初詣や七五三で神社に参拝し、クリスマスやハロウィンを祝い、チャペルで結婚式を挙げ、葬式は仏教・・と、外国人からすれば、日本人は少々節操がない民族に見受けられるかもしれないが、歴史や伝統を異にする宗教が接触するコトによって生ずる並存的・重層的融合のコトをシンクレティズム(Syncretism)といい、世界的に見られる現象でもある。
「習合」は、シンクレティズムの一種。
たとえば、「男はつらいよ」の寅さんが産湯をつかったコトでおなじみ、帝釈天は仏教に取り入れられたバラモン教、ヒンドゥー教の雷神・インドラであり、ゾロアスター教では魔王だという。
また、天照大神と大日如来のように、神と仏を同一視し、神道と仏教を折衷する「神仏習合」や、本体である仏が民衆を救う仮の姿となって現れたのが神であるとする「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)などがある。
より大きな観点では、キリスト教はユダヤ教を母体となして生まれたものであり、イスラム教はアラブ族の民族宗教が、ユダヤ教、キリスト教、マニ教等の要素を取り入れて、大規模な習合によって成立したと見るコトが出来るが、これもまたシンクレティズムである。
中国では儒・仏・仙(=道教)であろうが、日本では神・仏・儒、すなわち、神道、仏教、儒教が渾然一体となった思想が見られる。
宗教哲学者の鎌田東ニは、神道、仏教、儒教がそれぞれ霊の領域、心の領域、体の領域・・という役割分担で、相互に補完しているのだという。
神道が「神の道」、仏教が「仏の道」、儒教が「人の道」というコトであろうが、「神様、仏様、○○様」というように、現実に生きてる人間を神仏と並べて拝み頼む場面は、誰しも見覚えがあろう。(熱狂的な野球ファンの応援とか・・)
臨済宗の禅僧である作家、玄侑宗久はこれを”「和え物」の思想”と呼び、「日本人は、いわば古代神道の『やおよろず』という基本ソフトの上に、仏教やキリスト教、儒教や道教というアプリケーション・ソフトを開いている民族」と表現し、”言挙げせぬ”宗教で、教えを明文化しない神道の「やおよろず」にとって、仏教ソフトをインストールしないと「やおよろず」がうまく動かないという面があるとも述べている。
「和を以って貴しと為す」で有名な聖徳太子の十七条の憲法の第十条には、「人の違うことを怒らざれ」とあり、こうした日本人の宗教的寛容性こそが「やおよろず」であり、いわば「正義」を認めない考え方であり、だからこそ貴重なのであるという。
「正義」はいつも戦争の原動力となってきた。
キリスト教やイスラム教など、唯一絶対の神を信じる一神教は、自分と違う神を信じる者を認めない排他性をもつ。
そうした一神教の神と、日本の八百万の神々とはあきらかに異なる。
西洋から入ってきたキリスト教的な一神教の神様に、同じ「神」という言葉で表現したからややこしくなったのだが、「天」と言ったら 日本人にとっても唯一神の神のとらえ方になる。
「GOD」が「神」ならば、八百万の神は”八百万”の言葉のごとく、山にも川にもかまどにも便所にも、いたるトコロに神性が宿り、神様が遍在するという「SPIRIT(=霊)」ととらえた方がわかりやすいかもしれない。
日本人の自分の意思や感情を言葉にするコトをよしとしない”言挙げせぬ”民族性は、自己主張のなさや誤解を招くもととなり、外来思想の仏教など、経典に著された豊富な言語の前に、議論の上ではやすやすと屈してしまう。
しかし、その広い寛容性や包容力、言わずとも相手の心情を察する世界は、日本人の誇れる特性であろう。
そうした日本人の、異なるものをも受け入れる全肯定の八百万の思想の象徴とも言えるのが七福神である。
神道、仏教、道教・・といろんな宗教の神様と人(禅僧)までが一緒に1つの舟に乗り込んでいるワケで、あの宝船は日本人の宗教的無節操の極みであると同時に、異なる宗教が混在し、同居する宗教的寛容性の極みでもある。
実は広島にもニ葉山山麓七福神めぐりという新名所?がある。
それはまたの機会に・・。