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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「あなたは飛んでいたのよ you were flying」

2008年02月02日 | 『ジャド』(3)2ブラウン
第3章の中盤を訳しました、そこから掲載します。ここは、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーが彼女たちの活動の初期にどのような模索をしていたのかについてまとめたところで、いかにモダンダンスと彼女たちのアイディアがことなるのかについて、理解できるはずです(後半のレイナーについては後日掲載します)。

ラムゼイ・バート『ジャドソン・ダンス・シアター パフォーマティヴな足跡』(Routledge: New York, 2006)

第3章 ミニマリズム、理論、ダンスする身体
(1)導入(小見出しなし 目下翻訳準備中)
(2)シモーネ・フォルティとロバート・モリス(目下翻訳準備中)
(3)トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーの初期作品(ブラウンについて触れている前半のみ以下に掲載)
(4)ダンス理論と美術理論(目下翻訳準備中)
(5)「私の身体は持続するリアリティに留まる」(目下翻訳準備中)

これはトリシャ・ブラウンのウィキペディアによる記事です。
これは、昨年2007年にドイツで行われたドキュメンタ12という展覧会で、トリシャ・ブラウンが上演した『Floor of the Forest』です。
これについては詳細は分からないのですが、4:30以降から過去のさまざまな時代の映像が出てきます。その冒頭に出てくるのが下で触れている『建物の側面をひとが歩いて降りてくる』(1970)です。シュルレアルな作品です。イヴ・クラインのこの写真に影響を受けたなどと言われています。
これはカンパニーのHPです。
これは、最新作『アイ・ラヴ・マイ・ロボッツ』についての「ニューヨーク・タイムズ」評です。


(3)トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーの初期作品(前半)

 1960年代初頭に作ったダンス作品のなかで、トリシャ・ブラウンとイヴォンヌ・レイナーの両方が最初に試みたのは、フォルティがすでに『シーソー』において用いたやり方で表現の題材を用いることだった。しかし、双方とも、異なる仕方ではあれ、徐々に形式的な構造を採用していった。双方とも、パフォーマティヴな現前を最小化するやり方を探究するよう導かれつつ、その構造によって、個人的な題材あるいは自伝的な題材は、より非人間的になって示されることとなった。
 ブラウンが最初、マジソン劇場で上演し、1962年にはニューヨークで、またその年にさらにジャドソン・メモリアル教会で上演することとなった『トリリウム』は、彼女がニューヨークで披露した最初の振り付け作品であった。トリリウムは北アメリカの森に生息する花である。ワシントン州に住んでいた子供の頃、ブラウンはよく母の庭へとトリリウムを移植していたのだけれど、いつも家に帰るときまでにしおれてしぼんでしまっていた。ブラウンは、このことを運動の野生らしさのイメージや運動の推移のイメージとして理解した。彼女は『トリリウム』についてこう書いている。

急激に立ち止まる、といったような奇妙なタイミングを含みまた無音の沈黙をともなった非常に高いエネルギー運動のストラクチャード・インプロヴィゼイション(構造化された即興)。それは、動力学的な作品であり、シモーネ・フォルティによるテープを伴奏に、そこで私があれこれの動作に没頭する連続的構造体である。『トリリウム』の冒頭の部分を考える際に、私が思い起こしていたのは、座ること、立つこと、横になることという三つの姿勢を行き来する、スタジオで行った運動の探究のことであった。私はこれらの動きを基本的な機械構造へと解体し、休息、力、勢い、癖の場を見いだした。私は繰り返しその題材へと向かい、横になることが空中でなされるほどに最終的に加速しごちゃ混ぜになっていった。(Brown 1978: 46)

1962年にジャドソン・メモリアル教会で上演された『トリリウム』をアル・ギースが撮った写真は、ブラウンが空中でひっくりかえりながら座った姿勢をとった直後であることを示している(図版3.2)。座ること、立つこと、横になること、そして無数の動作を行うことはみな、ファウンド・ムーヴメント(見いだされた動作)である。スティーヴ・パクストンが回顧しているように、ダンスのなかで逆立ちを目撃するなどということは当時あり得なかった(cited in Banes 1995:121)。(また重要なことは、その写真が明かしていることに、ブラウンはレオタードとタイツを身につけているのである。1962年に催された都心部のイベントではダンサーたちは依然として慣習的なやり方で正装しており、かたや観客たちも依然としてダンサーたちを見に来るのに小綺麗に装っていたのである。)ジャドソン・ダンス・シアターのメンバーであり、またカニングハム・カンパニーで踊っていたウィリアム・デイビスは、サリー・ベインズにこう語っていた。「しばらく彼女を見ていたら、不安を生じさせるかさもなければ危険と思われるものを彼女は完全に制御していると、きっとあなたは思ったことでしょう」(cited in Banes 1995: 121)。こうした即興を実施することで実証されたのは、ブラウンが自分の身体について驚くべき知識を持ち合わせていたということである。その知識を、ブラウンは、全く慣習的なダンス・テクニックとは独立して発展させていたのだった。
 1960年代の初頭のことについて1998年に語る際、ブラウンは次のことを思い返していた。

私は、非常に神秘的な----ちょうどいまそれを思って私の心臓はドキドキしています----まったく信じられないような魔術的な出来事を産み出す即興の経験を大いに積んでいました。私は愛していました。得意でした。私はダンスのテクニックに束縛されたくはありませんでした。私は飛びたかったのです。(Brown 1998: 16-17)

 スティーヴ・パクストンとのデュエット、ブラウンの作品『ライトフォール』(1963)について書く際、ジル・ジョンストンはこう感想を述べている。

ブラウンは即興の天才、ときが招く際にちゃんと準備の出来ている天才、ときがやって来たときにちゃんと「そこにいる」天才だった。そのような器用さは単なるおどけ者tongue waggingなどではなく、外見の静けさと確信の結果であり、高度に発達した動力学的応答の結果だった。彼女は本当にリラックスして美しかった。(Johnstone 1963b: 19)

 これは1960年代のブラウンの作品に対してごくわずかしか残されていない批評のひとつである。ブラウンはミルズ大学の学生として即興について学んでいたし、1960年に夏期講習の間、サン・フランシスコ沿岸でアン・ハルプリンのもとにいた。すでに言及したように、ブラウンが飛んだというフォルティの話は、そこで箒の性質を探究した際のことだった。ハルプリンのワークショップを通じて、ブラウンが見いだしたのは、体腔の知識と解剖の知識が劇場のダンスの創作を活気づけうるやり方だった。これは『トリリウム』の創作を活気づけるのみならず、彼女の作品において最重要のこととなっていった。
 1990年代の後半、ブラウンは『トリリウム』を発展させる題材に関連するだろう1960年代初頭の即興作品のひとつをめぐって、ヘンデル・タイシャーに次のような話をしていた。

私は、飛ぶというようなことが出来るという自分の気持ちを圧倒する経験をしていた。シモーネ(・フォルティ)は本の中でこの才能について言及している[箒の話]。これは、出来るということをどう自分が発見しうるのか、ということである。----振付家のアイリーン・パスロフはスタジオにたまたま入って来て、そこの玄関口で私を見て立ち止まった。私は思った、私は止めるべきだ、なぜなら彼女はスタジオを賃借りしているのだから、と。そこで私は止めてそして「ごめんなさい。出て行きます」と言った。彼女は言った「あなたが何をしているか知っているの」と。「えっと、私は即興の状態でことをなせと自分に指令していることは知っています」と私は言った。彼女は答えた「あなたは飛んでいたのよ」(Brown 1998: 16-17)

『トリリウム』から『オルフェ』(1998)のオープニングへ至るまで、飛ぶことへの専心は、ブラウンの作品に行き渡っている。1986年にリズ・ブラネルはブラウンに向けて、なぜ飛ぶという考えに興味があるのかと尋ねたとき、ブラウンは「私はダンサーだ」とだけ返答した(Brunel 1987: 70)。『トリリウム』には、飛ぶこと、空中にべったりと横になることをブラウンに促した即興的運動と即興が枠づける----パクストンがほのめかす、ジャドソン・ダンス・シアターに関連するアーティストによる作品のなかでその後より一層なじみのものとなった----単純で日常的な運動との間には緊張がある。ワクワクする新しい運動の質や考えより以上のことが問題なのである。その根底にあるのは、テーマやヴァリエーションについての慣習的な構成上の工夫からすれば過剰であるような知的な認識だった。ただひとつのものをべつのものに追従させるというやり方をとるフォルティの抱いた確信にレイナーが魅了されたように、ブラウンは何か新しく興味深いものを見いだそうとしたのだった、モダンダンスの古い世代がちゃんと評価しないままでいた題材を構造化するやり方にノーと言うことなく。
 トリシャ・ブラウンは、ビデオ収録のインタビューで、1962年にコネチカット大学でのアメリカン・ダンス・フェスティバルで得た、『トリリウム』に関連する経験について語っている(Brown 1996)。これは彼女がそのフェスティバルに最初に行ったときのことではない。 ハルプリンの夏期ワークショップを取り、さらにこの頃ロバート・ダンのコンポジションのクラスも取っていた彼女は、特別に、もう一度ルイス・ホーストのコンポジションのクラスに出るためにもどってきたのである。フェスティバルのなかで自分の振り付けをコンサートにおいて上演するためのオーディションがあったとき、その夏のはじめに初演していた『トリリウム』を申請した。審査員たちはそれを全員一致で拒絶したが、オーディションに参加していた学生たちの何人かもそれが受領される誓願に不満を漏らしまたそれについてふれ回った。『トリリウム』にはシモーネ・フォルティが録音した音響がついていた。彼女は、背景音のドローンとして掃除機を用いつつ多数のピッチで歌った。(フォルティはそのとき、ラ・モンテ・ヤングの音楽グループ「ザ・シアター・オブ・エターナル・ミュージック」のドローン音楽と似たような歌を歌った。)もし音楽が除かれたならこの作品を上演できると言われて、彼女はその提案を退けた。ベシー・シェーンベルクはそのとき、大学のカフェテリアでコーヒーを飲みながら、このプログラムあるいは学生の作品のなかにどうしてこの作品を入れられないのかを、ブラウンに説明をする任務が課せられていた。シェーンベルクはどのように『トリリウム』が編成されているかについての論理を理解していなかったしどんな論理もないと思いこんでいた、とブラウンは言った。自分の意見を述べようとして、シェーンベルクは、目の前で塩入れと砂糖壺をテーブル上ででたらめに配置して、あなたはこうするみたいに考えもなく物事を組み合わせてはならないと言い、テーブル上のものの配置が実際のところ興味深く見えることに気づいて止めた。ブラウンははっきりと思い出せなかったが、『トリリウム』は上演されなかった。
 ブラウンは、自分の作品について、自分のしていることがアヴァンギャルドの本性に関しての知的な仕方による考察に由来する確信をもっていた。これは、マンハッタンという都市に暮らし活動をする同じ意見のダンサーたちや美術作家の一団に帰属することに由来する確信だった。ピーター・オズボーンがこう指摘するように。
 
1960年代に突出するようになったニューヨークの芸術家世代は、大学に通学した最初の芸術家の集団だった。アート・ワールドに普及したイデオロギーである反知性主義に抗する彼らの反応----それは同時に社会の保守主義に抗する反応だった----は、奥深いものだった。(Osborne 1999: 50)

デイビスのように、シェーンベルクは『トリリウム』の危険な即興的エネルギーを察知したのだろうし、恐らく、パクストンがそうしたような、慣習的なダンスの運動の欠落を正しく認識していたのだろう。もし彼女が作品に内在する論理を認識できなかったとしても、それは、ブラウンがハルプリンやダンによって導かれていたアヴァンギャルド的な思考のプロセスや思考の仕方についての知識を欠いていたからである。「私が大いに影響を受けたのは」と、ブラウンはヘンデル・タイシャーにこう話している。「ジョン・ケージでした。どのように彼がパフォーマンスに反応しまたコンセプチュアルな考えに反応したのかに関して大いに示唆を受けたのです」(Brown 1998: 13)。ダンスに対するブラウンのより一層アヴァンギャルドで知的なアプローチによって、ダンサーとしてまた教師として長い経歴があるにもかかわらずシェーンベルクが欠いていた新しい可能性に、ブラウンは開かれることとなった。
 それにもかかわらず、ブラウンはさらに続いて『トリリウム』の中心にあったある側面を捨て去った。後にマリアンヌ・ゴールドバーグに話したように、ブラウンは『トリリウム』をあまりに主観的であけっぴろげだと感じていた。
 
私の行動を引き締めようとして、私は周りにいるすべてのひとから写真を借りたんです。私はあけっぴろげにならないようにする必要がありました。私はグループとうまく合うようにしたかった。『ルールゲーム5』(1964)や『建物の側面をひとが歩いて降りてくる』(1970)のような作品では、私は、振る舞いにおけるより創造的なフレームワークを制作した。(Goldberg 1991: 6)

 解剖学的で体腔的な身体機能についての自分の知識をブラウンが認識し展開することを可能にした、知的な背景のある開放性によって、彼女に、次々と発見する新しい運動を編成し構造化する戦略が与えられた。ブラウンの『ホームメイド』(1965)は、彼女がどのようにしてタスクに基づいたやり方で個人的な題材を開発しはじめたかを明らかにしている。この点で、ブラウンは一連の日常的動作----釣り糸を投げ、箱を計測し、電話をする----を演じてみた、その一方でかなりしっかりした16ミリフィルムの映写機が、彼女の背にくくりつけになっていて、フォルティの2番目の夫であるロバート・ホイットマンが撮影したフィルムを映写していた、ブラウンはその映像で舞台上と同じ動作を演じていた(Banes 1980: 79)。映写されたイメージはときどき彼女の背後の白いスクリーンに現れていたが、またブラウンが振り付けを上演しようと右に左に回るとそれにつれてそのイメージは上演舞台の壁中を踊ることにもなった。彼女のライヴのパフォーマンスとフィルムのなかでのパフォーマンスとの間の違いは、映写機の重さがどれほどブラウンの自由な動きを強制したかを明かしている。それ故、この作品は、ダンスのなかに含まれるリアルな努力をコンセプトとして枠づけることで、ダンスが反表現的で日常的な動作でありうることを実証したのだ。日常的な動作のパフォーマンスの根底にあるのは、身体への気づきであった。ブラウンはそれを解剖学的で体腔的な機能について理解することで知ることとなった。しかし、この作品はまた、個人的な経験によっても導かれている。ブラウンは後にこう回想している。「私は自らに、一連の含蓄深い記憶、従って、自分とは何かという点にインパクトを与える類の記憶を舞台で演じまとめ上げるよう指令を与えた。どの「記憶の束」も生きられたが、演じられなかった。そしてそのまとまりはどんな変化もなく上演された」(Brown 2003: 194)。従って、ブラウンにとってその経験は、『トリリウム』を上演する経験と同じような個人的に含蓄のあるものだった、しかし、それは、形式的で組織的なフレームワークとフォルティが「ダンス・コンストラクション」で運動の質を規定したようなコンセプチュアルな構造によって観客に媒介されたのである。

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