Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

テンションという物語

2007年08月07日 | Weblog
8/6
昭和な感じに映ってますが、写真は先日地引き網に行ったときのもの。一時間以上網をひっぱったあげくがこれかよって、失望の表情が切なくも可笑しい。

昨日、ジョギングを夕方にしたせいか、朝起きられず。早朝W+Rは次第に夕焼けW+Rになりつつある。朝は7時台でもう随分暑いのだ。昨日のは4キロくらいWなしでRし続けた。J-WAVEでピストン西沢のDJプレイを聴きながら。トークは笑わずにはいられないので、Rには不向き。笑いながらRできないよ。いや、どうだろう、そういえば、中学時代陸上部だった頃、ジョグの間中ギャハハ笑いながらしりとりをしていたのだった。語尾を「ま」とか「ち」とかに徹底的に絞って次の人に卑猥な単語を言わせようとしていたりして。「ま責め」とか「ち責め」と呼んでいた(くだらないっ)。

この数日、ダンスの公演がいくつかあったはずだが、いかず、いけず。

古川日出男「ハル、ハル、ハル」(『ハル、ハル、ハル』所収)を読んだ。

13才(♂)、16才(♀)、41才(♂)の名前に「ハル」が入っている3人がひょんなことからタクシーをジャックして銚子は犬吠埼へ向かうというお話。60頁強のそれほど長くない小説中で何度も出てくるのは「この物語はきみが読んできた全部の物語の続編だ」(これは小説の冒頭)といったフレーズ。「続編」なのだから(大きな、あるいは全部の)物語の失効というよりはその継続なのではあろう。冒頭には続けて「いいか、もしも物語がこの現実ってやつを写し出すとしたら。かりにそうだとしたら。そこには種別(ジャンル)なんてないんだよ」とある。それならば「現実」を写し出すことがこの全部の物語が語られた後の「続編」が目指すべきことなのだろう。

全てが語られた後の物語が現実を写す物語であろうとしている、というのはぼくとしては何やら興味が惹かれてしまうわけで、さて、と読むと、この物語には「現実」という言葉をあえて用いるほどのノイズ(軋轢)はなく、むしろたまたま合った3人の名に共通に「ハル」が隠れていることなどを筆頭とする「ひょんなこと」=ご都合主義的展開が待っているのだったりする。不調和な衝突よりもここにあるのは、ひょいひょいことがすすんでいく調和的展開、なのだけれど、そこにあるのは確かにもう物語という言葉が抱えている「変化」「成長」のごときものではなく、ただの高まったテンション、高揚感とでもいうべきものであり、それしかないのだ。古川の小説は、このテンションを物語とする。主人公の成長とか変化とかではなく、ただ高まって(そしていつか静まって)いくもの、それが小説となっている。16才のハル姉が13才晴臣に合ったとき、こんな話をする。

いい?健全な絶望は健全な肉体に宿るの。そして健全な絶望っていうのは絶望しないことなの。かわりに何をするかは知っているわね?
絶叫?
晴臣は声に出さずに問う。
あたしはまあ絶叫したりねと三葉瑠(ハル姉)は言う。それから踊るね。たっぷり踊るの。

この絶叫=テンションこそ、古川の物語なのだ。だいたい「ハル、ハル、ハル」ってタイトル、テンションそのものだ。犬吠埼に行くというのも、ようは犬の吠える岬へ行く(叫ぶ)ためなのだ。テンションしか信じる物語がないという感覚、テンションだけがリアルという感覚。最近ぼくが気になったのもそんな人たちだった、と思い返す、岩渕貞太(ダンス)とか小指値(演劇)とか。