京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

真如堂の紫陽花と菩提樹の花と沙羅双樹の花

2020年06月25日 05時09分00秒 | 日記
 真如堂は今から千年有余年前に、比叡山常行堂の慈覚大師円仁作の阿弥陀如来を「京に出てすべてのものに利益を施す。わけても女人を救済するものなり」と如来のお告げに従って、東三条女院(藤原詮子)の離宮に遷座して寺とした天台宗の寺院です。





今回は、大豊神社から徒歩で来ましたので東参道からです。
数年前に境内の東側に紫陽花園が作られ、木も随分と成長し、大きな花を咲かせるようにはなりました。







なまこ壁を背景に咲く紫陽花は"絵"になります。まだまだ知られておらず少しは"隠れた"紫陽花の名所のひとつです。





寺のご由緒については駒札をご覧下さい。







本堂の向かって右側には菩提樹の花が咲いています。やや盛りを過ぎていて菩提樹特有の甘い香りは薄くしか感じませんでした。









また、左側には沙羅双樹(夏椿)の花が数輪咲いていました。





本堂は元禄6年(1693)から24年の歳月をかけて完成したお堂で、部材には「○○家先祖代々菩提の為」と浄財を寄進した方々の名前が記されているそうです。

本堂内の一番高い位置にある御厨子はいつもは閉まっていますが11月15日にのみご開帳されます。
ご本尊は慈覚大師円仁作の阿弥陀如来立像で完成間際に逸話が残っています。
慈覚大師が「比叡山の修行僧のための本尊になってください」と願い眉間に白毫を入れようとすると、阿弥陀如来は首を振って拒否されたと言います。「それでは都に下って、すべての人々をお救いください。特に女の人をお救いください」と言われると、如来は三度うなづがれたところから「うなずきの弥陀」と呼ばれています。

左脇仏の千手観音像は伝教大師最澄作、右脇仏の不動明王僧は安倍晴明公の念持仏と伝わります。

今年こそ、ご本尊さまにお祀りしたいものです。

正面の大きな額「真如堂」は享保11年(1726)宝鏡寺宮から奉納されものです。





三重塔は文化14年(1817)の再建、高さ約30 mの本瓦葺きの塔で初層には多宝塔が、お祀りされています。春は新緑、夏は青空、秋には紅葉と境内に溶け込み、真如堂になくてはならない存在です。





真如堂の総門は西側にあり紅く塗られた通称"赤門"です。



敷居がないのは、西側にある吉田山神楽岡の神々が毎夜真如堂に参詣する際につまづかないよいにしている為と言われていまし。




 
本堂北側には、重森三玲のお孫さんの千青(ちさを)氏作庭の「随縁の庭」や曽根三郎氏作庭の「涅槃の庭」など見所が多いですが
コロナの影響で今も拝観を停止されています。

御朱印を授与して頂き、次に智積院へと向かいます。



次に徒歩で真如堂へと向かいます。




大豊神社

2020年06月24日 05時56分00秒 | 日記
 永観堂から徒歩で大豊神社へ。

大豊神社は"哲学の道"沿いの東側に鎮座される平安時代からの古社です。








平安時代初期の887年、宇田天皇の病気平癒を願い藤原淑子が創建したと伝わります。創建時には東山三十六峰のひとつ椿ヶ峰の山中にあったようですが、寛仁年間(1017-21)に今の地に移されました。



椿ヶ峰から湧く御神水です。





本殿には少彦名命、菅原道真公、応神天皇の三柱をお祀りしています。

なによりこの神社を有名にしているのは境内にいくつもお祀りされている末社です。

今年は子年でもあり、末社の大黒社の前には狛犬ならず狛ねずみが大黒社をお守りしています。







今年はねずみ年であり、1月から3月にかけては大変な参拝者だったそうです。

向かって左側の吽形の狛ねずみが抱えているのは水玉で長寿を表しています。
一方、右側の阿形の狛ねずみが抱えているのは巻物で学問を意味しています。

古事記によると大国主命が火攻めに遭遇した際にねずみが現れ、洞窟に大国主命を匿い助けた事が書かれています。
自分達の寝ぐらに案内したのでしょうか?







また、末社には愛宕社と日吉社とが同じ覆屋にお祀りされています。
愛宕社には火伏せの狛鳶(とび)が、日吉社には鬼門除けの狛猿がそれぞれの神様をお護りしています。





商売繁盛の神様のお稲荷さんもお祀りされています。



本殿左横にある枝垂桜は樹齢が約50年で、円山公園の祇園枝垂桜の三代目で、運が良ければ、本殿右側の遅咲きの梅の花との共演が見れます。



最後に御朱印を授与して頂き、次に智積院へと向かいます。







永観堂禅林寺の新緑

2020年06月22日 07時01分00秒 | 日記
 永観堂禅林寺は浄土宗西山禅林寺派の総本山です。





平安時代からもみじの名所で、藤原俊成が歌にも残しています。

毎年、新緑と紅葉の時期には訪れる寺院です。

お寺のご由緒については駒札をご覧下さい。


大玄関を入ると諸堂が回廊で結ばれているので雨の日でもお参りが出来ます。





釈迦堂横の新緑です。いつもは外国人の多い永観堂ですがコロナの影響で日本人の参拝者すら少ないです。





下の写真は"悲田梅"と呼ばれ、永観律師が梅の実を貧しい病人に施したと言われる梅の木です。





諸堂に溶け込む新緑は"見事"につきます。







永観堂のポスターには必ず登場する阿弥陀堂のご本尊"みかえり阿弥陀"をお祀りしている阿弥陀堂です。



慶長12年に大阪から移築されたお堂で、内部は極彩色に彩られています。格天井には「百花」が描かれていますが、残念ながら内部は撮影禁止になっています。

みかえり阿弥陀と永観律師どの逸話は現在にも通じるものがあります。

ある日、永観律師は夜を徹して念仏行に励んで夜が明け始めた頃、永観律師は緊張が緩んだ一瞬、永観律師の前に阿弥陀さまが現れ「永観、遅し」と言われました。

現代の皆が忙しい世の中ではありますが一瞬でも自己を見つめ直すきっかけになるのでは、と思います。

⑴遅れる者を待つ姿勢
⑵思いやり深く周りを見つめる姿勢
⑶自分自身を顧み、人々と共に前に進む姿勢

一日数分でも己を振り返る時間は必要に思えますね。





永観堂の見どころのひとつ多宝塔へと通じる"臥龍廊"です。山の斜面に沿って造られた廊下で上から見ると"龍が臥している姿"に見える事でしょうね。

堂内の拝観を終え、庭園を散策します。

多宝塔まで来ました。





山の麓にあるのはウェスティン都ホテル、その左下に見えるのは南禅寺三門です。


真ん中の小高い山は"黒谷さんで"金戒光明寺"と"真如堂"があります。

受付でお願いしていた御朱印を受取り、次に真如堂へと向かいます。









滋賀県長浜市 近江弧篷庵

2020年06月21日 06時00分00秒 | 日記
 今回の近江路旅の4回目の最終回です。
小堀遠州(政一)の出身地にある近江弧篷庵へと来ました。
近江弧篷庵は小室藩2代目藩主政之が遠州の菩提を弔うために建立した寺院です。







山門から本堂にかけての庭園は京都建仁寺や高台寺、圓徳院庭園の復元や監修、維持管理を手掛けられ、また、最近ではパークハイアット京都の作庭を担当された北山安夫氏によるものです。



小堀政一は天正7年(1579)に現在の長浜市小堀に生まれ、慶長13年には従五位下に叙せられ以後「遠州」と号しました。

少年期より大徳寺の住持だった春屋宗園、江月宗玩に参禅し、茶道は江戸幕府の茶道頭古田織部に師事し「綺麗さび」と言われる独自の茶道を確立します。現在もその流れを組む"遠州流"茶道が続いています。







北東にある庭園は錦渓池を中心とした池泉回遊式庭園で、錦渓池は琵琶湖の形になっています。
庭園の奥には多数のかえでが植っていて秋の紅葉はさぞ綺麗な事が想像出来ます。





一方の南西の庭は南東に質素な石組みと五老峰、海、舟なでの石を配した枯山水庭園です。昭和34年には庭園石組みなど庭園を構成する要素が江戸時代当初の基本的な要素を残している事が評価され、滋賀県の史跡名勝に指定されています。





しかし、小堀家も順風満帆ではなく、小室藩6代藩主政方の時、天明8年(1788)には大名を改易になります。

これは"天明の大飢饉"の中、伏見奉行であった政方が自身の小室藩の財政の困窮と自らの浪費により伏見町民から11万両もの御用金を不法に徴収するなど悪政を行い、このような悪政に耐え兼ねた伏見元町年寄ら7人が松平伯奢守に直訴し、政方は伏見奉行を罷免されます。
この一連の事件は"天明伏見義民一揆"または"伏見騒動"と呼ばれ義民の直訴により一揆が成功に終わった珍しい事例です。

明治20年(1887)には一揆から100年を機に伏見義民の功績を顕彰する為に、御香宮神社に、「伏見義民の碑」が建たてられました。

また、伏見義民一揆で獄死した焼塩屋権兵衛を顕彰する「伏見義民焼塩屋権兵衛碑」が藤森神社に建てられています。

翌年の天明6年(1786)には田沼意次が失脚し、松平定信が老中職に就きます。
親田沼派であった小堀政方は伏見奉行在任中の不正、圧政を理由に改易の処分を受けます。

しかし、政方は小田原藩に永預かりとなってからは「喫茶式」や「数寄記録」を記して"遠州流"の作法をまとめ後世に伝えています。

小堀政方は政治家としては全くダメでしたが茶人、風流人としては才能のある人物だったようです。
(小堀政方について調べていると長くなってしまいました。)

その影響で近江弧篷庵も長らく無住の寺になります。
昭和13年(1938)にようやく住職が入り寺院として再興が始まります。 



本堂の各部屋の襖絵は奥の部屋から順に"松竹梅"に区切られ、染め芸の大家皆川月華氏による染彩画で無償で寄進して頂いたようです。
染織による襖絵は初めて見ました。



引手は桂離宮のデザイン"月"を模したものです。











参道にある墓地には小堀家六代の墓所と小堀家家臣団の墓所があります。



近江弧篷庵は臨済宗大徳寺派に属されていますが玄関には建仁寺小堀泰厳管長猊下の色紙が飾られています。

最後に御朱印を授与して頂き、家路に着きました。



(ナビによると自宅まで160kmもあります。)








南禅寺 天授庵の新緑

2020年06月19日 11時54分00秒 | 日記
 金地院から天授庵へと来ました。





南禅寺の三門のすぐ横にある塔頭で春の新緑、秋の紅葉と見所が多く、南禅寺界隈でもお気に入りのお寺のひとつです。

石碑にもあるように南禅寺開山大明国師(無関普門)の開山塔を有する由緒ある塔頭寺院です。





書院から見える南庭は一幅の絵を見ているようで新緑の淡い緑と毛氈の紅とのコントラストが実に美しい景色です。










まずは東庭からです。
正門から続く枯山水庭園で南禅寺三門も一部取り込んだ庭園です。また、石畳のデザインにも変化を持たせて工夫を感じます。

露地風の門を入るとガラリと趣きが変わります。













季節の花々が咲く美しい池泉回遊式庭園です。



最初の方の写真の書院越しの庭園はこちらの庭園の風景です。







さらに西側には収蔵庫があり、前には大きな手水があります。よく見ると水路の下には白い卵塊があり、手水の中にはおたまじゃくしが元気に泳いでいます。
その内の20匹くらいがひとつの塊になっていました。
迷いましたが手ですくって数匹が手のひらに、、、すっかりモリアオガエルのおたまじゃくしだと思っていました。

生き物に詳しい無鄰菴事務所スタッフの平野さんに映像を送信、見てもらったところモリアオガエルではなくシュレーゲルアオガエルだそうです。水辺や土中に産卵するのが特徴で、水辺にせり出した樹木に産卵するモリアオガエルとは違う種類のようでした。アオガエルにも二種あるのですね!ひとつ知識が増えました!

やはりスペシャリストは見る所が違いますねー。
危く思い込みで歓喜するところでした、、





寺宝として長谷川等伯の襖絵を所蔵されていますが残念ながら非公開です。
一度公開も考えて欲しいものです。

もう一ヶ所、青緑の名所=紅葉の名所へと向かいます。