京都つれづれなるままに

京都好きの旅日記。お寺、神社、グルメからスイーツまで!思いつくままに。

天野山金剛寺② (大阪府河内長野市) 伽藍拝観

2024年04月23日 12時50分00秒 | 日記
す 4月17日、天野山金剛寺の本坊庭園を鑑賞し、メインの伽藍拝観に来ました。









先ずは、金堂でご本尊の三尊像(大日如来坐像・不動明王坐像・剛三世明王坐像・三尊ともに国宝)にお詣りします。

鎌倉時代に建立された金堂の大規模な修理は、1度目は1605年に豊臣秀頼が、2度目は1700年に岸和田藩主・岡部美濃守長泰がそれぞれ徳川幕府の命を受けて行いました。
そして3度目となるのが、「平成大修理」です。

調査~基本設計から、解体~調査・検討を繰り返し、金堂・多宝塔・鐘楼の保存修理を実施しました。古い素材を大切に残しながら、
平成21年から平成29年の9年間におよぶ保存修理工事が完了しています。

金堂は半解体修理が行われ、軒廻り以上の木部の解体が行なわれ、機能に相応しい構造補強工事が施されました。

その間、ご本尊大日如来坐像を中心とした三尊像は京都国立博物館に寄託され、平成知新館1階の"センター"に展示されていました。



当時は国指定の重要文化財でしたが、京博で修復工事の過程で不動明王坐像の胎内から墨書が発見され、仏師快慶の高弟・行快にって制作された事が判明し、平成29年に三尊一括で国宝に昇格されました。

東寺講堂の中心に安置されている大日如来坐像と同じ智拳印を結んだ金剛界の大日さんです。
よく見ていると共通項が多いのが分かります。





多宝塔(重文・平安時代)。

昭和14年(1939)の修理の際、地下に白磁の小壷などが見つかり、小壷の中には火葬された骨が納められていました。白磁は中国からの輸入品で、大変貴重であったことから、金剛寺と関係の深い八条院の遺骨ではないかともいわれています。






観月亭。





五佛堂

当初の建物は平安時代に創建されましたが、現在の建物は慶長11年(1606)の再建です。
ご本尊は五智如来で平安時代の造立で重文指定されています。







食堂(重文)。

別名「天野殿」とも呼ばれ、後村上天皇が正平9年(1330)政庁とされた建物です。

現在の建物は鎌倉時代の創建で、一山大衆の食事を賄ったり、研学のための道場です。







境内には藤棚もあり、早くも見頃を迎えていました。



御朱印を授与して頂き、昼食に少し離れていますが葛城市にある「はしもと商店」へと向かいました。









天野山金剛寺① (大阪府河内長野市) 本坊庭園

2024年04月23日 07時27分00秒 | 日記
 大阪府河内長野市にある天野山金剛寺は女人高野・天野行宮(あまのあんぐう)として知られる古刹です。

先ずは本坊から拝観します。







こちらのお寺の拝観は本坊と伽藍とに別れていて共通券を購入すると100円お得になります。



客殿の一室では国宝・日月四季山水図屏風が展示されていますが、こちらは複製品でオリジナルは5月3日〜5日の3日間だけ公開されます。









こちらの庭園は素晴らしいです。

一面が杉苔に覆われた中に鶴島、亀島、枯れ滝などを配した枯山水庭園です。

室町時代に作庭されたようで、桃山時代には蜂須賀家政公が手を加えています。

また、江戸時代にも改修されているそうです。









渡り廊下を進み奥殿に来ます、









説明書にあるように、こちらは南北朝時代に北朝の御座所となったところです。

北朝初代の光厳・光明・崇光上皇と皇太子直仁親王が3年間、御座所として使われていました。

直ぐ西側には摩尼院があり、南朝の行在所になっていて、南北朝時代には塀を隔てて南朝と北朝の行在所が同じ境内に存在したのは時代の皮肉の様に感じます。

次に天野山金剛寺の伽藍を配下します。