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京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

中将姫ゆかりの徳融寺(とくゆうじ)

2021年01月20日 07時19分00秒 | 日記
 徳融寺は"ならまち"エリアにある融通念仏宗の寺院です。
かつては元興寺の一部として真言宗に所属していました。





先程述べたように「元興寺の子院」が創建の由来です。
天正18年(1590)に現在地に移転、本堂始め諸堂はそれ以降の建物です。







本堂のご本尊さまは鎌倉時代作の阿弥陀如来立像で、北条政子の念持仏と伝わります。







観音堂には平安時代作と伝わる「子安観音」がお詣りされています。
生まてすぐの赤ん坊を指先で慎重に持ち上げるようなお姿を表現した珍しい観音さまです。



また、観音堂の厨子の中には平安時代作と伝わる薬師如来坐像がお詣りされています。





徳融寺毘沙門堂は奈良市指定文化財・建造物で中には毘沙門天がお詣りされています。





山号「豊成山」が示すように中将姫の父親の藤原豊成の邸宅跡と伝わります。境内には豊成公と中将姫を供養する石塔があります。

中将姫は「当麻曼荼羅」を蓮糸で一夜にして織り上げた事で有名な方です。

周辺には中将姫ゆかりの「高林寺」や「誕生寺」があります。



















浄福寺の紅葉

2021年01月18日 08時33分00秒 | 日記
 西陣の一角に伽藍を構える浄福寺は山号を恵照山と称する浄土宗寺院です。









最初の写真の朱塗りの門は西門です。
通常は境内は自由に入れますが伽藍内は全くの非公開です。
平成26年の春季非公開文化財特別公開で伽藍内も公開されました。
(それ以降の公開も無いです。)

ご由緒は古く、延暦年間に京都御所の東北に建立され、ご本尊は三国伝来(印度、中国、日本)の釈迦如来像をお詣りしていました。

当時は二十五大寺に数えられた寺院でしたが度重なる火災により、江戸時代元和2年(1615)に現在地に移転しています。





現在の本堂は阿弥陀如来像をご本尊に享保16年から18年の歳月をかけ再建されました。



ところが寛文6年(1666)に「三間梁機制(さんげんはりきせい)」という今で言う建築基準法が制定され、建物の奥行きを三間(約6m)以内と規制されました。

ところが享保15年に本堂が焼失し、元の規模での再建が規制により困難な状況でした。

そこで設計に工夫を凝らし、外から見れば二つの建物が並んでいるように見えますが
、その間を上手く繋ぎ内部には一つの大きな空間を作り出しています。
「日本最古の違法建築物」と言われています。

時は八代将軍吉宗公の治世、、、"享保の改革"で贅沢を禁じた一環だったのでしょうか?







書院の前には菩提樹と沙羅双樹(夏椿)が植えられいます。
内部の襖絵は幕末から明治に活躍した京都画壇の山田文厚(ぶんこう)の筆によります。
また、彼は浄福寺の檀家でもあり浄福寺に墓地があるようです。





釈迦堂です。
近年、修復されその費用の一部を今回公開の主催者古文化保存協会が補助しているための公開です。





普段は京都国立博物館に寄託されている四天王のうちの二体が特別公開されていました。

いずれも平安時代の作で実に100年ぶりの公開でした。




鐘楼と正門に当たる南門です。







一部の写真は古文化保存協会の公式ガイドブック"拝観の手引"から転載させて頂きました。








須賀神社と交通神社

2021年01月16日 07時33分00秒 | 日記
 須賀神社は聖護院門跡の向かいにある神社です。
ご祭神は須佐之男命(すさのおのみこと)と櫛稲田比賣命(くしいなだひめのみこと)のニ柱です。


須佐之男命は荒ぶる神として有名な神ですが、ヤマタノオロチのいけにえにされそうになった櫛稲田比賣命を救いやがて結婚し、円満に暮らしたと言われています。
この様なご由緒から縁結び、家内安全の神として信仰されて来ました。






普段はひっそりとした神社ですが毎年2月2日、3日の節分のには多くの参拝者で賑わいます。


節分ですから豆まきもおこなわれますが、
お目当ては"懸想文(けんそうふみ)売り"です。

頭には烏帽子(えぼし)、水干(かんすい)をに身まとった二人組の"懸想文売り"が登場し、右手には文をつけた梅の枝を持ち、左手には懸想文を持ち、境内を歩きます。

その文のですが「縁談や商売繁盛の願いをかなえてくれる御守りです。人に知られないように鏡台や箪笥の引き出しに入れて置くと着物が増え、容姿が美しくなり、良縁にも恵まれる」との内容が書かれているそうです。





この"懸想文売り"のルーツですが、庶民が文字が書けなかった時代に一般庶民の人々の恋心を代筆した事に始まります。
要するに貴族の"アルバイト"から始まっています。
遠く平安時代から始まり江戸時代には盛んに行われていたようです。

"懸想文売り"の装束については先に触れましたが、覆面までしているのは貴族の身分を隠すためです。



須賀神社の北側には日本で唯一の交通安全の神さまをお祀りしている"交通神社"が鎮座されています。

以前は交通神社のご祭神も須賀神社にお詣りされていましたが昭和39年(1964)に境内に社を分けて創建されました。

一度で良縁祈願、商売繁盛、家内安全、交通安全のご利益まで頂ける有難い神社です。





一部写真は須賀神社HPから転載させて頂きました。



元離宮二条城 勅使の間入室

2021年01月15日 07時30分00秒 | 日記
 西賀茂の正伝寺を拝観後、元離宮二条城へと来ました。
もう何度も来ているので"もういいだろう!"ですが、今回は"勅使の間に入室できるので来た次第です。





京都市もあの手この手でリピーターを増やそうと色々と努力されています。





東大手門(重要文化財)から入城します。この門は二条城の正門にあたり寛文2年(1662)ころの建築です。









次に二ノ丸御殿(国宝)の入口には豪華絢爛な唐門(重要文化財)があります。
平成25年(2013)の修復で屋根の葺き替えや飾り金具、彫刻の色彩が甦りました。
新たな発見として天皇家の家紋16弁の菊の紋章の下から三つ葉葵の徳川家の家紋が発見されています。
天皇家の別荘(離宮二条城)になり、新たに菊の紋章を造るのではなく、三つ葉葵の上に被せていたようです。



国宝二ノ丸御殿への入口です。遠侍、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院とが雁行形に配置されています。



部屋数33、総数800畳の各部屋には狩野探幽はじめ狩野派の障壁画で装飾されています。
狩野派は大所帯の絵師集団で松が得意の者、虎が得意な者など、それぞれ得意分野を生かした分業制で制作されたようです。









原画は痛みが進み現在も模写の襖絵と入れ替えの工事が進行中です。









制作当初はこんな感じだったのですね!
原画を見慣れているせいか少し煌びやか過ぎるように感じます。 

外された原画は収蔵庫て保管され定期的に公開されます。



上の写真は収蔵品展示室でガラス越しではありますが登城した大名の気分が味わえます。


室内の撮影は禁止なので障壁画の写真はネットから転載させて頂きました。

大広間三の間と勅使の間の間にある欄間は厚さ35cmの檜の板を両面から透し彫りにした素晴らしい欄間彫刻です。
前者からは牡丹の花、後者からは孔雀が彫刻されています。
今ではこの様な彫刻が彫れる職人は居ないそうです。







国の名勝庭園に指定されている二ノ丸庭園です。
当初は大広間の将軍が座る上座からの眺めを考え作庭されましたが、寛永3年(1626)の後水尾天皇行幸の際に行幸御殿からの眺めも考慮された庭園に代改修されました。
南国の植物"蘇鉄"も植えられ徳川将軍家の権威を示す植物でもあります。
蘇鉄は寒さに弱いので冬季には菰が巻かれています。

後水尾天皇は五日間に渡り滞在され、特に天守からの眺めがたいそう気に入られ2度、登られ帳簿を楽しまれたそうです。
先程の唐門も行幸時に造られたものです。





本丸櫓門です。
徳川家康により天下が定まり平和な時代を象徴する平城ですが、そこは城郭、防御に抜かりが無いのは武家の棟梁の城を感じます。

今回は本丸に寄らずです。
京都御苑にあった桂宮家の御殿が移築されてありますが、現在、耐震工事を兼ねた修復の最中です。
貴重な宮家の建物で重要文化財指定を受けています。



最後に"御城印"を購入しました。
以前は一種類しかありませんでしたが今年の干支"丑"にちなんだ限定の御城印が二種類増えていました。

通常品より200円高い500円でした。











奈良東大寺境内散策

2021年01月13日 06時11分00秒 | 日記
 12月16日、東大寺の秘仏をお詣り後、少し境内を散策しました。







佐保路にある転害門(てがいもん)・国宝です。
平城左京一条大路に面して建っている事から「佐保路門」とも呼ばれ、南北15m、東西7.33m、高さ11mの大きさの門です。





1180年の平重衡(しげひら)の南都焼き討ち、1567年の三好・松永の戦いにも奇跡的にも焼失を免れ唯一残った建物です。







大仏殿を北側から見た写真です。
天平15年(743)、聖武天皇は「一枝の草、一肥の土を持ちて、像を助けむとする情に願はば、恣に之を聴せ」と大仏建立の詔を発せられました。

当時の日本の人口の約半数に当たる延べ260万人もの人々が関わる一大国家プロジェクトでした。

その大仏開眼法要で使われた品々が一部正倉院に伝わっています。
大仏殿の北側に正倉院があります。
毎年秋には奈良国立博物館で"正倉院展"が開催され、当時の華麗な品々が公開されます。
昨年の正倉院展はコロナ拡散防止対策で事前予約制になり、ローソンに行った時には既に全ての日程が完売でした。





開山堂横にある四月堂です。





二月堂前にある"閼伽井屋"(重要文化財)です。
駒札にあるように3月12日(正確には13日午前1時過ぎ)に、こちらにある井戸から御香水を汲み上げご本尊十一面観音さまにお供えされます。









二月堂への裏参道です。
白壁と築地塀の参道は奈良大和路の風情が漂います。
奈良大和路をこよなく愛した写真家・入江泰吉もこの裏参道の写真を多く残しています。









大仏殿中門です。
毘沙門天(多聞天)と持国天が睨みを効かせています。



創建時には大仏殿の南東には高さ100mと言われる七重塔がそびえていましたが今は痕跡だけが残るのみです。



1970年に大阪で開催された万国博覧会では古河パビリオンとして復元されました。
万博終了後は解体されましたが相輪部は東大寺に寄贈され現在、東大寺境内にあります。

ひとつひとつの文化財を見て歩くと東大寺の歴史の深さ、天平文化の華やかさ、その背景にある庶民の貧困、疫病の流行が垣間見えます。