Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「それはオルガスムも同然だった It was as good as orgasm.」

2008年02月03日 | 『ジャド』(3)1レイナー
以下は、ダンスの研究を目的とした、ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』(Routledge: New York, 2006)の部分的な翻訳です。前回の第3章の中盤にある同小見出しを訳したものの続きです。まずは、そちらからお読み下さい。

今回の部分では、レイナーの初期の取り組みが議論されています。レイナーがこの時期に「異なった種類の題材を組み合わせること」からさらに「舞台上の[ダンサーの]現前stage presence」に興味をもつようになった経緯を、バートは丁寧に辿っています。観客とは(また、観客に対峙するダンサーとは)何かという問いを問い直すことが、運動の質にダイレクトに変更を迫っていったことがよく分かります。あと、ヴィトゲンシュタイン哲学への関心を取り上げているところも、面白いですね。今後、訳註ないし解釈や解説をつけたいと思っています。後日、それとあわせて研究ノート化します。とりあえず、「あのころ、アメリカの若いダンサーたちが何に挑戦していたのか」を(愉しんで)読んでもらえたら、幸いです。(写真は『三つの海景』の一枚。文中に出てくるギースが撮影したものと推測できる)



(3)トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーの初期作品(後半)

 [ブラウンのアプローチと]似たような、個人の自伝的な事柄への参照は、『オーディナリー・ダンス』というソロ作品、1962年のジャドソン・メモリアル教会を会場に上演した最初のコンサートで、レイナーが披露した作品にみなぎっていた。コード化したどんなダンスの語彙とも明白な関係のない一連のありふれた動作を踊っている間、レイナーは自分がいままで暮らしてきた建物の住所を詳細にわたって説明する語りを暗誦した。動作は互いに関係がないだけでなく、動作と語りにはどんな意味ある連関もなかった。似たような部分がレイナーの『テレイン(地域)』(1963)にもみなぎっていた。これについて批評する際、ジル・ジョンストンは、レイナーのスタイルを次のようなものの実際的組み合わせとみなし、こう記述した。

「自然な」動作、古典の(モダンダンスの)拡張、過度に急速な動きのフレーズ、柔らかなポーズの変化、静穏なあるいはぶっきらぼうなリラックス状態、気まぐれあるいはグロテスクでもある痙攣的な歪み、それらは、レイナーに固有の癖のある身振りの種類に属している。そうした独特さは、しばしば精神病院に転がっている題材のようだった、狂気に見えることと子供っぽく見えることとはしばしばほとんど紙一重であったけれど。(Johnston 1963c: 11, 18)

 レイナーは、『三つの海景』の中盤の場面で、演舞空間を対角線上に横切って動くなか、「間抜けに、セクシーに、不具者のように、取り憑かれたように、観客を呪うように、自暴自棄に、恥知らずのように、雌の家畜のように見せていた」(cited in Perron and Cameron 1981: 58)。この場面は、ベルリオーズの『レクイエム』の曲「Tuba Mirum」がもつ尊大な緊張感に対して彼女がただ演舞空間を走り回る場面のあとを引き継ぐものであり、また、冬用コートと大きくて薄く透き通る素材を床に投げ捨て、さらに一時的な痙攣状態に陥る場面がその後に続いた。ジョンストンのコメントが示唆的なように、レイナーは振り付けの統一化したスタイルを展開することではなく、異なった種類の題材を組み合わせることに興味をもっていた。フォルティが『シーソー』で行ったように、彼女は、確固としたどんな連関もなしにひとつのものをべつのものに追従させた。レイナーはこの方法をさらにグループで取り上げた。そこでパフォーマーはしばしば、訓練を受けているダンサーの場合もそうでない場合も、ゲーム・ライクな未決定のインストラクション(指令)から、これら広範で互いに異なる素材のタイプを解釈する自分自身のやり方を見いだしていった。
 アル・ギースの写真を見ると『三つの海景』でレイナーが、観客に接近するよう彼女を導く対角線上で、スローモーションのうねりをもった間抜けで、セクシーなソロを踊っているのが分かる。これは、ラ・モンテ・ヤングの曲『テーブル、椅子、ベンチのための詩』に向けて上演された。その曲では、これらのもの[テーブル、椅子、ベンチ]が床の周りでそれらを押すことで「演じられる」作品である。「デュエット」と呼ばれた『テレイン』の一場面は、レイナーとブラウンとが一緒になって、黒いタイツとレースの押し上げブラがついた黒のハリウッド製のヴァサレットとを身につけており、バレエとエロティックな動きとの一種独特の混合を含んでいた。レイナーがニーナ・ストロガノヴァの中間クラスで習得していたバレエを踊れば、トリシャ・ブラウンは上半身でバレエの動きを演じ、脚と腰でバーレスクのバンプ[腰を突き出す動き]と腰の回転を演じた。そのデュエットはマスネのオペラ『タイス』からとった音楽に、双方が19種類の「ピンナップガール」のポーズを演じることをもって終了した。その後『テレイン』で、彼女はウイリアム・デイヴィスとのデュオを行った。それはエロティックなインド彫刻からとられたポーズに基づいており、無表情で上演された。レイナーは自分自身が、上演の間観客に及ぼす支配力に関わる経験に注目していることを認めていた。このことは、公に自分の振り付けを踊った最初の経験について彼女が後にこう記していることから明らかである。

それはオルガスムも同然だった。作品を実演し自分を物理的に観客に向けて呈示しながら、私は、それが私の生きている場であり、私が帰属している場であると知ったのだ。そしてそれはもちろん、カリスマの一部だった。それは差し迫った事態であり、また自分自身を呈示するその快楽は部分的に観客を誘惑することにあった。観客がこの現前の感覚をえたり現前に取りこまれたりするよう、パフォーマーは、それを経験しなければならない。(Rainer 1999: 63)

 1965年にレイナーが「妖しい魅力にノーを」とか「誘惑にノーを」とか言ったとき、彼女は明らかに、かつて自分自身の振り付けで嬉々として上演していたはずの、上演するという行為のエロティックな側面を拒んだ。『テレイン』のいくつかのパートやその後の『パート・オブ・セクステット』(1964)でのロバート・モリスとのデュエットにあったエロティシズムについて偽装されているものなど何もなかったにもかかわらず、彼女はその後、セクシャルな展示主義に偽装されていると感じた踊りの諸形式に反旗を翻した(Rainer 1974: 71)。彼女はまた、演者と観者のナルシスティック/覗視症的二元論(ibid.: 238)を批判した。従って、こうしたことのすべてこそ、ドライでミニマルな上演スタイルをとるようになったとき、レイナーが意識的に放棄したものだった。
 レイナーは自分が最初に「パフォーマンスという問題」(Rainer 1974: 68)に気づくようになったのは、スティーヴ・パクストンとの議論を通してだったと言っている。パクストン自身は後に、しばしば舞台上の[ダンサー]の現前があまりに強すぎると言ってレイナーを批判したと回想している(Banes 1995: 233, fn. 20)。パクストンとレイナーのコラボレーション作品『ワード・ワーズ(単語の諸単語)』(1963)は、恐らく、クールで中立的な仕方で、平板で非人間的な題材のパフォーマンスを彼女が開発した最初の作品である。二人とも『ワード・ワーズ』のための運動素材に貢献した。パクストンは複雑でカニングハムに似た技巧的な動きを作り、一方でレイナーは「捻ったポーズと非常に小さな反復的身振り」(ibid.: 89)を差し出した。完全なシーケンスが作品中三回繰り返された。最初はレイナーがそれをソロとして上演し、続いてパクストンが踊り、そしてこれに、二人が一緒になって同じ題材のユニゾン的反復が引き続いた。『ワード・ワーズ』というタイトルは、パクストンのその他の初期作品のタイトルに似て----『代理人』(1962)や『英語』(1964)----、ルシンダ・チャイルズが述べているように、複雑な仕方でイエズス会的である。つまり「英語は」とチャイルズは指摘している「自らでありまた何か他のものの代理でもある言語のひとつである」(ibid.: 98)。パクストン自身が言うには『ワード・ワーズ』というタイトルは自己反省的なタイトルのひとつである。つまり「ワード・ワーズ[単語の諸単語]とは、実際的な名なのである。要するに最初の「ワード」はひとつの語のことであり、第二の「ワーズ」は同じだが複数形である。それはダンスを全く反映していない。それは語を使うひとつのやり方である」(cited in Bear 1975: 26)。パクストンはその後、レイナーと彼とが一緒になってほとんど全裸で、ユニゾンで上演している様子が映っている作品の写真を指し示して、こう説明している。「それは単数的で複数的なプレイである」(ibid.)。こうした言語ゲームの使用は、私があとで指摘する点である、ミニマル・アーティストの間でのヴィトゲンシュタイン哲学への意識を反映している。
 パクストンが示唆するように、この作品の発端には、92番通りのYW/YMHAでのコンサートのために行ったオーディションが不成功に終わった際、彼とレイナーが受けた反応があった。「Y」[YW/YMHAを指すと思われる]にいた誰かがジャドソンのひとたちはみな私には似たように見えると言っていたのを、彼らは聞いたのである(ibid.)。レイナーが思い出すのは、『ワード・ワーズ』のなかで二人のダンサーが同じに見えるようにするために、当初、ゴリラの衣裳を、続いてサンタクロースの衣裳を身につけたら、と彼らは考えた。その次に、彼らはそっくりに見えるよう顔を描き直す化粧の使用について考えた。最終的には、Gストリング[ストリップ用のバタフライ]とレイナーには乳首を覆う紙をつけて全裸の状態で踊るという考えに落ち着いた。ダンサーたちを似たものに見せるように化粧を用いるという考えは、パクストンのグループ作品『英語』で採用された。そこでは、肌色のドーランが眉毛や唇を含めた顔を隠すのに用いられた。示唆的なのは、パフォーマンスの間に振る舞いがからっぽで中立的なモードであるのを好んで、自分の作品に不安から自由なモダンダンスの表現的個人主義などというものを放棄させる振付家たちが、長らくモダンダンスと繋がっていた会場から拒まれていたことである。パクストンとレイナーは勿論、単に92番通り「Y」にいるプログラマーが言っていたことに応答しようとして、こうしたわけではない。その作品の非個人化とミニマリズムは、ジャドソン・ダンス・シアターと関わったアーティストたちによって制作されたその他の作品とこの作品が共有する属性である。それ故、この作品は既存の慣習や伝統を単に拒むのではなく、むしろそれをやってみることで、ヴィトゲンシュタインの理論に魅了されたアーティストたちと呼応するような、記号呈示の新しく、より単純でよりミニマルなやり方へのパフォーマティヴな仕方による研究の過程に従事したのである。
 ブラウンもまた意識的にこの種の表現的な個人主義を拒絶した。彼女は、ダンサーが観客に対する自身の現前をどう投企するかについてパクストンやレイナーと同様の思考をもっていたと思われる。疑いなく、このことについて彼らと議論していただろう。彼女はこのことを『内向き』(1965)という作品で探究した。この作品のための動作の素材は、彼女のロフトスタジオの壁から12フィート離れた線の上で行った即興から発展した。そのパフォーマンスのために、ブラウンは、観客の座席をスタジオの壁を作り直して観客が内側を向くように整えた。スタジオで発展させたソロ作品を実際に演じたとき、観客がまるで壁であるかのように観客に接近したのだった。後に彼女はベインズにこう語っている。

そのときが来るまで、カンパニーのダンサーたちは厳密な技巧的ステップを行っていた、マンネリ化したもののひとつは、目をとろんとさせて、目に見えないがそこにある[と想定した]嵐を蹴り飛ばすことだった。多くのひとたちは、観客から隠れるそうした工夫を用いていた。私たちは皆、そのことを認識していたし、それについて話し合っていた。だから私は、観客と真っ向から向き合うことに決めた。このダンスで観客たちの膝小僧に接して歩き回ったとき、私はそれぞれのひとを見た。それはドラマチックでも対面的でもなかった。ただあなたがバスに乗ってあらゆる事物に注意をこらすときにあなたがそう見えるようなあり方だった。(Banes 1980: 79-80)

 ブラウンがそれぞれの観客を個々別々に意識して見ることに決めたことは、従って、ダンサーが上演する際にどのように振る舞うかについての批判に基づいていた。彼女の立脚点は、マース・カニングハム・ダンス・カンパニーで踊った経験をパクストンが考察したことに似ている。レイナーが自分のカリスマ的な現前の投企によって観客を誘惑するのを拒否したように、ブラウンの外見はドラマチックでも対面的でもなかった。それは、バスに乗っているときの注意の質のように、同時代の都市の振る舞いがもっている普通のモードを利用したものである。それだから『ワード・ワーズ』のように『内向き』はただ既存の慣習や伝統に「ノー!」と言ってはいなかったが、それをあえてすることで、パフォーマティヴな仕方による研究の過程に従事したのだった。この場合、その研究は、パフォーマティヴな現前を投企するオルタナティヴなやり方を見つけることに焦点があった。