月曜日は研究会。上智の研究会は今メンバーが増えて「にぎにぎ」している。いまよんでいるのは、マイケル・フリードの最新(だろう)論考でロラン・バルトの『明るい部屋』を扱ったものだ(確か2005年のCritical Inquiry所収)。ロジカルでかつ大胆なフリードの文章には舌を巻くな。すごい。芸大の院生でバルトの専門家がひとり今回から参加してくれている。彼のぼくよりも(このぼくよりも!)一層ついついフランクになっちゃう喋り方が、つぶらといってはなんですがなくりくり瞳とまた冴えいてなお分からない時には実に正直に分からないと言えちゃう至極「まっとう」な姿勢と相まって、とても楽しく刺激的な時間になった。あと、S大でやっているゼミの学部生も参加した。
ということで、バルトがいま木村家で若干流行中。例えば、リズムについて。
「彼はいつも苦行と祝祭が相継ぎ、その一方が他方の解決となる、あのギリシアのリズムを信用していた(そして、労働/余暇という近代の平板なリズムは信用しなかった)。」(『彼自身によるロラン・バルト』)
「リズムというものが必ずしも規則的ではない、という点には注目するべきだろう。カザルスの名言によれば、リズムとはすなわち「遅れ」である」(同上)
あるいは、こんな演劇についての思考もある(言うまでもなく、バルトにおける演劇性への思考がフリードにとって自らのシアトリカリティ論をバルトに重ねる根拠になっている、ってことで)。
「演劇(切り抜かれた場面)は、《ウェヌス的魅惑》の場所、すなわち(プシュケとそのランプによって)見つめられ照らされたエロスの場所そのものである。エピソード的なわき役の一登場人物でも、自分を欲望の対象として感じさせるちょっとしたモチーフを体現しさえすれば(そのモチーフは倒錯的であってもいいし、必ずしも美に結びついたものでなくてもかまわないが、しかし身体的なあるディテールに結びついているべきで、それは、声の木目、ある息の吸いかた、極端な場合にはある種の不器用さであってもいい)、たちまち舞台全体が見るに耐えるものとして救われるのだ。演劇のエロス的な機能は添えものではない。なぜなら、あらゆる具象的な芸術(映画、絵画)において、それのみが身体を与えてくれるからだ。身体の表象をではなく、身体を与えるからだ。」(同上)
それで、そういうわけで(といっても上のバルトと直接関係づけたいわけではありません)昨日見たポツドール『恋の渦』なのだ。『夢の城』からのさらなる展開としてはなかなか「ものすごい」ものがあったのではないか。2時間半弱。ひたすら疲れる。ほとんど「消耗」って感じの疲労。この疲労に『恋の渦』の仕掛けがあるように思う。あれは、何かを見ていたというよりも、何かに見られ続けていたと言ってもいいような、そんな類の疲労だ。「窃視症的」というよりも(それは、ガラス窓で舞台内部と観客を隔てた『夢の城』にこそ相応しい形容詞だろう)、ほとんどネットのウェブカムとかで中継された映像を見続けているような、見続けさせられているようなといった方が近いだろう、より現代的な「覗き」の感覚。
そんな「覗き」の眼鏡をつけるよう観客を強要し、ただひたすらその欲望の装置に観客を縛りつける演劇。観客の内で勝手に喚起させられてしまう欲望は、舞台上がどんなにリアルに見えてもたいがいはあくまでも覚えたセリフを喋る芝居に他ならないじゃないかとたかが括れるのとは対照的に(それに対する恐ろしい例外については後で触れる)、何らフィクショナルなものではない。ネットで流出してしまった知人でもなんでもない個人の極めてプライベートな写真を見てしまっているあの時と、欲望の形としてはいかなる相違もない。だから、この演劇はフィクションではない。観客が感じる官能は虚構ではないからだ。そのことがつらい。疲弊させる。演劇の構造にはまちがいなくこのフィクションではない部分がある。それがこの演劇が語るものだ。
時折観客は笑う。うまいことフィクショナルな、観客の受けをとろうとする芝居的なものが現れたとばかりに笑う。「フィクショナルなもの」で笑う「フィクショナルな観客」になりすまそうとする。そんな逃げ口を観客に用意してあげるために「これって若者の生活をトレースした風俗劇じゃん」と思って安堵(し批判)することの出来るセリフや一見コミカルな登場人物が用意されていたに相違ない。4部屋にそれぞれ分かれた男たちが女たち(あるいは同居する友人)を同時に恫喝するシーンで起きた観客の笑いは、「可笑しいから」というよりも「可笑しいものと見なしてしまいたい」という気持ちから漏れているようにしか思えなかった(DVのイメージが濃厚で、そしてそう解釈する方がリアルだし正しいと思うが、そう考えてしまうとこれは全然笑えなくなるのだった)。演劇性(芝居らしさ)は、だからこの作品のなかでは、リアルなものから観客を解放するための装置として機能しているのだ。けれども、どうだ。あの瞬間、浮気の相手にブロウジョブされた男/役者のペニスは見事に勃起していた、それをさらす瞬間は!そのとき役者の身体は、役柄と共にあってしかし演じることを突き抜けてしまった虚構ではない身体を観客に不意に突きつけるのだ。
見る欲望を携えたぼくらが何らかエロティックなものを期待して演劇を見に来ているとするなら、これこそが見たい当のものであるはずなのに、「あいつ」は、こっちにとってたまらなく「こまった」「めんどくさい」存在としてこちらに顔を向けてくる(一瞬現れたそれは「顔」というべき存在感があった)。一番見たいものが露呈した瞬間、それは一番見たくないものとなる。それがあまりにリアルだからだ。リアルなのは、しかし勃起する身体のみならず、それを見る観客もだ。欲望の歩みが行き着く先にあるリアルなものは、欲望の主体の相貌をむき出しにしてしまう。それがたまらなく疲労させた原因だろう(かつて、ストリップを見に行って猛烈に疲労したことを思い出させる)。
そういうわけで、ポツドールはやはり、青年団的方法のまっとうな応用、それのもつ覗き見的な構造を可能な限りに肥大化させた、実に正統的なチルドレンであるに相違ない、そのことを再確認したわけだ。
ということで、バルトがいま木村家で若干流行中。例えば、リズムについて。
「彼はいつも苦行と祝祭が相継ぎ、その一方が他方の解決となる、あのギリシアのリズムを信用していた(そして、労働/余暇という近代の平板なリズムは信用しなかった)。」(『彼自身によるロラン・バルト』)
「リズムというものが必ずしも規則的ではない、という点には注目するべきだろう。カザルスの名言によれば、リズムとはすなわち「遅れ」である」(同上)
あるいは、こんな演劇についての思考もある(言うまでもなく、バルトにおける演劇性への思考がフリードにとって自らのシアトリカリティ論をバルトに重ねる根拠になっている、ってことで)。
「演劇(切り抜かれた場面)は、《ウェヌス的魅惑》の場所、すなわち(プシュケとそのランプによって)見つめられ照らされたエロスの場所そのものである。エピソード的なわき役の一登場人物でも、自分を欲望の対象として感じさせるちょっとしたモチーフを体現しさえすれば(そのモチーフは倒錯的であってもいいし、必ずしも美に結びついたものでなくてもかまわないが、しかし身体的なあるディテールに結びついているべきで、それは、声の木目、ある息の吸いかた、極端な場合にはある種の不器用さであってもいい)、たちまち舞台全体が見るに耐えるものとして救われるのだ。演劇のエロス的な機能は添えものではない。なぜなら、あらゆる具象的な芸術(映画、絵画)において、それのみが身体を与えてくれるからだ。身体の表象をではなく、身体を与えるからだ。」(同上)
それで、そういうわけで(といっても上のバルトと直接関係づけたいわけではありません)昨日見たポツドール『恋の渦』なのだ。『夢の城』からのさらなる展開としてはなかなか「ものすごい」ものがあったのではないか。2時間半弱。ひたすら疲れる。ほとんど「消耗」って感じの疲労。この疲労に『恋の渦』の仕掛けがあるように思う。あれは、何かを見ていたというよりも、何かに見られ続けていたと言ってもいいような、そんな類の疲労だ。「窃視症的」というよりも(それは、ガラス窓で舞台内部と観客を隔てた『夢の城』にこそ相応しい形容詞だろう)、ほとんどネットのウェブカムとかで中継された映像を見続けているような、見続けさせられているようなといった方が近いだろう、より現代的な「覗き」の感覚。
そんな「覗き」の眼鏡をつけるよう観客を強要し、ただひたすらその欲望の装置に観客を縛りつける演劇。観客の内で勝手に喚起させられてしまう欲望は、舞台上がどんなにリアルに見えてもたいがいはあくまでも覚えたセリフを喋る芝居に他ならないじゃないかとたかが括れるのとは対照的に(それに対する恐ろしい例外については後で触れる)、何らフィクショナルなものではない。ネットで流出してしまった知人でもなんでもない個人の極めてプライベートな写真を見てしまっているあの時と、欲望の形としてはいかなる相違もない。だから、この演劇はフィクションではない。観客が感じる官能は虚構ではないからだ。そのことがつらい。疲弊させる。演劇の構造にはまちがいなくこのフィクションではない部分がある。それがこの演劇が語るものだ。
時折観客は笑う。うまいことフィクショナルな、観客の受けをとろうとする芝居的なものが現れたとばかりに笑う。「フィクショナルなもの」で笑う「フィクショナルな観客」になりすまそうとする。そんな逃げ口を観客に用意してあげるために「これって若者の生活をトレースした風俗劇じゃん」と思って安堵(し批判)することの出来るセリフや一見コミカルな登場人物が用意されていたに相違ない。4部屋にそれぞれ分かれた男たちが女たち(あるいは同居する友人)を同時に恫喝するシーンで起きた観客の笑いは、「可笑しいから」というよりも「可笑しいものと見なしてしまいたい」という気持ちから漏れているようにしか思えなかった(DVのイメージが濃厚で、そしてそう解釈する方がリアルだし正しいと思うが、そう考えてしまうとこれは全然笑えなくなるのだった)。演劇性(芝居らしさ)は、だからこの作品のなかでは、リアルなものから観客を解放するための装置として機能しているのだ。けれども、どうだ。あの瞬間、浮気の相手にブロウジョブされた男/役者のペニスは見事に勃起していた、それをさらす瞬間は!そのとき役者の身体は、役柄と共にあってしかし演じることを突き抜けてしまった虚構ではない身体を観客に不意に突きつけるのだ。
見る欲望を携えたぼくらが何らかエロティックなものを期待して演劇を見に来ているとするなら、これこそが見たい当のものであるはずなのに、「あいつ」は、こっちにとってたまらなく「こまった」「めんどくさい」存在としてこちらに顔を向けてくる(一瞬現れたそれは「顔」というべき存在感があった)。一番見たいものが露呈した瞬間、それは一番見たくないものとなる。それがあまりにリアルだからだ。リアルなのは、しかし勃起する身体のみならず、それを見る観客もだ。欲望の歩みが行き着く先にあるリアルなものは、欲望の主体の相貌をむき出しにしてしまう。それがたまらなく疲労させた原因だろう(かつて、ストリップを見に行って猛烈に疲労したことを思い出させる)。
そういうわけで、ポツドールはやはり、青年団的方法のまっとうな応用、それのもつ覗き見的な構造を可能な限りに肥大化させた、実に正統的なチルドレンであるに相違ない、そのことを再確認したわけだ。