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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「驚愕と花びら」

2011年01月14日 | ダンス
1/9に大橋可也の振付作品「驚愕と花びら」という公演を見た。

ぼくは、根っから舞踏的方法が好きなんだとあらためて思わされた。大橋作品というのは、暴力的だったり、厭世的な雰囲気が感じられたり、近づきがたいところがあるようにも思うのだけれど、それは大橋可也の外見と似ていて「外見の話」であって、中身に注目してみれば、とても繊細な振付による繊細な出来事が狙われていて、ぼくは大橋作品のそういうところが好きだ。今回は、「疾駆する身体」ワークショップで選ばれた若いダンサーたちが多く起用されていた。若いダンサーたちは、まだ感度の悪いところもある。「感度」は大橋作品では重要で、なぜならば振付はおおよそ自発的に動くことよりも、受動的に動かされることが意図されているので、動くのではなく動かされなくてはならない、つまり自分を動かす他者の存在をダンサーたちはちゃんと感知していなくてはならないのだ。そこに不在の他者が浮かび上がってこそ、大橋作品は輝きを放つようになる。

何度もいろんなところで書いてきていますが、土方巽のダンスの思想のとても大事な部分というのは、ぼくはこの受動性だと思っています。例えば、土方はこんなこと書いてます。

「これは前にも話したことなのですが、悪寒というものがあります。何か気の中に、気息の中に含まれているもので、何か悪寒がする、あるいは何か悪い感じがする、あるいはそれを通り越して〈何かある〉という感じです。以前、二十年位前のことになりますが、私にはそれらの悪いものや予感に敏感になって、それら空気の中に含まれているものが私をうかがっているという感覚が大変敏感な一時期がありまして、「来るゾ」と言うと必ず来るようなことがありました。」(「風だるまの話」『土方巽全集 』p. 151)

ぼくの目には、とりたてていうような新しい試みはなかったように思われた。むしろ大橋は、いままでに培ってきた方法やイメージの精度を高めようしているように見えた。冒頭に、場内アナウンスを大橋自ら行ったときのなんだか「陽気」とも形容できそうな軽快なしゃべりが一番印象に残った。あとは、最後の最後に、パイプ椅子を舞台内に放り投げ、横たわっているダンサーたちの上に載せ、しかばねの山のようなものが出来ると、今度は、床に向かって、貼ってあった黒いシートを思いっきり、びゃーっと引きはがしたシーンが印象的だった。

四日前にi phoneを買った。ようやくスマートフォンを手にするようになった。どんどん自分の身体が、なにかをじっくりと味わうことよりも瞬間の快楽の方にむかっているのを感じる。80年代にはトーキング・ヘッズのような身体性が注目を浴びたわけだけれど、ここにも今日的な受動性の身体があらわれているように思う。この痙攣性は、ポップになり得た。舞踏のよいところでもあり、難しいところでもあるのは、見る者がその動きの妙に没入しようとすれば時間がかかる、ということにあるように思う。

以下は、公演を見た翌日に大橋さんに送ったメールの一部です。

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「驚愕と花びら」。興味深く拝見しました。

とくに、なにより印象に残ったのは、大橋ダンスの方法というのが、ある程度、ダンサーズではないダンサーたちでも遂行しうるということでした。もちろん、最後の組、がはじまるとテンションがぐっと高まり、やはり身体の状態が違うとは思いましたが。とはいえ、見られないものではないというのは確かで、まだまだアイディアに対して感度が不十分なのは事実であっても、その動作から見る者が感知すべき踊りのありかというのは、感じられました。夏の枇杷系スタジオでも感じたことなのですけれど、大橋さんのいまというのは、方法の錬成というところにあると思っています。ダンスとして味わいのあるポイントを緻密に練り上げ、仕上げてゆくこと。それは、バレエにも匹敵するような強い方法を編みだすことでしょう、それが可能なのは、舞踏というアイディアがそもそも強さをもっているからだと思いますし、大橋さんの行っているのは、舞踏がどこまで方法的に洗練されうるのかということだと認識しています。そのステップを確実に進んでいると感じました。

あと、舞踏の面白さというのは、身体の状態(の変容)にあるのだと再確認しました。ぼくは最近、アニメーションのダンスと人間のダンスを等価に見るとしたら、どんなことが考えられるのかということに興味を抱いているのですけれど、人間のダンスにしかできないのは、この身体の状態の変容を見せることです。こんな状態にもなりうるんだという発見は、解放となって充実した鑑賞体験になりうる。そういうことは、ときどき忘れてしまうのだけれど、大橋作品に触れると思い出します。(なので、定期的に上演して下さい。)

その上で思うのは、大橋作品には、一定の真面目さが貫かれているのだけれど、室伏さんや和栗さんを見ていると、むしろ一定の不真面目さが貫かれていて、対照的だということです。和栗さんの「肉体の迷宮」見たのですけれど、和栗さんの身体で起きていることはつねに面白かったです、いや、和栗さんの身体以上に和栗さんの頭のなかで起きていることといった方がいいかも知れません。ふざけているようにしか思えない不思議な状態は、舞踏ならではで、舞踏の面白さのひとつだなと感じたわけです。そうした和栗さん(ぼくはあの公演をほとんど和栗さんのソロとして受けとっています)と比べると、大橋作品はバレエに近い。ゆるぎない美学の展開に感じます。どっちがいいというのではなく、そこが興味深く思います。
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Iはすくすく成長中。昨晩、帰宅すると、挨拶の代わりなのか、おそらくそらみみではない「ぱぱ」を口にした!もうすぐ1歳。