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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

沖縄戦終結の日

2009年06月23日 | 歴史・民俗

今日、6月23日は、沖縄では毎年、摩文仁(まぶに)平和祈念公園において戦没者追悼式典が行われる「慰霊の日」である。

太平洋戦争末期に、沖縄諸島に上陸した米軍と日本軍との間で行われた地上戦が終結した日が、1945年6月23日だからである。

 

沖縄戦は1945年3月26日から始まり、4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。

4月7日には戦艦「大和」が沈没。

5月22日には首里を占拠され、摩文仁に追い詰められた牛島軍司令官が自決し、64年前の今日、組織的な戦闘が終了した。

 

この戦闘は、民間人を巻き込んだ日本国内での最大規模の地上戦であり、また日米最後の大規模戦闘となった。

全戦没者は20~24万人とされ、そのうち、沖縄県の一般住民の戦没者は公式には9万4千人とされているが、15万人以上という推計もある。

沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず、正確な数は現在も不明だという。

 

―沖縄決戦の勝利により、連合軍は日本に無条件降伏を求めるポツダム宣言の受諾をせまった。

しかし、その後も抵抗をやめない日本が迎えたのが、8月6日・・。

 

沖縄は、戦後も1951年に結ばれたサンフランシスコ条約により、事実上、アメリカの統治下におかれたままであったし、日本に返還されたのは、戦後から実に27年後の1972年のコトである。

現在も沖縄県民が、沖縄県以外の日本を「本土」や「内地」、あるいは「大和」と言う慣習があるのも、無理からぬコトなのかもしれない。

 

自分は64年前の戦争は、直接的には知らない世代であるが、沖縄が返還された1972年といえば、自分が生まれた年の翌年である。

自分の友人・知人には沖縄出身の者も多く、当然、世代的にも返還前後に生まれている。

彼らが見つめる「戦争」や「戦後」も、自分とはまた違ったものなのかも・・と思わされるコトもしばしばだ。

 

暑い夏の季節になると、戦争もののドラマがテレビで流れていたり、世代によっては当時の記憶がよみがえる・・という人もあるだろう。

それは忘れてしまいたい記憶であるとともに、決して忘れてはならない、風化させてはならない記憶でもある。

 

戦争を経験した多くの人たちが亡くなって、その記憶が薄れてしまったというコトは、それだけ戦争のない平和な時代が続いているという、喜ばしいコトといえよう。

しかし、未来の平和のためにも、今の時代に生きる我々が、戦争の悲惨さ、その記憶を語り継ぐ努力を、これからも忘れてはならないだろう。

 


お稲荷さんの起源

2009年06月19日 | 歴史・民俗

自分が住んでる広島市中区白島のはずれに「白島稲荷パーク」という場所がある。

 

ちょっとした日本庭園と稲荷の総本山、京都の伏見稲荷大社をならってか、狭い間隔でたくさんの朱色の鳥居がたちならぶ。

 

 

お稲荷さんといえば、キツネのイメージだが、ここは狛犬だった。

 

以前紹介した「とうかさん」も「稲荷大明神」の「稲荷」を「とうか」と読むが、こちらは日蓮宗のお寺で福昌山円隆寺という。 

ここで疑問に思うコトであるが、お稲荷さん・・というと神社と思っていたが、はたして神道なのか?それとも仏教なのか・・?

 

全国に3万社あるといわれるお稲荷さんの頂点に立つ伏見稲荷大社は、秦(はた)氏の棟梁、秦伊呂具(はたのいろぐ)が和銅4年(711年)に創建したそうだが、その話とはこうである。

秦伊呂具がある日、餅をこねて矢を射る的にして射かけたところ、その餅は白い鳥に姿を変えて、かなたの山に飛び去ったという。

白い鳥が舞い降りた峰には稲がたわわに実り、この出来事を神のなされたコトと思い、そこに社を建てたのがそのはじまりとされるのだとか・・。

http://inari.jp/b_shinko/index2.html

 

さて、この「秦氏」であるが、有名な渡来人であるが、ナゾも多い一族である。

「日本書紀」によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ「新撰姓氏録」では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し、秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられているそうだ。

大陸からやって来た秦一族は、中国人が「弓月」(Kung-Yueh クンユエ)と呼んだ中央アジアの国から、シルクロードをたどって東へとやって来たという。

古代の中国の皇帝たちは、征服した周囲の民族を使役して、万里の長城の建設にあたらせた。中央アジアの民もそのために駆り出され、その苦役に耐えかねた多くの人々が満州を経て、朝鮮半島や日本に逃れたのだそうだ。

こうしてやって来たのが秦氏であり、それを受け入れて保護したのが、日本の天皇だったのだ。

 

この天山山脈の麓にある小国「弓月」は基督教国で、5世紀以降、光り輝く教え、「景教」と呼ばれるアッシリア東方基督教の信仰をもっていたそうだ。 

景教はネストリウス派基督教と呼ばれるコトが多いが、ネストリウス以前から存在する原始基督教の流れを汲むアッシリア東方基督教のコトであり、既に1世紀には確立されていたのだという。

 

つまり、秦氏は中央アジアの「弓月」よりさらに西、中近東はアッシリア方面にその源流を求めるコトができるのではないか?・・というのだ。

 

原始キリスト教の信仰をもつ秦氏が日本にやって来て、神さまを祀るために立てた社・・それがお稲荷さんであるという。

 

長くなりそうなので、この続きはまた・・。

 

 

 

 

 

 


水の神

2009年05月22日 | 歴史・民俗

沖縄ではもう梅雨入りしたそうだ。

広島はまだのようだが、8年間の広島生活を通じて感じるのは、ここ広島では、6月よりも5月の方がよく雨が降る・・というコトだ。ここんトコよく降る。

 

田植えもすんだ農家にとっては、降らないよりも降ってもらった方がよいだろう。

恵みの雨だ。 

ずっと雨が降らない状態が続けば、稲の実りに影響する。

まさしく死活問題だ。

昔なら、神様に祈りを捧げて雨乞いをしたコトだろう。

 

雨乞いをする相手、雨を降らせる水の神さまといえば、我々日本人は雷雲をともなって現れる龍神、すなわちの姿を思い浮かべるのではないか?

 

天から降った雨は大きくうねって蛇行する川となり、山野を流れ、大地を潤す。

 

そして豊かな実りをもたらし、蒸発して天に昇り、雲となって、また雷とともに雨を降らせる。 

 

その流転・変化する水の表象するトコロは、まさしく天に昇り、雲をまとい、雷を呼び、雨を降らせる龍である。

そしてまた蛇行して大地を流れる川の水は、大地を這うの姿とも重なる。

もともと日本にあった蛇神信仰は、様々な文化とともに中国から伝来した架空の生き物である龍のイメージと融合し、水の神として各地で民間信仰の対象となっていった。 

すなわち、龍=蛇である。

 

あの縄文式土器の渦巻き模様も、蛇をかたどったものといわれている。

そして、この渦巻き模様はインドや中国、東南アジア、中南米など、世界各地で見られ、その多くが蛇神信仰と結びついているそうだ。

聖書でも、神が創った最初の女性、エバを誘惑して堕落させたのはヘビである。(創3:1~7)

 

何度も脱皮を繰り返して成長する蛇の姿は、「死と再生」のイメージを連想させ、豊穣と多産、生命力の象徴であった。

人類最初の女性を誘惑したヘビのその姿はまた、生命の源たる男性の生殖器をも連想させる。

 

水の神として、実りと豊穣、生命をもたらすヘビ=龍は、 稲の実りをもたらす歳神でもある。(カテゴリー/歴史・民俗:

「初詣」http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/e6cf29bfeaf100dae2f09a27e76aef9e

、「とんど」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/022e44630770294df2f80d1c25bc14ae

正月がくれば、門松をたて、ヘビがとぐろをまいた形を模した鏡餅を供え、「今年も実り豊かな年になりますように」・・と歳神=ヘビを招き入れる・・。

 

あまりヘビというといいイメージはないのだが、滑稽なコトに、知らず知らずのうちに、この世の豊かさをもたらしてくれるヘビを崇拝しているのが、我々なのかもしれない・・。

無知とはおそろしい・・。

 


復活祭

2009年04月19日 | 歴史・民俗

今日は復活祭。英語でイースターとも言われる。

キリスト教の典礼暦の中で最も重要な祝日で、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目によみがえった事を記念する日だそうだ。

復活祭は基本的に「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に祝われるため、毎年日付が変わる移動祝日となるそう。

で、今年2009年は西方教会で4月12日、東方教会で4月19日、つまり今日になるのだとか。

ちなみに「復活節」とは復活祭からはじまる季節の事をいい、ペンテコステ(聖霊降臨)の日まで7週間続くという。

 

もちろん、クリスチャンでなければ関係ないし、全く知らない話であろうが・・。

 

このキリスト教、そもそもイエス在世時には、漁師や乞食、遊女といった社会の最下層の人々を信者とし、律法を守る当時のユダヤ教社会にとっては異端も異端、迫害されるばかりの新興宗教にすぎなかった。

”クリスチャン”という今では美しい響きをもった言葉さえも、当時は「キリストに狂った者」、「キリストきちがい」というほどのイミをもった一種の差別用語であったという。

 

今でこそ三大宗教の筆頭ともいうべきこのキリスト教も、爆発的に信徒が増え広がり、世界中がキリスト教文化圏の影響を受けるほどの版図を誇るようになるその本当のはじまりは、教祖であるイエスが死に、復活したその後からのコトなのだ。

そーゆーイミでもこの復活祭、重要な祝日といえよう。

 

実際、イエスが十字架につけられる前、その弟子たちはゲツセマネで必死に祈るイエスをおいて眠りこけ、ユダは銀貨30枚でイエスを売り渡し、ペテロは自分に被害が及ぶコトを恐れて3度イエスを知らないと否定した。

そんな不信仰な弟子たちに裏切られ、十字架につけられて死んでしまったイエスが肉体は失ってしまったものの、霊的には復活して弟子たちのもとを訪れ、勇気づけるコトで弟子たちが悔い改め、そこから新たに出発したのが現在にまで至るキリスト教といえよう。

クリスチャンの作家、遠藤周作の表現を借りれば「イエスの死後、弱虫の弟子たちが強虫になった」というコトであろう。生まれ変わったとでもいおうか。

 

どうせなら、イエスが生きている時にその決意が出来なかったのだろうか?

信仰心の篤いクリスチャンならそう思うであろう。

 

しかし、イエスは再臨されるとしながらも、その時と同じコトがおこると言われている。

「彼はまず多くの苦しみを受け、またこの時代の人々に捨てられねばならない。」(ルカ17:25) 

「しかし、人の子がくるとき、地上に信仰が見られるであろうか」(ルカ18:8)

 

歴史は繰り返す。

 

最もイエスを待ち望んでいたはずの律法学者たちは、結局イエスを十字架につけてしまった。

それはイエスが当時、信仰心の篤いユダヤ教徒にとって、もっとも受け入れがたい姿で現れたからに他ならない。

 

ちなみに新約聖書のマタイによる福音書の冒頭にイエスの系図が出てくる。

信仰の祖、アブラハムからイエスまで辿れるので、旧約聖書を読めば、神が創造した人類始祖、アダムからずっと辿るコトが可能だ。

その系図の中に姦淫の女性が出てくる。ユダヤ教の律法において許されざる罪を犯した女の名が神の子の血統に連なるワケだ。

これは神学上もナゾとされる。

 「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。アブラハムはイサクの父であり、イサクはヤコブの父、・・(中略)・・エリウデはエレアザルの父、エレアザルはマタンの父、マタンはヤコブの父、ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。」(マタイ1:1~16)

「ヨセフはイエスの父」とは聖書には書かれていない。

聖書によれば、マリヤは聖霊によってイエスを身ごもったとある。

しかし、イエスにも父はある。

これは血統の問題にかかわるコトである。

すべては血統がカギとなる。

「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞えにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである」(マタイ13:14~15) 

 

 

 

 

 

 


春分の日

2009年03月20日 | 歴史・民俗

今日は春分の日。いわゆるお彼岸だ。

彼岸会」(ひがんえ)は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後3日を合わせた7日間をいい、また、この期間に行われる仏事のコトを言うそうだ。

暦の上では最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」というのだとか。

 

彼岸の仏事は浄土思想に由来するそうで、極楽浄土は西方の遙か彼方にあると考えられている為、太陽が真東から昇り、真西に沈む春分と秋分は、西に沈む太陽を礼拝しつつ、遙か彼方の西方浄土に思いをはせた・・というのが彼岸の始まりだとか。

シルクロードを経て伝わった仏教は、輪廻転生がその死生観。

この世を苦しみの世界とする仏教は、死んだ後に極楽浄土に生まれ変わるコトを願ったというワケだ。

 

ちなみに「彼岸」(ひがん)とは、煩悩を脱した悟りの境地のことで、煩悩や迷いに満ちたこの世をこちら側の岸=「此岸」(しがん)と言うのに対して、向う側の岸「彼岸」というのだそうだ。

 

悟りとは程遠く、日々雑念や煩悩にまみれている我が身を思う・・。

 

悟りの境地に至るその岸辺にたどり着くには、激流渦巻く大河が横たわっているのを感じる。

むしろ、その激流の中に飲み込まれている日々かな・・?

 

同じ仏教でも、念仏唱えりゃ極楽往生という完全に他力本願の浄土思想と、自分の努力で悟りを開く完全に自力のとでは、まったく真逆の考え方だ。

 

絶対に抗えない運命のような大きな他力によって生かされつつも、自力でやる・・という考え方の方が、多くの人がしっくりくると思うが・・。

 

時の流れは、抗いようもなく次の季節を運んでくる。

 

 

「暑さ寒さも彼岸まで」

 

今日も春らしく暖かい1日だった。

気がつけば、桜もちらほら・・。

そういえば今朝、後輩のウチに3人目の子が生まれたそうだ。

タカちゃん、おめでとう!

 

我が家の春も、間もなくかのう・・。

子どもも天からの授かりものだけに、抗いようのない他力と、絶対的に自分の努力が必要だもんねえ・・。

 


ひな祭り

2009年03月03日 | 歴史・民俗

今日は桃の節句、ひな祭りだ。

しかし、広島では朝から雪が降っている。

ここしばらくは暖かい日が続いていたが、やはり、昔から三寒四温というように、そのまま素直には暖かくなってはくれないようだ。

 

節分の時も思ったが、子どもでもいなければ、なかなか夫婦で豆でも買ってきて豆まきしよう・・という気にはならない。

同様に、ひな祭りも女の子のお祭り・・て感じで、男の子だけの家庭なら、あまり関係ないかなー?・・とも思う。

実際、自分の子どもの頃のひな祭りの記憶といえば、ひなあられでも食ったかな・・というくらい。

 

妹が生まれて、ようやく小さいながら、ひな人形も飾るようになったものだ。

 

ちなみにひな人形の起源は、流し雛(雛流し)の風習から・・と言われているそうで、本来は災厄を身代りさせて流すというお祓いの人形だったそうだ。

雛祭を過ぎて飾っていると嫁に行き遅れる・・と言うのも、ここからきているのだとか・・。いわば、自分の代身が”片付いてない”ワケなのだから・・。

その歴史は古く、「源氏物語」須磨の巻に、光源氏がお祓いをした人形(形代)を船に乗せ、須磨の海に流したという記述があるそうだ。

その人形が無事に海に流れ着けば、災厄は祓われる。

 

しかし、そーゆー災厄を背負った人形が、流れずに川べりに引っかかってる様を想像してみて欲しい。

不気味なコトこの上ない・・。

 

その人形が化けて妖怪になって戻ってくるという話や、以前、河童起源譚で書いたように、川べりの人形から河童伝説が生まれたとしても不思議ではないだろう。 

 

ちなみに男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶのは誤りで、本来、「内裏雛」とは男雛と女雛の一対を指すそうだが、童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から、その呼び方が一般化しているのだとか・・。

間違った意味の歌詞を、いつまでも子どもに歌わせているのもよくない。

いずれ、「お内裏さ~まは男女ペア~

・・と歌詞が変わる日も、そう遠くないだろう。

(なんてね・・

 

 


ビスケットの日

2009年02月28日 | 歴史・民俗

世の中いろんな”~の日”があるが、今日はご存知、「ビスケットの日」!!

(しらねー・・

 

実は、自分も奥さんが買い物した時にもらったおまけのビスケットに”2月28日 ビスケットの日”と書かれてあるのを見て知った次第・・。

 

それによると、水戸藩の蘭医・柴田方庵が記した「方庵日記」1855年(安政2年)2月28日「萩信之助へ出状、パン、ビスコイト製法書在中」とあり、その日をビスケットの日としたそう。(当然、当時は陰暦だが・・

長崎周辺で細々と作られていたビスケットを保存のきく食料として水戸藩が注目、長崎に留学していた方庵が軍用パンの製法をオランダ人から学び、それを水戸藩に書き送ったのだという。

 

水戸藩といえば、思い出すのは”黄門さま”、徳川光圀である。日本人ではじめてラーメンや餃子を食べたのもこの光圀だという。肉食が忌み嫌われた当時に牛肉や豚肉、羊肉を食べたグルメとしても知られる。

5代将軍・徳川綱吉生類憐みの令に反発したためとも言われ、野犬50匹を捕らえてその皮を綱吉に献上したこともあるという。

 

ちなみに”黄門”とは、中納言・権中納言の唐名(漢風名称)だそうで、一般的には”水戸黄門”といえば水戸光圀をさすが、「水戸藩の黄門」というコトであれば、水戸藩で中納言・権中納言に任命されたのは代々7人で、厳密にいえば、水戸黄門は7人いたコトになるそうだ・・。

水戸黄門といえば、諸国漫遊して世直しをするドラマのイメージがあるが、そもそも幕末、最後の将軍となった徳川慶喜を将軍職につけるため、水戸藩が講談師を全国に派遣し、黄門さまの活躍を宣伝・アピールし、水戸藩にそーゆーエライ人がいたんなら、今度の将軍は水戸藩から出したらいーんじゃないか・・という世論をつくり、そこから例の黄門さまのイメージができあがっていったとか・・。

しかし、実際には慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍についた・・というワケではない。

 

また光圀は『大日本史』の編纂を命じ、その三大特色として神功皇后を歴代の帝から除き、大友皇子を帝に加え、南朝正統論を唱えた点があげられ、歴代天皇が現在のものに改編されたのも『大日本史』の影響とされているそうだ。 

完成までに、光圀の死後250年もの時間を費やすコトになった『大日本史』の編纂により、水戸藩は藩財政の三分の一近くをこの事業に注ぎ込み、大規模な一揆を招いたり、一説には八公二民という重税を光圀時代に課したため、農民の逃散が絶えなかったといい、ドラマのような正義の名君とはいかなかったようだ。

 

『大日本史』を編纂していく中で水戸学とよばれる学派がおこり、朱子学を中心にした皇室尊崇と封建的秩序の確立を説き、後に尊皇攘夷思想として幕末の志士たちにも大きな影響を与えた。

 

歴史の流れを知る我々は、攘夷思想が時代に逆行したものだというコトは十分承知している。今さら鎖国すべきだという人はおるまい。

また、忠孝を説く儒教は、体制教学として権力を維持するのに利用されやすい。

しかし、悪いコトばかりではない。

儒教で説かれている徳目は、人が生きていく上で忘れてはならないものも多い。

親孝行や夫婦愛はどんなに時代が移ろうとも、不変の真理である。

「温故知新」という言葉もあるが、なんでも古いからと否定するのも、いかがなものか?・・と思うのである。

 

・・しかし、我ながらビスケットだけで、よーここまで引っ張ったなあ・・。

 

 

 

 

 


相撲の由来

2009年02月17日 | 歴史・民俗

相撲は日本の国技。

しかし、現在のような相撲興行の形は江戸時代初期からだという。

もともとは五穀豊穣や天下泰平・国家安泰を祈念して奉納する神事であった。

 

『日本書記』に書かれている、第11代・垂仁天皇の前で野見宿禰が相撲をとったのがはじまりといわれる。

 

ところで先日、これもテレビでやっていたのだが、それによると、相撲は古代イスラエルの神事であるという。

日本語で書く「相撲」(すもう)とは当て字であるが、聖書の中に「スモウ(シュモー)」というヘブライ語が出てくる。

これが”Name of him”というイミで、その”彼の名”とは、イスラエルの祖であるヤコブを指す言葉だという。

ヤコブが天使と相撲をとったという話が聖書にはあり、その時ヤコブは”イスラエル”の名を授かった。(創世記32:22~28)

 

さらに相撲の立会いでおなじみの「ハッケヨイ」の掛け声であるが、日本語では意味を成さない単なる掛け声としか思われないのだが、ヘブライ語では「ハッケ・ヨーイ」は「ハッケ」が「投げろ」、「ヨーイ」が「やっつけろ」という立会いにぴったりの意味をもつ言葉だという。

 

また土俵入りする力士が塩をまくが、塩で清めるというのはユダヤ教にもあり、円は神とつながる神聖な場所で、ロープで神聖な場所とそうでない場所を区切るのだという。

これはそのまま神聖な土俵をイメージさせる。

 

ちなみに相撲で”てっぽう”という柱を相手にする稽古があるが、イスラエルでは柱=アシラという神をあらわしているという。

諏訪大社御柱祭という奇祭があり、その際使われる巨大な柱はやはり、神を象徴するという。(カテゴリー/歴史・民俗:「御柱祭」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/2ff44e4baa1724ec0bdfecd52baaff04

 

そういった話は枚挙に暇がない。

いわゆる、「日・ユ同祖論」である。

 

イスラエルの失われた10部族の生き残りが長い歴史の中、はるかシルクロードを旅して日本にたどり着き、何らかの痕跡をこの国に残したというのは間違いなさそうである。 


日本人とは・・?

2009年02月13日 | 歴史・民俗

さて、春一番が吹いた今日は、13日の金曜日。

「だから何・・?

・・て人はともかく、なんとなく気になってしまったりするのが、日本人ではないだろうか?

『13日の金曜日』といえば、ホッケーのマスクをかぶった殺人鬼ジェイソンが出てくるホラー映画が有名だが、もともとこの日が不吉とされる習慣自体が西洋のもので、イエスが磔にされた日だからだと言われている。

別にクリスチャンでなければ、そんな不吉がるもんでもないと思うんだが、なんでも貪欲に柔軟に吸収するのが日本人の国民性。

 

地球儀なんかで見るとよく分かるが、日本はユーラシア大陸の最果ての地、最東端に位置する。そのうえ、南北に細長い地形で、四方が海に囲まれた島国だ。ここにさまざまな文化や文明が何らかの形で伝わってきて、さまざまな民族が流れ着いてきたのは、想像に難くない。

まして今やインターネットの時代だ。さまざまな情報・文化が絶え間なく流れ込んでくる。

 

よく日本人とユダヤ人はもともと同じ民族ではないかという「日・ユ同祖論」が日本のテレビや雑誌等で取り上げられるが、日本人だけでなく、その失われた10部族を求めて、はるかイスラエルからアミシャブと呼ばれる調査機関が来日したりもしている。

そんなコト知らなくても、仏教や儒教といった外来思想が大陸や半島から伝わり、それを長い歴史の中、形を変えながらも吸収し、自分たちのものにしてきたのが、われわれ日本人だというコトは周知の事実だ。

 

争いを避けて流れ着いた避難民、ボートピープル(ばかりではないだろうが・・)の住み着いた安住の地だけに、基本的には「和をもって貴しとなす」平和を愛する国民性といって良いと思う。

 

天皇というのも、そもそもさまざまな有力な国があった古代において、合議の中で決められた・・というコトが、考古学的にも立証されているそうだ。

すなわち、天皇とはその発生から、絶対的な権力をもつ専制君主ではなく、”担がれた王様”なのだ。歴史的に見ても、問題は”担ぐ側”にあるコトが多いようだ。

ナンバー.2が権力をふるう、日本的支配とでも言おうか・・?

 

その辺の、古代、天皇が誕生した時代や背景には非常に興味がある。

古代史マニアの友人の奥さんが読んでいると教えてもらった作家・関裕二の著書にはその辺の話がいろいろ書かれていて、とても面白い!

いずれその話もしたいと思うが、ひとつには、それがわれわれ日本人としてのルーツというか、日本人の精神性を知る上で、重要なヒントになると思われるからだ

 

誰しもそうであろうが、自分も若い頃はお寺や歴史とか、古臭いもの・・という感じでさほど興味はなかったが、あーゆートコロでお年寄りをよく見かけるのは、日本人のルーツ、ひいては自分のルーツを知りたい・・という思いからなのかなあ?・・と最近、その思いをなんとなく理解できるようになってきたのは、自分もまた年をとったからなのか・・?

いうなれば、自分のルーツを、この世での時間が少なくなればなるほど、実感として「知りたい」と思うようになるのだろう。それを各々が、歴史との対話の中に見出そうとするからなのかもしれない。

 

人はどこから来て、何の為に生き、どこへ行くのか?

 

・・古より問い続けられてきた三大疑問であるが、真摯に、真剣に生きようとする者であるほど、人として生きる上で根本ともいえるこの問いからは、自由ではいられないのではないか・・?

 

・・であるからこそ、より若いうちに、その問いに向き合えた者は、しあわせといえるであろう。

 


節分

2009年02月03日 | 歴史・民俗

2月3日は節分の日。恵方巻きを食べた。

「節分」の言葉通り、「季節を分ける」日で、本来、季節の移り変わる時である立春・立夏・立秋・立冬の前日を指すそう。

特に立春が1年の初めと考えられることから、次第に「節分」といえばこの日を指すようになったという。

立春を新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて、追儺(ついな)の行事が行われ、その一つが「豆まき」なのだとか。

 

追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事のことで、平安時代、陰陽師たちにより宮中において大晦日に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。古く中国に始まり、日本へは文武天皇の頃に伝わったといわれている。

もともと、陰陽師が鬼を退治する行事だったワケだから、陰陽五行説十干十二支といった東洋思想が随所に見られる。

 

たとえば、鬼といえば牛の角をもち、トラのパンツをはいてる姿を思い出すが、「鬼門」の方角が十二支では丑と寅の方角(うしとら)に当たるコトに由来するといわれる。

ちなみに「鬼門」とは、風水などで北東にあたる方位とされるが、昔の中国の道教において、冥府の神として信仰されていた「秦山府君」が住む山が北東にあったコトから、冥府→北東→鬼門になったのだという。

さらに丑というのは12月を、寅は1月を指し、ちょうど12月から1月にかけての季節の節目に「鬼門」があり、鬼門は鬼の出入りする方角で、この邪気を祓うことにより、春が無事に迎えられると考えられていたのだそうだ。

 


そして陰陽五行説だが、五行とは木、火、土、金、水の五元素で自然の道理を表す考え方。

この「金」というのが、硬いとか、厄病という意味があり、鬼が金棒を持っているのもこの「金」から。この「金」の作用をなくすのが火剋金で、五行でいう「火」に当る。

大豆というのはとても硬く、鬼と同様、「金」に属す。この豆を「火」で煎ると同時に外や内にまき、人間が食べることにより、鬼を退治することになるのだという。

 

なんか「マメ」は「魔を滅する」とか「魔の目」だとか、語呂みたいな話もあるようだ・・。

 

また、豆をまく事により、五行の「木」を助けるという事で、「春の気を助ける」から「春を呼ぶ行事」でもあるという。

まだまだ寒い日が続いてるけど、少し日も長くなってきたし、これからちょっとずつ暖かくなるのかなあ・・。