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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

やおよろず―日本人の宗教的寛容性

2010年03月08日 | 歴史・民俗

初詣七五三で神社に参拝し、クリスマスハロウィンを祝い、チャペルで結婚式を挙げ、葬式は仏教・・と、外国人からすれば、日本人は少々節操がない民族に見受けられるかもしれないが、歴史や伝統を異にする宗教が接触するコトによって生ずる並存的・重層的融合のコトをシンクレティズム(Syncretism)といい、世界的に見られる現象でもある。

「習合」は、シンクレティズムの一種。

たとえば、「男はつらいよ」寅さんが産湯をつかったコトでおなじみ、帝釈天仏教に取り入れられたバラモン教ヒンドゥー教の雷神・インドラであり、ゾロアスター教では魔王だという。

また、天照大神大日如来のように、神と仏を同一視し、神道と仏教を折衷する「神仏習合」や、本体である仏が民衆を救う仮の姿となって現れたのが神であるとする「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)などがある。

より大きな観点では、キリスト教ユダヤ教を母体となして生まれたものであり、イスラム教はアラブ族の民族宗教が、ユダヤ教、キリスト教、マニ教等の要素を取り入れて、大規模な習合によって成立したと見るコトが出来るが、これもまたシンクレティズムである。

 

中国では儒・仏・仙(=道教)であろうが、日本では神・仏・儒、すなわち、神道仏教儒教が渾然一体となった思想が見られる。

宗教哲学者鎌田東ニは、神道、仏教、儒教がそれぞれ霊の領域、心の領域、体の領域・・という役割分担で、相互に補完しているのだという。

神道が「神の道」、仏教が「仏の道」、儒教が「人の道」というコトであろうが、「神様、仏様、○○様」というように、現実に生きてる人間を神仏と並べて拝み頼む場面は、誰しも見覚えがあろう。(熱狂的な野球ファンの応援とか・・

 

臨済宗禅僧である作家、玄侑宗久はこれを”「和え物」の思想”と呼び、「日本人は、いわば古代神道の『やおよろず』という基本ソフトの上に、仏教やキリスト教、儒教や道教というアプリケーション・ソフトを開いている民族」と表現し、”言挙げせぬ”宗教で、教えを明文化しない神道の「やおよろず」にとって、仏教ソフトをインストールしないと「やおよろず」がうまく動かないという面があるとも述べている。

「和を以って貴しと為す」で有名な聖徳太子十七条の憲法の第十条には、「人の違うことを怒らざれ」とあり、こうした日本人の宗教的寛容性こそが「やおよろず」であり、いわば「正義」を認めない考え方であり、だからこそ貴重なのであるという。

「正義」はいつも戦争の原動力となってきた。

キリスト教やイスラム教など、唯一絶対の神を信じる一神教は、自分と違う神を信じる者を認めない排他性をもつ。

 

そうした一神教の神と、日本の八百万の神々とはあきらかに異なる。

西洋から入ってきたキリスト教的な一神教の神様に、同じ「神」という言葉で表現したからややこしくなったのだが、「天」と言ったら 日本人にとっても唯一神の神のとらえ方になる。

「GOD」が「神」ならば、八百万の神は”八百万”の言葉のごとく、山にも川にもかまどにも便所にも、いたるトコロに神性が宿り、神様が遍在するという「SPIRIT(=霊)」ととらえた方がわかりやすいかもしれない。

 

日本人の自分の意思や感情を言葉にするコトをよしとしない”言挙げせぬ”民族性は、自己主張のなさや誤解を招くもととなり、外来思想の仏教など、経典に著された豊富な言語の前に、議論の上ではやすやすと屈してしまう。

しかし、その広い寛容性や包容力、言わずとも相手の心情を察する世界は、日本人の誇れる特性であろう。


 

そうした日本人の、異なるものをも受け入れる全肯定の八百万の思想の象徴とも言えるのが七福神である。

神道、仏教、道教・・といろんな宗教の神様と人(禅僧)までが一緒に1つの舟に乗り込んでいるワケで、あの宝船は日本人の宗教的無節操の極みであると同時に、異なる宗教が混在し、同居する宗教的寛容性の極みでもある。


 

実は広島にもニ葉山山麓七福神めぐりという新名所?がある。

それはまたの機会に・・。



 

 


恵方巻き

2010年02月03日 | 歴史・民俗

今日は節分。

豆まきとともに、最近、恵方巻きを食べる・・というのがだいぶ浸透して来ているようだ。

節分の夜に、その年の恵方に向かって願い事を思い浮かべながら、目を閉じて一言も喋らず、太巻きを丸かじりするのが習わしとされている。

 

先日も関東に住む友人からメールで、「恵方巻きって西日本発祥の習慣じゃないの?」と聞かれ、なんとも答えに詰まってしまった。

確かに子どもの頃、大阪に住んでいたが、「丸かぶり寿司」とかいって、こんな巻き寿司を食った・・みたいな記憶もなきにしもあらず・・。

なにせ、ずい分昔のコトなので、その辺の記憶も曖昧だ。

 

しかし、ここまで全国的に広がって来ると、バレンタインデーのチョコと一緒で、スーパーやコンビニの企業戦略としか、その起源が求められなくなるのではないか?

―そんな危惧もあり、いろいろ調べてみたが、くわしいコトはわからない。

どうやら近畿地方発祥の習慣のようだが、栃木県の神社で節分祭の参列者に振る舞われる「夢福巻き寿司」という太巻きがあり、それが起源ではないか?・・とWikipediaにも出ているが、その出典もあきらかではないようだし、第一、栃木は関東・・。

その神社では、境内に風水の方位盤の上に建つ「福巻寿司発祥の地」の石碑があるそうだ。

 

太巻きを鬼の金棒に見立てて「邪気を祓う」というイミに加え、切らずに長いままの太巻きを食べることで「縁を切らない」、「福を巻く」というイミも含まれ、祓鬼来福の祈念を行うものとされ、 他にも七福神にちなんで、7種類の具を入れるコトで福を食べる・・という説もあるとか・・。

 

まあ、なんにしろ、日本人はこーゆーの好きよねえ・・ 。

 

ちなみに今年の恵方は西南西だそうでーす。


三足烏と八咫烏

2010年01月13日 | 歴史・民俗

先日も紹介した韓国ドラマ、「朱蒙」。(カテゴリー/映画・ドラマ:「朱蒙」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/ac76456473ec6cca5c592ca49ca28057

そのオープニングで、いつも見られる「三足烏」(サムジョゴ)の紋章。

高句麗を建国した朱蒙を象徴する鳥として、後に高句麗の国旗となり、劇中にもたびたび登場する。

 

その名の通り、三本足の烏である。

三本足の鳥の神話は世界中に広がっており、ギリシャ神話の太陽神・アポロンの烏も三本足だとか。

星座のからす座のカラスはこの烏とされ、古い星座絵図の中には3本足で描かれているものもあるそうだ。

もともと白かったが、後にアポロンの怒りを買い、黒くなったという。

 

このように太陽と関連付けられている場合が多く、黒い烏は太陽の黒点を表しているという説もあるそうだ。

『准南子』に昔、東海の扶桑の神樹に10羽の三足烏が住んでいた・・という記述があり、この10羽の烏が順番に空に上がり、口から火を吐き出すと太陽になるという。

中国の三足烏は太陽そのものの象徴であったという。

高句麗では天孫の象徴であるとされ、古墳壁画にも三足烏が描かれている。

 

しかし、三本足の烏といえば、思い出されるのが日本の記紀神話にも出てくる八咫烏(ヤタガラス)

日本サッカー協会のシンボルマークとして、日本代表のユニフォームにデザインされてるのも、この八咫烏である 

実際、記紀には八咫烏が三本足だという記述はどこにもないのだが、中国の陰陽説によると、数にも陰(偶数)と陽(奇数)があり、太陽と関係の深い烏の足の数を陽にするために三本にした・・という説があるそう。


 

『新撰姓氏録では、八咫烏はカミムスビの曾孫である賀茂建角身命(かもたけつのみのみこと)の化身であり、その後、鴨県主(かものあがたぬし)の祖となったとされる。

神武東征の際に、タカミムスビによって神武天皇の元に遣わされ、熊野国から大和国への道案内をしたとされる。

この八咫烏、神武天皇の道案内をしたというコトで、塩土老翁(しおつつのおじ)に比定されたりもするようだが・・。(カテゴリー/歴史・民俗:「浦島太郎と塩土老翁」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/01b1563c5791890c16f75bb3c4205c8d

・・となると、この八咫烏!

 

―て、またややこしいのでこの辺で・・。

高句麗を建国した朱蒙の息子、沸流(ビリュ)と温祚(オンジョ)が百済を建国し、高句麗の象徴である三足烏が当時、百済との交流が活発だった日本にも伝わったのではないか?・・という説もあるそうだが・・。

ちなみにドラマの設定では、沸流と温祚は朱蒙の実子ではない。

 

まあ、要するに、こんなドラマを見てても、韓半島と日本の関係の密接さを感じてしまうとゆーコト。

 

そういや、「三種の神器」てのもあったなあ・・。

むこうは弓と鎧と鏡、日本なら剣と勾玉と鏡になるのだろーが、当たり前のコトながら、似てるよなあ・・。

 


イエスの扱い方

2009年12月25日 | 歴史・民俗

中東は「世界の火薬庫」といわれている。

その歴史をひも解いても、大国の利権が複雑にからみ合い、またエルサレムユダヤ教キリスト教イスラム教の3つの宗教の聖地と、問題解決は容易なコトではない。

しかし、もともとこの3つの宗教は、同じ唯一なる神を信じる一神教であり、聖書を聖典とし、アブラハムを信仰の祖とする「アブラハムの宗教」アブラハミック・リリージョンと呼ばれる、いわば、同じ親をもつ兄弟宗教なのだ。

そもそも、宗教は愛と平和を説くものであり、隣人愛を奨励する。

では、何がここまで、この3つの宗教の兄弟仲をこじらせてしまったのか?

 

その根本に、イエス・キリストの扱い方の違いがある。 

 

当然、キリスト教はイエスを救い主として崇め、三位一体論によれば、父なる神と、子なるイエス・キリストと、聖霊とは1つ―すなわち、イエス=神なのである。

 

しかし、ユダヤ教にとってイエスはどんな存在だったか?

神の選民として神から賜った律法を守り、預言のごとく救世主が現れるのを待っていたが、彼らが待ち望んでいた救世主のイメージと、実際に来られたイエスの姿はあまりにもかけ離れていた。

政治的な解放者、軍事的指導者としてのメシヤを求めていたユダヤ民族にとって、彼らが命のごとく守ってきた律法を破り、安息日に癒しの業を行うイエスは、とても当時の彼らの常識からは考えられない、常軌を逸した異常者、”偽メシヤ”であり、いわば、社会秩序を脅かす存在であった。

そして、十字架につけて殺してしまった。

 

キリスト教にとって、来られた救世主であり、神であるイエスを殺したユダヤ民族は許せない存在である。

ローマ・カトリックの総本山、バチカンが第2次大戦中、600万人(!)ともいわれるアウシュビッツホロコーストといったナチス・ドイツによるユダヤ民族の大量虐殺を黙過したのは、彼らが信じる神なるイエスを殺した民族だからに他ならない。

 

イエスの十字架によって罪が贖われたという信仰をもつクリスチャンにとって、イエスの十字架の死は必然であり、その使命を果たすために地上に来られた・・という認識であるはずにもかかわらず、その”手助け”をした民族を許せない・・というのは、キリスト教の救済観からすれば、おかしなコトであるし、何より「汝の敵を愛せよ」というイエスの教えに反する。

とはいえ、ここにユダヤ教とキリスト教の対立の根っこがある。

クリスチャンの信じる”イエスの十字架の死”ゆえにである。

 

イスラム教にとっては、イエス(イーサー)は預言者の1人にすぎない。

当然、イエスは神ではなく、人間であるという認識に立つ。

イスラム教以前のユダヤ教、キリスト教は不完全で劣った宗教であり、神が人類に遣わした最後にして最高の預言者、マホメット(ムハンマド)が語った内容をまとめたコーラン(クルアーン)神の言葉そのもので、最も真正な啓典であるとされ、人類にとって最も正しい信仰の拠り所になると信じられている。

そうした一神教の欠点である排他性が色濃く現れたイスラム原理主義など、過激なテロがひきおこした惨事は既にご存知の通り。

しかし、それはキリスト教国家にしても同様である。

まして、自分たちが神と信じるイエスを、単なる預言者として人間の位置に貶める宗教を、クリスチャンたちがこころよく思うはずがない。

イスラムにとっても、十字架に象徴される十字軍に苦しめられてきた歴史があり、キリスト教とは因縁浅からぬものがある。 

 

イエスの十字架の死が、人類の救いになるどころか、今もメシヤを殺された恨みの象徴となり、争いの火種になるのだとしたら、まずクリスチャンは、その”十字架”をなくしてしまう必要があるのではないだろうか?

 

イエスにとって、自分が神と崇められよーが、人間と見られよーが、そんなコトは重要ではないと思っているに違いない。

そんなコトより、自分を信じるクリスチャンや、同じ神を信じる兄弟たちが争い、殺し合うのを見るイエスの悲しみは、いかばかりであろうか?・・と思うのである。

 

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)

 

 

 

 

 

 

 

 


12月8日

2009年12月08日 | 歴史・民俗

ここ広島にいると8月15日、そして、とりわけ8月6日が取り沙汰されるコトが多い。

しかし、今日、12月8日がどんな日かを知る人は少ないように思う。

 

今から68年前の今日、日本の機動部隊がハワイ・オアフ島真珠湾にある米軍基地を奇襲攻撃し、3年6ヶ月に及ぶ太平洋戦争に突入した。

1941年12月8日午前3時19分、現地時間で7日の午前7時49分のコトである。

 

「開戦記念日」という言い方もあるようだが、いかがなものか・・?

 

70年近く前のコトとはいえ、日本がアメリカに対して戦争を仕掛けた・・という歴史上の事実があるコトは、戦後世代の我々には、にわかには信じがたい。

今の若い世代の人たちなら、なおさらのコトだろう。

 

12月2日に大本営より、「日本時間12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」を意味する暗号電報「ニイタカヤマノボレ1208」が発信され、真珠湾攻撃がなされた。

碇泊していた戦艦8隻のうちアリゾナオクラホマ等4隻が撃沈、3隻が大破、1隻が中破、加えて航空機231機を破壊して、攻撃の成功を告げる「トラ・トラ・トラ」という暗号文が打電された。

12月1日の御前会議で、対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うべきと決定されており、ワシントンで交渉していた野村来栖両大使がアメリカ側に最後通牒を手渡してから攻撃を開始するはずであったが、最後通牒の文書の作成に時間がかかり、事実上、”奇襲攻撃”となってしまった。

この事実は米政府によってプロパガンダに利用され、以降、太平洋戦争中、アメリカにとって「リメンバー・パールハーバー」は卑劣な手を使った日本人に対する戦意高揚のスローガンとなった。

 

アメリカは日本の真珠湾攻撃を事前に察知しており、戦争の口実として利用したという陰謀説もあり、その真偽のほどはわからないが、「日本が戦争をはじめた」というのは紛れもない事実である。

 

よく現行の憲法は戦後の占領統治下にアメリカから押し付けられたものだという意見や、日本はアメリカの属国だ・・はなはだしきは、8月6日に、わざわざ広島で「日本も核武装すべきだ!」・・などという過激な自説を述べる不逞の輩がいたり・・。

 

戦争を永久に放棄する日本の平和憲法は、世界に誇れるものである。

 

そもそも、日本は”戦争をふっかけて負けた国”なのである。

本来なら戦後はアメリカ、イギリス、中国、ソ連・・と4分割統治されていたかもしれないのだ。

しかし、実際には日本が戦後、分割統治されずに1つの「国」として存在しえたのは、民主主義陣営に取り込まれ、アメリカの同盟国として共に歩んで来たからこそである。

日米同盟は、日本が「国」として体をなす為の1つの”要”なのである。

 

実際、米軍基地の移転が云々されるが、日本から基地がなくなったら大変なのだ。

ウチの奥さんのおじさんも岩国の基地で働いてるが、あんな田舎で基地がなくなったら、働き口が無くて困るってもんである。

ましてこの不景気・・。

 

天皇制自体も、戦後、来るべき中・ソ共産主義勢力との戦いの防波堤とすべく残されたという。 

事実、戦後すぐの1950年に、おとなり韓半島では朝鮮戦争がおこり、民主・共産両陣営が2つに分かれて戦い、現在に至るまで、この地球上で唯一残された分断国家として存在し続けている。

民主・共産両陣営が対峙するこの韓半島と、宗教対立の続く中東に、世界平和に至る最後の課題が象徴的に現れ、凝縮されているといっても過言ではないだろう。

 

戦後、韓半島は38度線で国土が真っ二つに分断され、今なお同じ民族同士、家族同士が自由に行き来して会うコトもできないまま、半世紀以上も睨み合っている。

 

その韓国の代わりに、日本がそうなっていたかもしれないのである・・。

―簡単にいうと、同じ日本人でありながら、四国や九州、北海道にいる親戚や兄弟、おじいちゃん、おばあちゃんに会えない・・そんなコトになっていたかもしれないとゆーコトだ。

そして、それが韓半島の現状なのだ。

 

北朝鮮みたいな国に住みたいと思う日本人がいたら、ぜひ教えて欲しいもんだ・・。

 

実は今また、日本がそーゆー危機に瀕している。

実際、この不景気である。

日本の経済状況はちょっと見通しが立たないくらい大変である。

そんな中、猛威を振るっているのが中国経済である。

完全な共産党の一党独裁国家でありながら、自由経済を導入し、世界最大13億の人口、すなわち市場を誇る手に負えないドラゴンだ。 

 

今、この広島をはじめ、中四国一帯の企業も、かなりの中国資本が進出し、次々と買収してるという。

全国的にはもっとなのかもしれない・・。

 

実体は1つの「国」のように見える日本かもしれないが、経済的には中国に牛耳られ、実質、水面下では終戦直後の日本のように、分断される危険性が潜んでいるのではないか・・?

 

どうやら、マジで、そんな危惧を抱かずにはいられない状況のようだ・・。


えびす様とは?

2009年11月20日 | 歴史・民俗

今年もえびす講「えべっさん」の季節がやってきた。(カテゴリー/広島のオススメ!:「えびす講」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/15150f1c292dbd5543dd43beb5c23ede) 

毎年11月20日まで行われるが、よく言われるように、今年もこのえびす講にあわせるように急に冷え込んで、冬の訪れを感じさせる寒さとなった。

 

えびす講の時には胡子神社の前に大きな賽銭樽がおかれる。

 

ところで、えびす講の「えびす」は胡子神社なので「胡子」と表記されるが、実際には「胡」1文字でも「えびす」と読む。

他にも「恵比寿」「恵比須」「衣毘須」「夷」「戎」「蛭子」・・などの字も当てられる。

 

「夷」や「戎」などの漢字が当てられるのは、地方のまつろわぬ者や東国の民を「えみし」や「えびす」と呼んで「夷」や「戎」の字を当てたのと同じで、異邦の外来神、蕃神を意味するそうだ

「えびす」という名の神様の文献上の初出は、平安時代後期の『伊呂波字類抄』「夷毘沙門」とあり、少し時代が下った『諸社禁忌』には「衣毘須不動」と記されているように、古い時代、えびすは毘沙門天不動明王を本地仏とする神格として信仰されていたのだとか。

えびすの神像も、古い時代のものほど威厳に満ちたものとなっており、もともとは荒々しい神、荒ぶる神として信仰されていたものと見られる。

 

えびす様といえば、エビスビールのマークでもおなじみ、福耳の神様で、「えびす顔」という言葉もあるように、ふくよかで福々しい笑顔をたたえた姿を思い浮かべるので、実に意外だ。

 

また「蛭子」の字が当てられているように、イザナギイザナミの子である蛭子命(ひるこのみこと)に比定されるコトもある。

もしくは大黒さま」でおなじみ、大国主命の子である事代主命とされるコトも多く、少彦名命彦火火出見尊とするコトもあるようだ。

 

えびすが蛭子命や事代主命に結び付けられたのは、どちらも水に関連した神様だからで、記紀神話において、蛭子命は3歳になっても足が立たなかったため、流し捨てられたとされる。

その神話を受けて、流された蛭子命はどこかの地に漂着したという信仰が生まれ、海からやってくる姿が海の神であるえびすと重なり、同じ神だとされるようになったという。

えびすのコトを夷三郎と呼ぶのは、『日本書紀』において、3番目に生まれたコトに由来するのだとか。

 

また、事代主命とされるのは記紀の国譲りの項で、天津神からの国譲りの要請を受諾するかどうかを大国主の使者が事代主に聞きに訪ねたとき、事代主は海で釣りをしていたとされ、その姿と海の神のえびすとが結びついたため。

七福神の絵で、えびすが釣竿をもち、鯛を抱えた姿で描かれるのは、この事代主神の話に基づくものだそうだ。

えびすと大黒は親子とも言われるのも、事代主命の父親である大国主命が大黒天と習合したコトによるのだとか。

 

釣竿をもち、大きな鯛を抱える姿から、海と漁業の神とわかるが、大漁を祈願する信仰が転じて商売繁盛の神様となり、平安時代後期には、えびすを市場の神市神として祀ったという記録があるそうだ。

同時に福の神としても信仰されるようになり、やがて七福神の1柱として数えられるようになっていく。

 

ちなみに、えびす神は一般的に耳が遠いとされており、そのため神社正面だけで参拝するのではなく、本殿の裏側にまわり、そこにあるドラを叩いて願い事をしなくてはならないのだとか・・。

今宮戎神社など、えびす様を祀る本殿の裏にはドラが用意されているのだそうだ。

 

広島の胡子神社はデパートの間に埋まっており、裏に回りようがなく、ドラもおそらくないのではないかと思われる。

 

耳が遠いのに、広島のえびす様はドラもなく、聞く耳ももってない・・。

こりゃあ、まだまだ、不景気は続くかな・・。

 


いろは丸事件

2009年11月18日 | 歴史・民俗

先日、坂本龍馬のコトを書いたが、好きなコトだと思いがけずペン(キーボード?)が進んでしまうものだ。

ついつい調子にのってたら、前回しようと思ってたこの話が書けず仕舞いになってしまった。

 

会社設立新婚旅行など、”日本初”といわれるコトを龍馬が多く成しているのはよく知られている。

しかし、その中にはちょっと不名誉なものもある。

日本最初の蒸気船同士の事故といわれる、この「いろは丸事件」である。

 

事件が起きたのは慶応3(1867)年4月23日、 現在の広島県福山市沖16kmの瀬戸内海でのコト。

瀬戸内海は古代から重要な水路として、「海のハイウェイ」として流通における大きな役割を果たしてきた。

 

夜11時頃、海援隊の船、いろは丸は土佐から大阪へ積荷を運ぶ途中、徳川御三家・紀州藩明光丸と衝突。

160tのいろは丸の横っ腹に突っ込んで来た明光丸は880t、いろは丸はひとたまりもなく海へ沈んでいった。

 

事件からおよそ20日後、5月15日から長崎にて賠償交渉がもたれるコトとなるも、双方の主張は真っ向から対立、交渉は長期戦に。

国際的な航海ルールに則って交渉を進める龍馬たち海援隊に対し、事件の早期解決を図る紀州藩は長崎奉行所に裁きを下すよう動こうとした。

 

8代将軍・吉宗14代将軍・家茂の2人の将軍を出している徳川御三家の1つ、名門・紀州藩に対し、海援隊は土佐藩の後ろ楯があるとはいえ、浪人集団。

幕府の機関である長崎奉行所に裁きが委ねられれば、海援隊にとって圧倒的に不利になるコトは目に見えていた。

 

しかし、窮地に追い込まれた海援隊のとった巻き返しの策が、

「さすがは龍馬!

・・と、思わず舌を巻くよーな奇抜なものであった。

 

それは、長崎の花街・丸山で、こんな唄を流行らせたのだ。

 

船を~沈~めた~ そのつぐな~いは~ 

  金を~取らず~に~ 国~を取る~

 

―当時の長崎、丸山は全国各藩から人々が集う、いわば情報交換の場。

龍馬は紀州藩を揶揄する唄を流行らせるコトで、天下の大藩が浪人相手にてこずっている・・というイメージを民衆に植えつけ、世論操作を行ったのだ。

 

「武士は食わねど高楊枝」という言葉もあるが、不名誉を被った紀州藩は逆に追い詰められ、土佐藩後藤象二郎(この後藤は龍馬の盟友・武市半平太を切腹に追い込んだ怨讐でもあった)の介入もあり、ついに海援隊に賠償を申し出た。

 

 

龍馬は当時考えうる最高のメディア戦略で、破格な賠償金を勝ち取ったのである。

その額は船と積荷をあわせて8万両、現在の金額で30億円(!)ともいわれている。

 

一介の浪人たちが大藩を相手取り、見事な情報戦略で勝利したのだ!!

実に痛快!!

 

我々もマスコミの根拠のない情報に惑わされないよう、注意しないとね・・。

 

―ちなみに、それだけの巨額の賠償金を勝ち得たのは、龍馬たちが積荷の中には武器の他、4万両分の金が含まれていた!・・と主張したからだそうだが、現在、瀬戸内海で発見されたいろは丸からは、金どころか武器さえも見つかっていないという・・。(笑)

 

やってくれるね、龍馬・・。

 

 


浦島太郎と塩土老翁

2009年08月19日 | 歴史・民俗

「浦島太郎」といえば、日本人なら知らぬ者はない有名な昔話。

今さらそのストーリーを紹介するまでもないだろう。

丹後半島に伝わる伝説がベースとなっているようだが、神奈川や長野、鹿児島、沖縄などの日本各地に話が伝わっており、全国40カ所ぐらいに伝説が残っているという。

 

現在伝わる話の型が定まったのは、室町時代に成立した『御伽草子』によるものだそうだ。

”亀の恩返し”というモチーフを取るようになったのも『御伽草子』以降のことで、「乙姫」、「竜宮城」、「玉手箱」が登場するのもこの頃であったという。

そもそも「浦島太郎」という名前自体、中世から登場し、それ以前は「水江浦嶼(嶋)子」(みずのえのうらしまこ)を略して「浦島子」と呼ばれている。

 

その浦島子の物語は、現存する文献上最古のもので、『日本書紀』「雄略廿二二十二)年条」に存在し、船で釣りあげた亀が乙女となり、ともに蓬莱山へ行った・・という発端部分のみが記され、最後は「語在別卷」と締め括られている。

「この後の話は別巻で・・」というコトだが、「別巻」とは『風土記』を指すともいわれている。

その『丹後国風土記』逸文に、「筒川嶼子 水江浦嶼子」という項目の浦島子の記述があり、『万葉集』巻九にも高橋虫麻呂作の長歌(歌番号1740)に「詠水江浦嶋子一首」として、浦島太郎の原型というべき内容が詠われている。

 

ちなみに、「記紀」には浦島太郎と似た話で、海幸・山幸神話がある。

天皇の祖神、彦火火出見尊(山幸彦=猟師)が、兄の火照彦(海幸彦=漁師)の釣り竿と弓矢をとりかえて、魚を釣りに出たが、釣針を失い、探し求めるために塩椎神(しおつちのかみ)=塩土老翁(しおつつのおじ)という神に、無目籠(まなしかたま)というカゴに乗せられ、海神の宮(わだつみのみや)に導かれ、海神の娘、豊玉姫と結婚して3年間暮らし、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・潮乾珠(しおひのたま)を得て生まれ故郷に戻り、兄を屈服させる・・というのが、その大筋の話である。

 

この話、ちょっと聖書のエサウヤコブの兄弟の話にも似ている・・。

父・イサクの祝福を騙して奪ったヤコブは、ハランの地で妻子と財物を得て生まれ故郷に戻り、兄・エサウを屈服、「イスラエル」の名を賜り、イスラエル選民の祖となる。

なぜ、祝福を騙して奪うような人物が選民の祖となりえたのか?・・というのもナゾだが、閑話休題・・。

 

また、山幸彦の孫の初代・神武天皇がヤマトに向かう、いわゆる「神武東征」の際、に乗り、釣竿を持った男が水先案内人になる・・という話もある。

この男がヤマト建国の第一の功労者として、倭宿禰(やまとのすくね)の称号を賜ったという。

倭宿禰は尾張の国とつながりの深い海部氏の祖だという。 

しかし、この亀に乗った男、どっからどー見ても浦島太郎である・・。 

 

要するに、この浦島太郎のモデルとなったとされる人物こそ、塩土老翁なのである。

 

先に出た『万葉集』に「墨吉」(すみのえ)との記述があり、これは現在の大阪住吉のコト。

ここに住吉大社が祀られており、住吉神の三柱の祭神、表筒男命(うわつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、底筒男命(そこつつのおのみこと)は、一柱では「塩土老翁」の別名で呼ばれる・・というコトは以前にもふれた。(カテゴリー/広島のオススメ!:「住吉祭」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/74e8f95f18d8acc73093152d2decec40 

住吉神も塩土老翁も航海・先導の神であり、塩土老翁の「つつ」は住吉神の「筒男」(つつのお)の「つつ」に通じ、さらに浦島太郎も『風土記』に「筒川」の出身とあり、筒川の男=「筒男」となる。

言うまでもなく、三者とも海と深い関わりがある。 

 

塩土老翁は大変長命であったとされ、そのモデルとされる武内宿禰(たけのうちのすくね)も大変に長生きで、老人になった浦島太郎のイメージとも重なる。

武内宿禰は古代豪族、蘇我氏の祖とされ、15代・応神天皇の母、神功皇后の忠臣で、応神天皇の東征を導いたともされる。

 

よって、浦島太郎=塩土老翁=住吉神=武内宿禰・・? 

 

・・というのが、このブログでもちょいちょい紹介している歴史作家、関裕二の説である。

ややこしいコトこの上ない・・。

 

しかし、このややこしさにはワケがある。

神武東征にも関わったと思しき記述が「記紀」にある塩土老翁は、ヤマト建国に大きな功績を残しているはずであるが、出自不明のナゾの人物で、巧みにその正体が隠されている。

それでいて、『風土記』や『万葉集』など、古文書のことごとくが浦島に饒舌なトコロを見れば、たとえその話が物語的でも、単なる架空の人物ではなく、確実に何らかの実在性を示唆している。

 

もともと「記紀」は、藤原不比等が天皇を利用し、藤原一族がその権力の正当性の拠り所とするために編纂したもので、敵対する勢力の功績は極力排除したい・・という思惑がある。

しかし、無視できないほどの影響力があり、記述せざるえない場合、さまざまな別名で記すコトで、その功績を無きものにしようとするのは、記紀神話の隠蔽工作における常套手段であるという。

 

そして、この浦島太郎は塩土老翁であり、蘇我氏の祖である武内宿禰でもあるというが、蘇我氏といえば、「大化の改新」中大兄皇子中臣鎌足に滅ぼされた極悪人・・というイメージなのだが、事実はそうではないらしい。

ちなみにこの中臣鎌足の息子こそが、藤原不比等なのである・・。

 

古代史、特に邪馬台国からヤマト建国に至る経緯と天皇制成立の過程は陰謀とナゾだらけで、「記紀」編纂によって神話の中に封じ込めようとされた蘇我氏のような勢力や人物が確実に存在した。

その辺りのナゾを、非常に興味深い説で解き明かした著書を多く出しているのが関裕二なのである。

 

また機会があれば、その辺の話も紹介したい・・。

 


盆踊り

2009年08月04日 | 歴史・民俗

今日はウチの前の白島中町公園盆踊りがあった。

昨晩から今朝にかけて、激しく雨が降っていたので、今日はもうないかなあ・・と思っていたが、午前中にはキレイに雨もあがり、ムチャクチャいい天気に。

 

盆踊りとは、元々は仏教行事で、平安時代、空也上人によって始められた念仏踊り蘭盆(うらぼん)、いわゆる「お盆」の行事と結びつき、精霊を迎え、死者を供養するための行事・・という意識になっていったそうだ。

 

孟蘭盆の由来であるが、それまで個々に活動していた僧侶たちが一定期間、一カ所に集まって集団で修行するコトを安居(あんご)というが、その最後の日である旧暦の7月15日を盂蘭盆といい、父母や祖霊を供養し、「倒懸(とうけん)の苦を救う」という行事で、『孟蘭盆経『報恩奉盆経』などに説かれる目連尊者の餓鬼道に堕ちた亡母への供養の伝説によるという

その話とは・・

<安居の最中、神通第一の目連尊者が亡くなった母親の姿を探すと、餓鬼道に堕ちているのを見つけた。喉は渇き飢えていたので、水や食べ物を差し出したが、口に入る直前にことごとく炎となって、母親の口には入らなかった。

憐れに思って、釈尊に話して方法を問うと、

「安居の最後の日に、すべての比丘(びく=僧)に食べ物を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」

と答えた。

その通りに実行して、比丘のすべてに布施を行い、比丘たちは飲んだり食べたり踊ったり大喜びをした。すると、その喜びが餓鬼道に堕ちている者たちにも伝わり、母親の口にも入った。>

・・というもの。

この盂蘭盆会(うらぼんえ)の拠り所としている『孟蘭盆経』は、中国で成立した偽経であると考えられており、本来は安居の終った日に、人々が衆僧に飲食などの供養をした行事が転じて祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法、「施餓鬼」となっていき、それに儒教「孝」の倫理の影響を受けて成立した、目連尊者の亡母の救いのための衆僧供養という伝説が付け加えられ、習合していったのでないか?・・という。

 

盂蘭盆は、サンスクリット語「ウランバナ」(ullambana)の音写語で、古くは「烏藍婆拏」「烏藍婆那」と音写されたそうだ。

この「ウランバナ」は「ウド、ランブ」(ud-lamb)の意味があると言われ、倒懸(さかさにかかる)という意味だそうだ。

 

近年、古代イランの言葉で「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)が語源だとする説があるそうで、サンスクリット語の起源から考えるとその可能性は高く、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったのだとか。

 

古代イランのゾロアスター教では、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在のコトを「フラワシ」(Fravaši)というそうだが、この「フラワシ」は人間にも宿っており、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだそう。

このフラワシ信仰が祖霊信仰と結びつき、「祖霊」を迎え入れて祀る宗教行事が行われていたというから、古代のイラン→インド→中国→日本・・と、はるかユーラシア大陸を旅してきた行事がお盆・・というコトになろうか・・?

 

さまざまな検証も必要だろうが、似たような風俗は世界各地に見られるようだ。

 

室町時代の初めには太鼓などをたたいて踊るようになったといわれ、 現在も初盆の供養を目的とした盆踊りも、地域によっては催されているようだ。

 

広島では原爆死没者の慰霊という意味合いが大きいようで、盆踊りの前には黙祷を捧げていた。

 

それにしてもこのポスターのデザイン、もうちょっと、なんとかならんかったのだろーか・・?

 

おどろおどろしすぎて、かなりコワイ・・。


「いなり」の語源

2009年06月26日 | 歴史・民俗

さて、前回「お稲荷さんの起源」という記事を書いたが、その続き。(カテゴリー/歴史・民族:「お稲荷さんの起源」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/85648247c32677a136d729513e24eac0

中近東に発祥した景教(アッシリア東方基督教)の信仰をもつ秦氏が日本に渡り、彼らが信じる神を祀る社として立てたのが稲荷さんのはじまりだという。

お稲荷さんはユーラシア大陸を横断するシルクロードを旅してやってきた神様というコトになる。

 

たとえば、もともとお稲荷さんのキツネは、仏教の荼枳尼天(だきにてん)から来たそうだが、荼枳尼天は仏教およびヒンドゥー教の神様で、由来はインドの女神だという。

すなわち、「荼枳尼」という名は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、インドにおいてダーキニーはジャッカルにまたがるとされていたが、中国や日本に伝わった時、ジャッカルがいないので代わりにキツネをあて、それが神道の稲荷と習合するきっかけとなったのだとか・・。

 

現在のヒンドゥー教ではダーキニーはカーリーの眷属とされ、人肉や生きた人間の心臓を食らう夜叉神となっているそうだ。

それが仏教に取り入れられると、大日如来が化身した大黒天によって調伏され、死者の心臓であれば食べるコトを許されたという説話が生まれた。

大黒天といえば、大国主命として知られる神道の神で、七福神の一柱としても知られる・・。

 

・・なんだか宗教の万博のようだが、これだけ見ても、お稲荷さんが日本に入って来るまでに、さまざまな宗教が習合していたコトが伺える。

そもそもシルクロードにはユダヤ教徒、イスラム教徒、ゾロアスター教徒やマニ教徒、仏教徒など、さまざまな人々が行き来し、当然、それとともに宗教や文化の往来もあったというワケだ。

 

そして、タイトルの「いなり」の語源であるが、「稲荷」は当て字で、日本に漢字が入ってくる以前からその音があったという。

その音の元になったのが、「INRI」という言葉ではないか?・・という説があるそうだが、では、その「INRI」とは何か?

 

江戸時代に、肥前平戸藩主、松浦静山「JINRI」という言葉について、こう記している。

「JINRI この蛮文、上野国なる多胡羊大夫の碑の傍より先年石槨を掘出だす。其内に古銅券あり。その標題の字この如し。其後或人、蛮書『コルネーキ』を閲するに、邪蘇刑に就の図ある処の、像の上に横架を画き、亦この四字を題す」(『甲子夜話』より)

 

―この「多胡(羊大夫)碑」は現在の群馬県に、和銅4年(711)に建てられた古代碑文で、その傍らの石槨(棺を入れる石造りの室)にあった古銅券に「JINRI」という言葉があったという。

この「JINRI」とは、ラテン語の”Jesus Nazarenus、Rex Iudaeorum”の頭文字をとったもので、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」の意味の略語だという。

 

すなわち、十字架にかけられたイエスの頭上にかかげられた言葉なのだ。

「JNRI」は「INRI」と表記されるコトもあり、この場合の「I」は”Iesus”の頭文字で、どちらも同じであるという。

 

中国の景教徒が通常使っていた言語はシリア語(アラム語の方言)と中国語だったが、ラテン語の使用も禁じられておらず、シルクロードを通してローマ世界と交易していたので、ラテン語の知識もあったそうだ。

日本のキリシタンは「JINRI」「INRI」という言葉を用いなかったので、景教徒によって持ち込まれたものである可能性が高い・・というのがその説だ。

 

これは最近読んだ『隠された聖書の国・日本』 (徳間書店)という、自身も景教徒でアッシリア人の祖先をもつケン・ジョセフ・シニア&ジュニアという親子共著(という形にしている)の本に書かれていたものだが、、我々日本人が単純に仏教だと思っているものに景教が与えたさまざまな影響などが書かれており、なかなか目からウロコ・・という感じでおすすめである。

いろいろ面白い話があるので、またちょっとずつそのネタも紹介できたら・・と思う。

 

「キリスト教をはじめて日本に伝えたのはフランシスコ・ザビエル

 

・・などという常識が通用しなくなる日も、そう遠くないかもね・・。