京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

東福寺塔頭 天得院の桔梗の庭

2021年07月19日 07時44分00秒 | 日記
 佛光寺から東山区にある東福寺塔頭天得院へと来ました。





通常非公開の寺院ですが、桔梗の咲くこの時期に公開されます。

庭園は桃山時代の作庭と言われますが確かな事はわからないそうです。

前ご住職の爾(その)英晃さんとはFacebookでやり取りをさせて頂いておりました。
東山区の公安委員や本山の総務部長にもなられ、これからと言う時に急死されてしまいました。
笑顔が素敵で、どなたからも好かれる方でした。

そんな訳で天得院が公開されると必ず拝観し、爾さんのご位牌に手を合わせてご冥福をお祈りしています。
まだ40代後半、、、これからと言う時にご本人は無論、周りの人達にとっても無念でなりません。









杉苔に覆われた庭園に白色と紫色の桔梗の花が映えます。







花頭窓からみる庭園も美しいです。





天得院は東福寺の塔頭の中でも由緒ある寺院で慶長19年(1614)東福寺第227世・文英清韓(ぶんえい せいかん)長老が住持となられました。

清韓は豊臣秀吉、秀頼より信頼を得、秀頼の依頼により方広寺鐘銘を選文されましたが銘文中の「国家安康、君臣豊楽」が徳川家を呪うものとして家康の怒りを招き、天得院は取り潰しに会います。

現在の堂宇は天明9年(1798)に再建されたものです。





また、境内の北側には「東福寺幼稚園」を運営されています。















真宗佛光寺派 本山佛光寺

2021年07月18日 08時05分00秒 | 日記
 木乃婦さんで美味しい鱧懐石を頂いた後、高辻町を東へ佛光寺へと来ました。





佛光寺は浄土真宗佛光寺派の本山です。
承元の法難により越後に流罪となられた親鸞聖人は赦免された翌年の建暦2年(1212)に京都へ戻られ、山科に草庵を結ばれました。
この草庵が佛光寺の草創と伝わり当初は「興隆正法寺」と名付けられました。









阿弥陀堂です。
佛光寺は京都のお寺では非常に"緩い"お寺で撮影禁止の注意書きはありません。

ご本尊の阿弥陀如来立像です。

堂内には聖徳太子孝養像(重要文化財・鎌倉時代)がお祀りされていますがまだ、見た事がありません。

宗祖親鸞聖人は比叡山での修行の際にも悟りに辿り着かず、六角堂に百日間参籠され、聖徳太子からお告げを得られたと伝わります。
浄土真宗にとっても縁の深い方です。





渡り廊下を歩き、大師堂にお祀りします。
西本願寺や東本願寺では"御影堂(ごえいどう)"と呼ばれていますが佛光寺では"大師堂"と呼ばれています。







こちらのお堂には中央に宗祖親鸞像がお祀りされています。

境内の西には通称非公開の黒書院や南書院、白書院がありますがまだ、拝見した事はありません。
是非、定期的な公開をお願いしたいものです。









浄土真宗では基本、御朱印の授与はされていませんが、佛光寺では"法話院"として授与されています。




木乃婦 鱧懐石

2021年07月17日 07時27分00秒 | 日記
 木乃婦は京料理の名店として、ご主人の高橋拓児さんはワインのソムリエとしても知られ、また、NHKの料理番組に出演されるなど京都の和食を代表する料理人です。





入口へのアプローチにも京都らしい風情があります。

玄関前のお稲荷さんは先代がこの地を取得された時からお祀りされていたそうです。





木乃婦は魚料理を中心とする仕出しから始まり二代目が現在地に店を構え、大きな料亭へと事業を拡大されました。
そのおふたり先代の後を受け三代目となられたのが今のご主人の高橋拓児さんです。

先々代、先代の意思を継ぎ、今も仕出しもされています。

食事前に祇園祭の由緒についてなど様々なお話をされ、料理、特に鮎や鱧の話になると絶対の自信を持って話されます。









会場は2階の大広間で室内の調度品にも京都らしさを感じます。

向かいにあるのは菅原道真公の学問所だった菅大臣神社です。



この日の献立です。
ご主人高橋拓児さんの自筆だそうです。(コピーですが、、、)







先ずは「八寸」です。
京都の夏と言えばやはり"鱧"ですね。
先ずは鱧寿司で頂きます。
淡白な味の中にも炭火で焼いた香ばしい旨味を感じます。
新銀杏もあり、昔から"初物を食べると寿命が伸びる"と言われる縁起のいい初物を早くも頂きました。









「お刺身三種」
天然ものの鯛、鮪、いかです。
魚の目利きがいいのでしょう、どのお刺身も魚本来の旨味が強いです。









「椀物」
綺麗に花開いた鱧には冬瓜とじゅんさいが添えられています。
出汁の美味しさと一体になった鱧の味わいが凄いです。
全く骨を感じない程、包丁が入っています。

京料理の美味しさを最も味わえる一品です。





「焼物」
鮎の塩焼きに蓮根が添えられています。
20cm程に成長した鮎ですが頭から頂きます。腹わたの苦味は感じますが、そこは鮎の美味しさのひとつです。

別名"香魚"と言われるだけに、しっかりと苔を食べて育った"香り"がします。
天然物だけがもつ鮎本来の味です。









「焚合」
中には卵でとじた鱧の子の焚合はプチプチ感があり美味しかったです。







「御飯」
鯛の身がたっぷりと入った鯛ご飯です。
水茄子も美味しいです。





「水物」
夕張メロンゼリーです。
入院でもしないと口に出来ない夕張メロンですね。
〆に相応しいデザートでした。





最後にご主人が使われている柳包丁と鱧の骨切り専用の包丁を見せて頂きました。

本体はステンレスですが歯の部分は硬い鋼が付いているそうです。























高野山② 金剛峯寺

2021年07月16日 06時32分00秒 | 日記
 金剛峯寺の名称は弘法大師自らが命名されたもので高野山一山の総称ともなっています。







霧に霞むお寺も風情があり、お大師さまが今でも生きておられるようです。

元は文禄2年(1593)、豊臣秀吉が亡母供養の為に建立され、今の建物は文久3年(1863)に再建されたものです。




内部の撮影は禁止されているのでパンフレットを掲載させて頂きます。





今回は画家の千住博さんが奉納された障壁画「瀧図」「断崖図」を拝見するのがメインです。
NHKのドキュメンタリー番組でニューヨークのアトリエで奮闘される千住さんの姿が放映され、覚えておられる方も多いと思います。








石庭「蟠龍庭」です。
雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されています。
龍を表す巨石は大師の故郷の四国の青石が使われ、雲海を表す白い石は京都の白川石が使われています。
















高野山金剛峯寺の大主院2部屋の障壁画です。

ドキュメンタリー番組では墨の濃淡や和紙の厚さを変えたりと、また、和紙にわざと皺を付けたりと試行錯誤される姿が放映されていました。

高野山金剛峯寺の障壁画ともなると相当な重圧感の中での制作だったと思われます。

京都では2013年に落慶した大徳寺聚光院の書院に襖絵「滝」「春夏崖図」「秋冬崖図」を奉納されています。
滝の表現には一瞬と永遠、時の流れを無限に感じる事が出来ます。



2016年3月から一年間行われた「大徳寺聚光院創建450年記念特別公開」では書院の「滝」のみが公開されました。





真然大徳廟

真然大徳は讃岐国の出身で弘法大師の甥で後に大師の弟子になった僧侶です。
弘法大師の死後、荒廃していた高野山の復興に尽力されました。
伝承では、亡くなる直前の弘法大師から高野山の運営を託されたと伝わります。

御廟は金剛峯寺の境内にあり、当初は真然大徳をお祀りするお堂とされていましたが、昭和63年(1988)の解体修理に伴い発掘調査でお骨の納められた御舎利器が発見され、新たに真然廟として手厚く祀られています。



その後に奥之院と霊宝館を巡っていますので後日に記事に書きたいと思っています。










高野山① 壇上伽藍

2021年07月15日 07時56分00秒 | 日記
 随分と前になりますが3月6日に初めて南海電車とケーブルカーを乗り継ぎ高野山へと行って来ました。
(自宅が堺市なのでいつもは自動車です。)



と言うのも今日のコロナ禍の中、落ち込んだ観光客を呼び込もうと南海電鉄と沿線の自治体や事業者の方々がタッグを組み「高野山1万人御招待」のキャンペーンを実施されました。

僕も当選させて頂き、恐らく「全プレ」ではなかったのではないでしょうか?

内容も充実しており南海電鉄の往復乗車券、高野山内バスフリーチケット、現地で使える6千円分のクーポン券までが付いています。









電車の終着駅は極楽橋駅です。
最近、改装され花天井を始め華麗な装飾が施された駅になっています。
(と言っても以前は知りませんが、、、)







極楽橋駅からはケーブルカーで山上の高野山駅へ。
生憎の小雨模様でしたが霞む高野山も幻想的な雰囲気です。













壇上伽藍の正門・中門です。弘法大師による開創間もない819年の創建ですが幾度も焼失と再建を繰り返し1843年の火災以来再建されずにいました。

平成27年(2015)の高野山開創1200年の記念事業のひとつとして再建されました。
焼失を免れた持国天、多聞天にくわえ、新たに増長天と広目天が大仏師松本明慶さんにより奉納され、約180年振りに"四天王"が揃いました。







御社(みやさろ)と山王院(さんのういん)です。
弘法大師は高野山開創にあたり、819年に丹生・高野の両大明神をこの地に勧請し、土地をお借りる事を地元の神々にご報告されています。

山王院は御社の拝殿で現在の建物は1845年の再建です。





金堂です。
高野山一山の総本堂で、年中行事のほとんどがこたらで行われます。



根本大塔です。
壇上伽藍の中心的な存在で高野山開創より建築に着手され大師と真然の二代にわたり887年に完成しました。





現在の建物は昭和12年(1937)の再建で中央には胎蔵界大日如来坐像が、四方には金剛四仏、周りの柱16本には堂本印象による十六大菩薩を配して立体曼荼羅の世界を表現しています。

また、壁にも印象による八相大師が描かれています。
仏画を得意とした印象らしい仏さまが描かれています。

東寺講堂の仏像による立体曼荼羅も見応えがありますが、こちら根本大塔の絵画による立体曼荼羅にも心惹かれるものがあります。





西塔です。
887年、光孝天皇の勅命により建立されました。現地の西塔は1834年の再建です。

前に建つ石灯籠は日本で最初に麻酔による外科手術を行った華岡青州の寄進によるものです。





不動堂(国宝・鎌倉時代)
1198年一心谷に行勝上人が創建されたのが最初です。
現在の不動堂は14世紀初めの再建で明治41年(1996)に現在地に移設されたそうです。









他にも多くの建物がありますが、いつもお参りするのが「智泉廟」です。

智泉大徳は延暦8年(789)、讃岐国に生まれ、弘法大師の甥にあたります。

9才で弘法大師の弟子となり「密教のことは智泉に任す」と言わしめるほど聡明で大師の信頼も厚かった方です。

ところが天長2年(825)に病を得て病没されてしまいます。

大師が智泉の供養の為に書いた「亡弟子智泉が為の達囃文」は大師の落胆ぶりがよくわかります。