水のない枯山水の石庭で有名な京都、龍安寺。
その龍安寺にある茶室、蔵六庵の露地に「知足の蹲踞(つくばい)」と呼ばれるものがある。
徳川光圀の寄進と言われているそうだが、一般に見るコトの出来るものは複製だという。
蹲踞は、茶室に入る前に、手や口を清めるための手水を張っておく石のコトで、上から右回りに「五・隹・疋・矢」の文字が見える。
一見、意味不明だが、水を溜めてある真ん中に位置する「口」の文字を足して読むと、それぞれ「吾・唯・足・知」となり、「吾唯足知」―「吾(われ)、唯(ただ)足るを知る」となる。
龍安寺の石庭の石は、全部で15個あるのだが、庭のどこから見ても、必ず1個は他の石に隠れて、一度に14個しか見るコトが出来ないよう設計されているという。
そのコトを不満に思わず、満足する心を持ちなさい・・という戒めだとも言われているそうだ。
「口」の字も足らないと言うより、1個あれば、仲良く分け合えばいい―この「知足の蹲踞」からは、なんだか、そんな思いも伺える。
人は、足りない部分に目は行くが、足りてるコトを思うコトは少ない。
病気になって、はじめて健康のありがたみを知るように、健康な時に、健康であるコトへの感謝の気持ちは、なかなか湧いてこないものだ。
日々、元気に生活できて、仕事もあり、贅沢は出来なくても、食うに困らず、雨風をしのぐ家もある。
傍らには愛する家族・・。
「吾、ただ足るを知る」
当たり前のコトは、当たり前ではない。
そう思える心は、とても大事だと思うのである・・。