福というほどでもなかった。

***

お袋さんのFM東京のラジオとは別にして。
自分が、何かの流れで、おじさんのおさがりの大きなAMラジオをもらったのが、小学生低学年の頃だろうか?。
かなり古いラジオではあったが、自分の持ち物になった。
小学生に上がって、プロ野球に夢中だった自分は、そのラジオで随分と野球を聴いた。

テレビは一家に一台。
そして、そのチャンネル権が、家父長である者にあった時代に、ラジオは自由に聴くことが出来た。

おぼろげながらだが、ビッグサイズで年代もののラジオの後に(たぶんはもらったのだと思うが)手の大きさくらいの小さなラジオを手に入れた。
それは小学3年生かそこいらだったように思う。
と・計算すると、1975年・昭和50年あたりのこととなる。

***

自分の親には、かつてエリート信仰が強くあり、兄はその親との戦いをしながら、麻布、東大と、ことごとくそれを超えてしまった。
それに比して頭の悪い6つ下の弟、というのが、家父長の、小学生の自分へのあしらい方だった。

お袋さんは、それをかばうようにして、小学3年生から様々な「塾」に申し込んでしまう。
両親の心理のはざまに揺られ・引き裂かれて、行きたくもない「塾」に通うこととなる。
「通う」と言いながらも、通った先では何を学ぶでもない。
もともと能動性を伴わない行為ゆえ、ひたすら壇上で教える者から発せられる言葉・黒板の字・教材・・・全部、自分の中には入ってこない。
ひたすら電車で遠くへ行ったり来たり、そして、街の人ごみにまぎれる。
そんな意味の無い行為を繰り返している感覚のまま、電車で通う窓を通り過ぎる風景、街の光景、そんなものだけが自分の中に切なく響いた。

自分の中にもともと確信めいてあった「自分はエイリアンなのでは無いか」に拍車を掛けるように、この頃の出来事は、自分がどこにも所属出来ないジプシーの放浪感覚を根付かせた。

***

こんな日々だったので、当時の夕方~夜、みんなが見ているであろうテレビ番組には知らない/見られないものが多くあった。
当時、持ち歩いていたスヌーピーのデザインの布袋の中には、お菓子や小物と一緒に本が入っていた。
その本のしおり。
本屋さんで買った際に、本にはさんでくれるしおりには、よく新しく始まるドラマのPRが書かれていた。
「面白そうだけども、見ることはできないんだろうな」しおりを見ながら、そう思った。

そんな行き・帰りの道でのひそかな楽しみが、手のひらサイズのラジオをイヤホンで聴くことだった。
そこから、TBSラジオの面白さを発見し、ラジオに対して、自分の友だちのような親近感を持つ。

小学5年生ごろから、何より好きになったのが、ナイターの後に始まる「夜はともだち」。
小島一慶さん・林美雄さんがDJの9時から0時までの深夜番組。
小島さんと林さんは曜日で交代制になっていた。

毎日毎日、この番組が自分のささやかな楽しみになった。
帰り道の途中で、帰った後の部屋で、お風呂に入るときにも(防水でも無いのに、シャンプーの棚にラジオを立てかけて)。
ずっと「夜はともだち」を聴き、明かりを消す中でラジオを耳に付けて寝た。

冒頭のテーマ曲はキャンディーズ、楽しいはがきやコーナーによっては大人の会話を垣間見る。
掛かる曲も洒落ていて、高橋幸宏がプロデュースしたラジの「ホールド・ミー・タイト」を初めて聴いたのも、この番組であった。
(ラジのこの曲の入ったアルバム[CD]は、数年前に神保町で手に入れた。)
また、渡辺真知子、中原理恵、そして、終盤のひたすら美しくなってゆく山口百恵の曲などを、特に愛した。

音楽番組では、洋楽を掛けるコーナーで、ハードロック、イーグルス、クイーンなどがかかった。
それとは別に、不思議な番組=スネークマンショーも「夜はともだち」の1コーナーだった。

***

ウイキペディアで「一慶・美雄の夜はともだち」は1976年(昭和51年)4月から1978年3月まで、たった2年間であると知る。
自分にとっての10歳から12歳まで。
もっともっと、長い時間の付き合いだったように、今では感ぜられる。

当時、永田町の小学校に通っていた自分には、TBSは至近距離でありながら、実際の距離感はあった。
ただ、毎夜、電波をたどって、まさに「友だち」のように、この番組に寄り添って・つながっていた。

「一慶・美雄の夜はともだち」の最終回(ウイキペディアによってわかった)1978年3月31日の放送は、最初から最後まで、全部聴いた。
是が非でも聴かねばという気持ちがあった。
一慶さんが、赤坂の夜の野外で、いろんなお話しをしてくれた夜。
ごおお、という風の吹く夜だった。

時間の系譜より、今おぼろに分かったのは、自分が小学を卒業した頃と「一慶・美雄の夜はともだち」の終わりが一緒だったこと。
あのごおおという風は、あの番組とともに、自分も境目の中で吹いていた風だったのだな、ということ。

■ラジ「ホールド・ミー・タイト」'77■
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2012年1月12日 木曜日 20120112 - 国分寺 1987→2004 ほんやら洞 -

2012-01-12 22:01:46 | 想い出かたちんば
写真を整理していたら、ブログを始める前の2004年に、ハブ噛み師匠と国分寺に行った時の写真が出てきた。

ボクが、中野から向こう側の中央線沿線に降り立つのは、浪人時代に受験に行った大学周辺、そして、大学時代。
1987年4月に初めて降りた国分寺駅は、今の姿では無い古い味のある駅舎。
その入学式に遅れた自分は、天気悪い中、傘を刺して、長い駅からの下り坂を歩いた。

その4月にMZ師に出会い、美術研究会に入り、翌年現れたハブ噛み師匠と出会う。
そこから長い付き合いが始まった。

卒業以降、何度か国分寺には行ったが、独特の背中を丸めた可愛い街は、次第に都市全てが均質化していく流れには従えずに、知っていたお店の多くは無くなり、街を歩く人の層も変わっていく。
レコード「珍屋(めずらしや)」もパスタ「せもりな」もちゃんとあるが、ぶりき館も駅前の三多摩書房も無くなってしまった。

***

当日、駅からの長い坂を下り、喫茶店「ほんやら洞」に入った。
その中で過ごすと、まだこの街だけに流れる・この場所のゆったりした時の流れを感じ、安堵した。



右で背中を向いているのが、店主の中山ラビさん。









***


この電車の高架下を通過して、左にある坂を登れば駅への道。
酒を呑み疲れて、その坂の途中で行き倒れて寝ていた2人・某〇〇さんらが居た想い出。
坂を登れば奇遇にも自分が仕事をすることになったビジネスホテル、その横に並ぶ飲食店。淡淡(たんたん)。。


かつて通った居酒屋は休みだった。







■中山ラビ 「時よおやすみ」■ 

早起きのスズメ 電線に並んでる
体をよせあって 雲をつばむ
たしかめようのない世界
海はどこか 潮風がかすかに流れ
朝まじか にぎやかにしゃべってる

時よおやすみ まぼろしよこんにちは
時よおやすみ あこがれよこんにちは
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2011年12月10日 土曜日 山椒魚の夜間飛行 とある拾夜 - ピンク・フロイドへの追憶 -

2011-12-10 18:58:32 | 想い出かたちんば
ピンク・フロイドを初めて知ったのは、中学1年生・12歳、1979年のことだった。

小学生から中学の制服生活に変わる中、人間自体が大きく変化するさまに驚きとショックを隠せぬまま・・・
「帰宅部」だった自分が、毎週土曜日通りで七輪で魚を焼く三ノ輪の風景に戻りつつ、FM東京のラジオ「ポップス・ベスト10」を聞いていた。
そこでトップ10に入った、2枚組アルバム「ザ・ウォール」からのシングルカット「アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール」。


その後、洋楽LPレコードの再発とか、TDKやマクセルのカセットテープなどのプレゼントでLPレコードが抽選で当たる企画のパンフレットで、過去のピンク・フロイドのアルバムジャケットをよく眺めていた。
当時は、とにかく情報が少なくて、小さい写真でも貴重なものだった。
時代を象徴した工場の煙突に向かって動物たちが飛んでいく「アニマルズ」・・・・。

中学2年生になって、歌詞レコード屋さんでレコードを借りてはカセットテープに録音したシリーズがたんまりある、大して仲が良い訳ではない同級生の家に行って、色んな音楽を聴かせてもらった。
その中の1つにピンク・フロイドもあった。

唯一の兄弟の6つ上の兄とは年の差=精神の差もあり、いがみ合っていたが、それが寄り添うように歩み寄ったのが1981年・中学3年生の夏以降だった。
1981年夏に、親の事情で生まれ育った三ノ輪から引き離され、当時まだこうもりが飛ぶ異国の地=「だ」埼玉に転居させられた。
周囲に知る人も居らず、いなかの地にぼうぜんとしつつ、孤独を深めていった。
そんなさなか、受験生は、兄に勉強を教わる・・・と言っては、夜な夜な時間を取って指針を乞うようになるなか、話しは次第に勉強から音楽の話になっていった。
そういう夜が続いた。

そこで、イーノの一連アルバム、過去のボウイやロキシーのアルバム、そして、ピンク・フロイドの「狂気(ザ・ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン)」を借りて聴くことが出来たのだった。
YMOとニューウエイヴ中心の自分の音楽世界から、次第に色んな広がりが生まれていった。

兄は、それとは別にお手製のセレクションカセットを作ってくれた。
ツェッペリン、イエス、キング・クリムソン、EL&P、そして、ピンク・フロイドなどの入ったカセットテープ。
そこに納められたA面1曲目の「ウエルカム・トゥ・ザ・マシーン」。
この曲は、その当時よりも、次第に刻を経るごとに、自分の身に迫ってきた名曲である。

90年代にジ・オーブがこの曲をリミックスしていたが、フロイドというのはそういったムーヴメントの主役にも影響を及ぼしていた。

1981年の当時、「時空の舞踏」なるフロイドのベスト盤が出て購入した。
ここには、「ウエルカム・トゥ・ザ・マシーン」は入っていないが、「狂ったダイヤモンド」という曲が大好きになった。
ポップスバンドでもあるまいに、ピンク・フロイドに「ベスト盤?」というのも、笑われるような事態だが、この時期にはレコード会社側の単なる戦略で、ブロンディだのなんだの・・・多くのベスト盤がぞくぞくと発売された。

ちなみに「時空の舞踏」に収録された曲は以下の通り。

A面
1-吹けよ風、呼べよ嵐
2-マネー
3-シープ
B面
1-狂ったダイヤモンド
2-あなたがここにいてほしい
3-アナザー・ブリック・イン・ザ・ウォール

この後「炎~あなたがここにいてほしい」を聴くことになる。「ウエルカム・トゥ・ザ・マシーン」「狂ったダイヤモンド」「あなたがここにいてほしい」と・・・全てが入っていることも「えらい」ことだが、ジャケットの写真にかなりなショックを覚えたのは事実だった。

・・・・そんなときから相当の「タイム」を経て、ネット時代になって初めて「ウエルカム・トゥ・ザ・マシーン」にMTVが存在していたことを知るが、この曲の重さとMTVなる存在の不一致が実に奇妙かつ不気味である。

■pink floyd 「welcome to the machine」■


PS:今夜の不気味な月夜。

最近、月と雲の姿がおかしい。体内感覚としておかしく感じる。
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2011年11月14日 月曜日 リハビリ・映画 「ココニイルコト」

2011-11-14 20:34:23 | 想い出かたちんば

初めて真中瞳さんに出会ったのは、久米宏さんがやっていたニュースステーションでのこと。
「なんだ(;゜Д゜)!この騒々しいオンナは」というのが第一印象。
元々、元気そうな姿を振りまく女性が嫌いなのもあり「やかましい」という印象しか無かった。
ただ、その頃が彼女の人気の絶頂期でもあった。
可愛い表情はしていたが、最初、それだけでは気持ちを許す心境にはなれなかった。

***


その後、再び彼女に偶然出会ったのが2001年の映画「ココニイルコト」。
それを見て、引きずり込まれた。
それまでの真中瞳さんとは180度反転した姿。ぼそぼそとつぶやくように語る彼女のちぐはくな生身の姿。
それまで見たことの無い表情の豊かさ・優しさ・真摯さ・・・。
不自然こそが自然体。
映画のさりげなさに秘めた優しさ・温かさもたまらなく心に響いたが、この映像に納まった真中瞳さんの自然な姿・余りもの美しさに、イチコロで参った。
高熱を発し、だからと言ってどうになるでも無い産まれてしまった彼女への恋ゴゴロが自分の中で収まり付かなくなってしまった。

SEXでしか結び付きが無いものを愛だの恋だのと呼んでしまうことが多く存在している。
しかし、性的側面のみの興味とは全く別に、自分が今まで経験してきた恋というのは、いつも同じ。
いくら容姿で好みと思っても、恋をしてしまうのは、その人の何気ない仕草やそれまで見たことの無い側面の表情やその人の過ごす感じ・・そんなものにはっと気付いてしまってぐっときたとき。

かつて、自分の師の一人である中島らもさんの本に「セックスで始まる恋」という節があった。
事を終えた後に、寝ていた自分が目覚めると、彼女が台所でスープを作っている。
その匂いが漂ってきた。
その作る様・立ち姿・出来たよ・・と少し離れた所から聞こえる声・・その空気にセックスでは結びつかない恋が生まれてしまう。
そんな話だったようだった気がする。
あっ、まずい・・と思っても、既に手遅れで、恋という病気への感染は避けようが無い。
理屈では無いもので出来た人間ゆえの病気。

雑誌で彼女のグラビアを必死で集めれば、それもたたずんでいるだけなのに美しさの極致の姿で、更に熱が増してしまった。
この感じは今も変わりは無く、自分の中に在る。
今でも自分は、真中瞳さんに恋している。

***

映画の切なさには、正直強いココロの痛みを禁じえなかった。また、映画の舞台が、自分の人生の中で貴重だった大阪での5年間の暮らしを想い出させて、遠い気分になった。

・・・とある広告代理店のコピーライター役の真中瞳さんが、上司との不倫で左遷されて東京から大阪に飛ばされる。そこで、不思議な明るさを持った社員(堺雅人)に出会う。

次第に寄り添っていく2人。
大阪で一人ぼっちの彼女が、悩み、そして、泣き、仕事上もうまくいかないでぼやく。

そんな真中瞳さんのそばには堺雅人がいつも居る。
堺雅人は、何があっても笑顔で「まあ、ええんとちゃいますかぁ~」と言い続ける。
でも、彼の笑顔と言葉は、彼が本来持った性分では無くて、そこに至る裏打ちされた事柄があった。

本当にピュアで自然な流れ。
美しく静かに映画は進行する。
決して最後まで手1つさえつなぐことすら無い中、2人は綾を織るようにつながっていく。

・・・そして、唐突なる堺雅人との別れ。

真中瞳さんは、彼に導かれ・惹かれていたのを内なる想いと気付きつつ、彼から教わった「まあ、ええんとちゃいますかぁ~」というコトバをつぶやく。
居なく無くなっても、心の中に温かい彼の存在が宿った自分の胸にそっと手をあてて、生きていくこと、そして自分が「ココニイルコト」への認識を新たにする。
貴重な恋のものがたり。

こんな素敵な映画にはそうそう出会えない。

持っているDVDにあるセリフ『目をつむると、会える人がいる』。
切なすぎてじんわりくるコトバの意味は、映画を見てもらえば理解出来る。

自分はそんなに多くのDVDを持っている訳では無い。
あるのは「グーグーだって猫である」、これまた天然色の恋する麻生久美子さんの作品等々。
その本棚に一緒に並んで「ココニイルコト」は一生大事な自分の心の宝物として収まっている。

■映画 「ココニイルコト」 予告編■


この映画から想い出す。
大阪で出会った女性に恋をしてしまったがゆえに、その恋を超えられず、どんな女性と巡り会ったとしても付き合うに至れない自分が居る。
SEXで満足出来るなら簡単。処理と同じ程度の次元の事柄に過ぎない。
この映画にあるような恋が自然と自分の中に生まれることが無ければ、一緒に居る意味なんか無い。
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2011年10月10日 月曜日・祝日 まみちゃんのお墓参り

2011-10-10 08:21:25 | 想い出かたちんば

2009年10月12日 月曜日 「体育の日」祝日の秋晴れの雲一つ無い日に、相棒まみちゃんが亡くなってから2年が経つ。
今日は、これからまみちゃんのお墓参りに行く。


***

大阪から東京に戻った1996年4月。
実家には、自分が大阪時代で知らなかった、コチャコと呼ばれるネコが居た。
いわば、自分はコチャコにとってはよそ者。
お盆・正月にだけ現れる他人感覚。
当然、敵視されて近づけなかった。

コチャコは幼い頃に捨てられたらしく、ある日、実家の庭に現れたのを両親が餌付けしながら、やっとのことで家に呼び込んだそうである。
コチャコが、おびえ症というか、とにかく、なかなか人にはなつかず、両親でさえ手に負えないところがあるネコだった。
ネコは、あるときには気まぐれに人に近づいたり甘えたりする時もあるものだが、コチャコにはそういうものが一切無かった。

そんな戻ってきたら浦島太郎な状況の、とある夜。。。。
4月8日のお釈迦様の誕生日。
コチャコが居間のソファの上で、クッションの陰で視線を隠すように丸くなっていた。
しかし、いつも鳴いてばかりいるのにやけに静か・いつも動いてじっとしていないのに動かない。

おかしいな?
とみんなで上から覗き込むと、破水が既に始まっていて「こりゃ、えらいこっちゃ!」と、至急ダンボールを準備、タオルを引いて物陰の場所に置いて、そこに両親がコチャコを移した。

途中、盗み見るように、そっと中を覗くと、ヌルッと体内から太いウンコのように、コドモが産まれる瞬間を見た。
自分はネコが産まれる瞬間を見るのは、これが初めてだった。

1匹1匹産まれて行き、結果、4匹の子ネコが産まれた。
コチャコは、全員を舐めて上げて抱いていた夜だった。

***

この後、毎日、帰ってから子ネコたちの成長を見るのが楽しみだった。
拾い上げようとすると、当然コチャコは睨みつけ牽制するのだが、それでもなかなか動けないので、スキを狙って手に取ると、手の上に乗る位の小ささ。

みんな可愛かったが、その中でも特に、目が大きくてキラキラしたまみちゃんが一番自分を惹きつけた。
小さい自分の手を自分で噛むまみちゃんを、手に乗せながら微笑み顔がゆるくなった。

日々、4匹はすくすく育った。
遊びたい盛りに入ると、手に負えない状態。
誰かがトイレに入った後、ドアを完全に締めないでいたら、その隙間から入り込んだらしく、トイレに入ったら、4匹はトイレの便器の中で水浴びしながら遊んでいたり。
レースのカーテンに、みんな登り競争していたり。

ある程度まで育った段階で「4匹全部は飼えない」ということになった。
その中で、自分が頑として譲らなかったのは、まみちゃんだけは人に譲れないということだった。
瓜のようなシマ模様のウリちゃん、白い面積が多かったシロちゃんの2匹は「まあ、かわいい」と喜んで飼ってくれる人が近所に居て、譲ることになった。

***

残ったのは、三毛猫の正(しょう)ちゃん、そして、まみちゃんの2匹。
飼った当初、正(しょう)ちゃんをオスと思い、まみちゃんをメスだと思っていた。
それくらいに2匹は見た目も行動も逆転していた。

【1996年7月15日。生後3箇月のまみちゃんと正ちゃん。】

正(しょう)ちゃんは(三毛猫というのはそういうものらしいが)活発で頭の回転が良く、いっときもじっとせずに遊び、手を器用に使ってドアを開けてしまったり・ジャンプして換気扇の引っ張る紐を引っ張ったり・ネズミをくわえて帰ってきたり・・。
当初、正太郎と名付けていた。
外に遊びに行くときは、常に先頭を正(しょう)ちゃんが歩き、そのあとをまみちゃんが付いて行く、という構図だった。

一方、まみちゃんは、ぽわーんとした雰囲気を湛えていて、のんびりした穏やかな性格。
たまにドジをする。
(まるで自分が幼い頃、大好きで人形をいつも抱いていた「オバケのQちゃん」そのもの。)
目が大きくて女の子のような可愛い顔をしていて、すっかりメスだと信じていた。

この2匹の性別が逆だと分かったのは、実は獣医に見てもらった際に分かった。
先生「まみちゃんはいいですけど、あなた、このネコ、オスですよ。」
自分「ええーっ!?」

名前を変えるか?否か?の審議もあったが、名前も生まれ育った時の「縁」ということで、変えないことにした。(「正子」と「まみ男」という安易な案もあった)
そこから「まみやん」だの「まみころ」だの呼ぶようになった。

まみちゃんには、産まれた当時「シャカちゃん」という候補があったが、自分が当時好きだった(今でも好きだが)山瀬まみちゃんの目にそっくりで・キュートな感じもウリ2つだったので、名前をそのまま使って名付け親となった。
不思議なもので、名は体を表す、というが、その通りに2匹の有様は、その名前以外考えようも無い風に育っていく。

***

つねに活動的だった正(しょう)ちゃんは、かなり遠くまで遊びに行っていた。
そこで交通事故に会い、生き急ぐ形で、唐突に正(しょう)ちゃんを失う。
この子を特に可愛がっていた親父がひどい落胆し、泣いた。


いっつも金魚のふんのように、後について外でも行動を共にしていたまみちゃんも含めて2匹危うく一緒に・・・と思えば、そら恐ろしいことだった。

その後、まみちゃんが残り、その後もユーモラスで人なつっこい性格が顕著になり出し、みんなに愛され、日々の潤いでもあった。

とにかく食いしん坊で、最大6kgの大きさまで大きくなった。
エサを上げているのに、それより人が食べているものの方が美味しいはずだ、と思っては、食卓の上に巨体で上がり込んではそこを占拠しながら、少しでも美味しいものをもらおうとして粘った。
本当はネコにイカはダメなのだが、まみちゃんはイカが大好物だった。
仕方なく出来るだけ塩分を除き・ほぐして上げていたが、とにかくイカらしきものを見ると察知して興奮して「くれくれ」とねだる。
またケーキを食べていたりしたら、すっ飛んできて身じろぎせずに「じーっ」と見ては鳴き続ける。
「まみちゃんが食べるものじゃないんだよ」と何度も言うが、言うことを聞かない。
「みんなが食べているから美味しいに違いない」と思い込んでいるので少し上げると、甘いものでも食べる、そんなネコだった。

大きいカラダで、かつ毛の固まりのよう。
まるで、ケサランパサラン。
ふわふわした毛が尋常では無いくらいに伸びていて、外をパトロールに出掛けても、近所の人々は巨大ネコが塀の上を歩いている様に「ギョッ」としたという。
毛が多いので、ようく遊んで外から帰ってきたら、ウンコをぶら下げて帰って来たり。
仕方なく、鳴きわめく中、お風呂で2人がかりでウンコをシャワーで落としたり。
カラダが大きいので、よく何かにもたれているポーズがお得意だった。

晩年、不思議なおじさんがたまに現れた。
「このまみちゃんは、100万円くらいするんですか?
今日もまみちゃんを見させてもらいます。」と軍隊の敬礼のポーズを取っては、よく見にやってきていた。
こころの中では「100万円でも、渡せないですよ。」そう言いながら。
そんなこともあったっけ。











***


13年半という一番長い付き合いだったので、居なくなったのは淋しいことだし、自分のカラダの一部をもぎ取られてしまった欠落感は続くが、多くの事件や想い出がまみちゃんにはある。
今まで何度かの代変わりをしつつネコを飼ってきて、みんなそれぞれへの想い出と愛があるが、何かまみちゃんへの思い入れには特別なものがある。
まさに「相棒」という感覚で、いつも近くにまみちゃんが居てくれた。
思えば「オバケのQ太郎」の正ちゃんとQちゃんのような関係だったのかもしれない。
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