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Peace Waveの平和な日々~行く雲、流れる水のように~

気が向いたら、ボチボチ更新しようかと・・。(笑)

ヤマタノオロチ

2010年10月26日 | 歴史・民俗

ヤマタノオロチ

『日本書紀』では八岐大蛇と表記される、八つの頭をもつ大蛇の化け物で、祭りが多いこの時期、広島では神楽の演目として好んで上演される。



舞台狭しと暴れまわるジャバラのヤマタノオロチのダイナミックな動きは、見る者を圧倒する。

子どもから大人まで誰もが楽しめる、神楽でも最も人気がある演目といっても間違いないだろう。

 

最初の登場シーンは、スモークと共に現れたヤマタノオロチが娘を飲み込む場面。

猛威を振るうヤマタノオロチが表現される。



娘のクシナダヒメをヤマタノオロチに生贄に奉げなければならず、嘆き悲しんでる老夫婦とスサノオが出会うシーン。

クシナダヒメを妻としてもらいうけるコトを条件に、ヤマタノオロチ退治を請け負うスサノオ。

強い酒を飲ませ、眠ってるトコロを退治するという知恵を授け、見事、これを退治する。

神楽では、このスサノオとヤマタノオロチの立ち回りがクライマックスとなっており、次々とオロチの首を刎ねていくシーンは見もの!

 

退治したヤマタノオロチの尾から出てきた刀が、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、後の草薙剣で、三種の神器の1つで、スサノオは、これを姉のアマテラスに献上した。

 

中国山地国内有数の良質な砂鉄の産地で、出雲は既に風土記の時代、「もののけ姫」でも出てきた”たたら製鉄”が盛んな古代のハイテク地帯だった。

ちなみに、たたらで作った玉鋼(たまはがね)から日本刀は作られる。

「鉄穴(かんな)流し」という、山を切り崩して土砂を流し、川に沈んだ砂鉄を採る方法が用いられていたため、斐伊川に土砂が堆積し、よく氾濫をおこしたという。

また、鉄が流れ込むコトで川の水が真っ赤に染まったそうだ。

 

実際、ヤマタノオロチは八つの頭と八本の尾を持ち、目はホオズキのように真っ赤で、背中には苔や木が生え、腹は血でただれ、ハつの谷、八つの峰にまたがるほど巨大とされている。

多くの支流に分かれた川を、八つの頭をもつヤマタノオロチに見立て、血でただれた腹は「鉄穴流し」で赤く染まった川・・というワケだ。

 

それゆえ、スサノオは「州砂之王」―すなわち、”砂鉄の王”とする説がある。

製鉄の技術は半島から来たものであり、渡来系の製鉄神がスサノオで、その荒ぶる神としての性格も、製鉄の荒々しさから来ているというのだ。

 

製鉄民の技術は自然を破壊し、川を汚し、氾濫させる。

ヤマタノオロチが毎年娘をさらうのは、河川の氾濫の象徴で、これでは農耕民とは相容れず、対立は必至である。

しかし、そのままでは争いが絶えず、戦争になってしまう・・。

 

クシナダヒメは『日本書紀』では奇”稲田”姫と表記するトコロから、稲田―すなわち農耕民を表し、スサノオとクシナダヒメとの結婚は、製鉄民と農耕民の融合を象徴しているのではないか・・と、駒沢大学瀧音能之教授は述べている。

ヤマタノオロチ退治=治水であり、実際、鉄器は、武器としてよりも農具として生産力の向上に貢献したと言われている。

 

ヤマタノオロチ退治の神話は、渡来系の製鉄民と、土着の農耕民が手を取り合うまでの、葛藤と苦悩の物語なのかもしれない・・。

 

「ハイテク技術」と「環境破壊」、そして、異なる文化をもつ民族同士の和解―それは、そのまま現代にも通じるテーマであろう。

それが結婚によって成される・・というのも、また面白い。

 

 

古代出雲の製鉄文化を象徴する鉄剣、天叢雲剣をアマテラスに献上した・・というエピソードも、当時の出雲大和の関係を推しはかる上でも興味深い話であるが、それもまた、おいおい・・。

 

 




神無月と神在月

2010年10月01日 | 歴史・民俗

9月のはじめには、秋の気配さえ、まったく感じさせない凄まじい残暑であったが、秋分の日をすぎた頃から急に冷え込み、最近、朝晩は、もう肌寒いくらいだ。

心配しなくても時は流れ、季節はめぐる・・。 

今年も残すトコロ、あと1/4、わずか3ヶ月・・。

 

さて、10月といえば、「神無月」

武藤敬司のモノマネをする芸人ではない・・

日本中の八百万の神々が、皆、いなくなってしまう月なので、こう呼ぶそうだが、いなくなってどこへ行くのか?・・といえば、出雲へ行くといわれている。

皇祖神・天照大神(アマテラス)といえど、例外ではない。

―なので、出雲では、10月のコトを「神在月」(かみありづき)と言うそうだ。

 

集まった神様は出雲大社で会議を行い、男女の縁結びの相談などをするという。

出雲大社の祭神・大国主命スサノオの娘、スセリヒメを妻とし、他にもヤガミヒメ奴奈川姫(ヌナカワヒメ)など、多くの女神との間に180柱(!)もの子をもうけた”縁結びの神”として有名。

 

大国が「だいこく」と通じるトコロから大黒天と習合され、七福神の1柱・大黒様としても信仰されている。

 

ちなみにこちら、出雲大社の神楽殿にある重さ5トン(!)日本一の大注連縄

この注連縄、出雲大社など島根県では、通常とは逆の左から縒っているものが多いそうだ。

 

また、通常、神社を参る際、二礼・二拍手・一礼・・というのが作法であるが、出雲大社では二礼・四拍手・一礼となる。

 

そもそも出雲には、出雲神話があり、『出雲国風土記』にある「国引き」神話など、記紀神話とは異なる伝承が残されている。

 

さらには大国主命を祀る天穂日命(あめのほのひのみこと)を祖とする出雲国造(いぞものくにのみやつこ) なる職を、現在に至るまで、代々引き継いできている。

その継承神事を神火相続(おひつぎ)といい、先代の国造が亡くなると、それを公表せずに秘匿され、火継ぎがなされた後に、先代の葬儀が行われるのだそうだ。

いわば、この火継ぎは魂(火=霊)を継承する”死と再生”の儀式であり、出雲国造は「生まれも死にもしない」存在なのである。

 

この出雲国造家の神火相続、民俗学者の折口信夫天皇霊を継ぐ践祚儀式とした天皇家の大嘗祭との共通点が多い。

 

 

何より”雲太”と謳われた巨大な神殿をもつ出雲大社。

現在の本殿は高さは8丈(約24m)で、これでも神社としては破格の大きさであるが、かつての本殿は現在よりもはるかに高く、16丈(約48m)、さらに遡ると32丈(約96m!)の高さがあったという。

 

これは「国譲り」の代償として、大国主命が「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と言ったトコロから造営された・・と伝えられている。

 

「国譲り」―すなわち、”出雲神が治めていた”葦原中国を、アマテラスら高天原天津神に”譲り渡した”・・という話が記紀神話にある。

 

しかし、歴史が記述した者の正当性を証しするために書かれたものだとすると、この辺の事情は日本の成り立ち―大和朝廷の樹立、あるいは、いまだその比定地に諸説ある邪馬台国の成立の事情とも重なってきて、非常に面白い話なのだ。

 

つづきは・・書けるかなぁ・・。 

 

 

 

 

 

 


土用の丑の日

2010年07月26日 | 歴史・民俗

今日は土用の丑の日

四季春夏秋冬を、五行木火土金水に対応させると、それぞれ春は「木」、夏は「火」、秋は「金」、冬は「水」と、「土」があぶれてしまう。

そこで、二十四節気の立春・立夏・立秋・立冬の前、18(19)日間に「土」を当てはめ、「土用」と名付けたそうだ。

それゆえ、「土用」は年4回あるワケだ。

 

その土用の間で、日の十二支が丑の日のコトを「土用の丑の日」といい、一般的には夏の土用のコトを指す。

ちなみに、土用の間に丑の日が2回ある場合があり、2回目を「二の丑」というのだとか。

 

陰陽道が民間に浸透し、「土公神」(どこうじん)という土神が注目されるようになっていったそうだが、この土公神は、決まった日に決まった方位に座する遊行神で、春は東、夏は南、秋は西、冬は北に座すとされ、その方角への旅行や遠出・移転を避けていた。

この土公神の遊行日が家の中にも取り入れられるようになり、春はかまど、夏は門、秋は井戸、冬は庭・・といった具合に3ヶ月間ずつ、その場所に滞在するため、その期間はその場所をいじってはならないとされていたという。

そして、この土用の期間は土の中に潜るのだそうで、土をいじったり、掘ったりすると土公神を怒らせてしまい、方位や土地の障りがあると言われるようになり、工事や造園は避けるようになったのだとか・・。

 

この期間、ガーデニングや家庭菜園をやってる人は、要注意やね・・。

 

ちなみに土用の丑の日にうなぎを食べるようになったのは、諸説あるが、平賀源内の発案によるもの・・とゆーのが有名である。

夏に売れない鰻を何とか売るため、源内は丑の日に「う」のつく物を食べると夏負けしない・・という民間伝承からヒントを得て、「本日丑の日」と書いて店先に貼ることを勧めたトコロ、評判になり、とても繁盛したという。

その後、他の鰻屋もそれを真似るようになり、土用の丑の日に鰻を食べる風習が定着したのだとか・・。

 

古くから滋養強壮に良いといわれて来た鰻には、体の抵抗力を高めるビタミンAや、ビタミンAの吸収を高める脂質の他、ビタミンB1B2カルシウムカリウム亜鉛などもバランス良く含む優れた食品で、血中のコレステロール値を抑制するDHA(ドコサヘキサエン酸)やEPA(エイコサペンタエン酸)も多く含み、動脈硬化などの生活習慣病を予防する効果も。

またムチン消化吸収を高め、胃壁を守る効果がある。

体を温め夏バテ予防食欲減退防止の他、、体力回復風邪・視力低下・皮膚障害・味覚障害・脳卒中の予防口内炎・口角炎・ストレス・高血圧の予防・・などがその効果として挙げられる。

まさしく、この季節にはピッタリのスタミナ源!

 

ここんトコ、全国的に連日、猛暑が続いているよーだが、うまいうなぎでも食って、乗り切りたいトコロ・・。

 

そういえば、今日、友人宅に第1子が生まれたそうで、この場を借りておめでとー!!

土用の丑の日生まれの男の子とは、なかなか元気なお子さんになりそーですな・・。

さすが!食王の息子っ!

今日はうなぎでお祝いだね。

 

 

 

 

 

 

 


祇園祭

2010年07月19日 | 歴史・民俗

園祭(ぎおんまつり)は、その豪華さや、祭事が1ヶ月にもわたるという規模の大きさから有名な京都・八坂神社の祭りで、大阪の天神祭、東京の山王祭(神田祭)と並んで日本三大祭りの1つに数えられている。

さらに上賀茂神社下賀茂神社葵祭平安神宮時代祭と並んで京都三大祭りの1つにもなっている、日本を代表する祭である。

日本人なら誰しも、その名前を1度は聞いたコトがあるだろう。

 

貞観11(869)年清和天皇の時代に、京都で疫病が流行り、多くの死者が出た時に、当時の人はこれをスサノオノミコトの祟りであるとして、その祟りを鎮めるために牛頭天王を祀り、疫病退散を祈ったのがそのはじまりという。

疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が全国の国の数の66本の鉾を立て、神輿3基を送り、牛頭天王を祀り、御霊会を行い、安和3(970)年から毎年行うようになったそうだ。

 

途中、応仁の乱第二次世界大戦などで中断はあるものの、千年以上の歴史を誇り、現在もなお続いている。

 

月1日「吉符入り」から31日「疫神社夏越祭」まで、丸1ヶ月にわたって行われるが、祇園祭のクライマックスは7月17日に行われる32基の山鉾巡行

巡行は午前9時、四条烏丸から長刀鉾を先頭に河原町通を経て御池通へ向かって街を練り歩く。

途中、「注連縄切り」「くじ改め」や豪快な辻廻しなどで見せ場をつくり、豪華絢爛な一大ページェントが繰り広げられる。

 

この「山鉾」と呼ばれる巨大な山車のうち、29基は重要有形民俗文化財に指定されており、豪華な織物や金具で飾り付けられた山車は、”動く美術館”と呼ばれるほど。http://www.gionmatsuri.jp/

 

この、とてもきらびやかで豪奢なタペストリーの前掛けゴブラン織りをといって、要は西洋のもの。この鳳凰?や

 

こちらの龍?のような東洋風なデザインのものもあるが・・

 

まったく日本的な要素がない、こーいったものや・・

 

こんなものまで・・。

 

これなんかキリンだぞ・・。

 

・・・・。

 

 

これらはベルギー製のタペストリーで、1718年に祇園祭のために寄贈されたものだそうだが、中には聖書の物語をモチーフにしたタペストリーもあるという。

 

それがこれ。

アブラハムが息子イサクの嫁を探す為に僕を使いに出し、その僕が神に祈ったごとくに水を供するリベカと出会うシーンだという。(創世記24:1~27)

 

当時は江戸時代で、キリスト教は禁止されていたのだが、この山鉾が京都の街を練り歩いていたのだろうか・・?

 

室町時代以来、園祭のクライマックスといえば、この山鉾巡行で、今年も20万人(!)もの人出があったという。

 

この「祇園」という言葉、その語源はヘブライ語の「シオン」だ・・とゆー話もあるのだが、つづきはまた・・。(カテゴリー/都市伝説・ミステリー:「祇園」=「シオン」?参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/4c1e7760d65d2a5f0380d42dad6858be


七夕

2010年07月07日 | 歴史・民俗

今日は七夕。

旧暦の7月7日は8月中旬頃で、稲の開花期にあたり、水害や病害などが心配な時期で、お盆の準備をする時期でもあった。

そこで、収穫の無事を祈り、棚機津女(たなばたつめ)という巫女が、水辺の棚の上に設けられた機屋で棚機(たなばた)と呼ばれる機織り機を使って先祖に捧げる衣を織りあげ、それを祀って神の降臨を待つ・・という禊(みそぎ)の行事があったのだとか。

「棚」には神聖なものを一段上げる・・というイミがあるのだそう。

もともと「七夕」は7月7日の夕方を表してしちせき」と呼ばれていたものが、棚機(たなばた)にちなんでたなばた」に変わっていった・・とゆーのがその読み方の由来だという。



やがて日本古来のこの行事と、中国の「乞巧奠」(きっこうでん)と呼ばれる祭りが融合し、現在のような形に定着していったのだそうだ。

 

古代中国を発祥とする乞巧奠は、我々もよく知るこの物語からはじまる・・。


天の川の西岸に住む織姫は、機織りの名手で、毎日機織りに勤しんで美しい布を織り上げ、父親である天帝を喜ばせていた。

そんな娘の結婚相手を探していた天帝は、東岸に住む働き者の牛使い、彦星を引き合わせ、2人はめでたく夫婦となった。

しかし、あまりにも夫婦仲が良すぎて、織姫は機を織らなくなり、彦星は牛を追わなくなってしまった。

天帝の怒りを買った2人は、天の川を隔てて引き離されてしまったが、年に1度、7月7日だけは会うコトを許され、カササギが天の川に橋を架けてくれ、会うコトができた・・

 

―この2人の逢瀬を祝い、織姫にあやかって機織りの技が上手くなるように、ひいては手芸や手習いの上達を願って、巧みになるように乞う祭り(奠)・・というのが「乞巧奠」のイミ。

これが日本でも宮中儀式として取り入られ、広まったのだそうだ。

 

星の逢引であることから、七夕には「星合い」という別名があるとか。

しかし、七夕の日に雨が降ると天の川の水かさが増し、橋を渡るコトが出来ず、織姫は彦星に会うコトが出来ない・・といわれており、この日に降る雨は「催涙雨」と呼ばれ、織姫と彦星が流す涙・・と言われるそうだ。

 

織姫の織姫星(織女星)は、こと座の0等星ベガを指し、彦星の牽牛星は、わし座の1等星アルタイルを指す。

 

ちなみに彦星と牽牛は別々に存在する星であり、まったくの別物なのだが、いつの間にか同一視されるようになったのだとか・・。

 

ふーん・・そーだったのね・・。

 


6.25動乱

2010年06月25日 | 歴史・民俗

今日、日本デンマークに3-1で勝利、W杯決勝トーナメント進出を決めた!

日本が海外で開催されたW杯での決勝トーナメント出場は初で、アジア勢では1番乗りで決勝トーナメント進出を決めた韓国と共に予選突破したのは2002年の日韓大会以来、2大会ぶりになる。

 

実は今日、6月25日朝鮮戦争、あるいは韓国動乱と呼ばれる6.25動乱の開戦からちょうど60年を迎える日なのである。

1953年7月27日”休戦”協定が締結されて以来、未だに”終戦”は迎えていないため、軍事的緊張状態が続いており、38度線は厳密には国境ではなく、”軍事境界線”であり、未だ北朝鮮は侵略の意思あり・・とゆー状態なのである。

 

この戦争は戦後間もない中、北朝鮮のバックについた中国・ソ連共産主義陣営と、韓国側のアメリカ・連合国自由主義陣営の代理戦争の様相を呈し、東西の軍事バランスを決定づける重要な戦いであったため、国連軍史上最多の16カ国が動員された。

ソウルの支配が二転三転する激しい戦闘で、戦線が絶えず移動を続けたため、地上戦が数度に渡り行われた都市も多く、最終的な民間人の犠牲者の数は100万人とも200万人とも言われ、一説には全体で400万人~500万人の犠牲者が出た(!)という。

その内訳は北朝鮮側の死者250万人韓国側は133万人で、そのほとんどが一般市民だったそうだ・・。 

さらに行方不明者は100万人を超え、離散家族は1000万を超えるという・・。

 

戦争で、いつも犠牲になるのは武器をもたない無辜の民・・。

 

そうした朝鮮戦争の特需景気が、戦後日本の復興を支え、高度経済成長・・そして”経済大国”といわれる礎を築いたコトは、間違いのない事実である。

 

すなわち、お隣の韓半島で同じ民族同士、血で血を洗う犠牲があって、今の日本の繁栄があった・・とゆーコトであり、その事実を、我々日本人は忘れてはならないだろう。

 

こ最近、韓国と北朝鮮では、核兵器開発や、先の韓国海軍哨戒艦沈没事件など、きな臭い緊張状態が続いていた。

「ソウルを火の海にするまで・・」と、これまでにない過激な表現で北朝鮮のマスコミが韓国を口撃していたコトもあり、たかがスピーカーくらいで・・とゆー思いにもなったが、逆にいえば、それだけ国際社会の中で孤立し、余裕がない状態なのだとゆーコトも感じさせる・・。

 

60年といえば、人間でいえば「還暦」十干・十二支干支の星回りが、ちょうど1巡する時であり、そーゆーイミでは、またいつ戦争状態に突入するかも分からない、危険な時なのかもしれない・・。

ケツに火がついたら、何をするかわからない・・。

 

W杯、北朝鮮は残念ながら予選敗退・・。

ウソかホントか、監督は炭鉱行き・・とゆー物騒な報道も聞こえてくる・・。

 

南北統一されれば、きっとW杯優勝も狙える強力なチームが誕生するのではないか・・?

 

戦争するより、仲良くサッカーしてた方がいーのにね・・。

 


四天王

2010年06月22日 | 歴史・民俗

”越後の虎”と恐れられた戦国武将、”軍神”上杉謙信は、その旗印に「毘」の文字を使った。

これは仏法を守護する武神・毘沙門天からとったもので、自らを”毘沙門天の化身”と称したともいう。

 

毘沙門天は七福神の一柱としても数えられる、日本人には馴染みの深い神様だ。

 

この毘沙門天は仏教における天部の仏で、多聞天ともいい、四天王の一尊でもある。

四天王といえば、上の写真の東大寺の四天王像が有名で、左から多聞天、増長天、広目天持国天

 

この四天王は「ラーメン四天王」「ものまね四天王」のように、俗に「ある分野における実力の突出した4人」・・とゆー感じでよく耳にする言葉なので、誰しも聞き覚えがあるだろう。

 

本来はインド神話に登場する雷神インドラ(=帝釈天)の配下で、後に仏教に守護神として取り入れられたという。(カテゴリー/歴史・民俗:「やおよろず―日本人の宗教的寛容性」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/4957f201a1539975b9843b65e9ad17f9

仏の住む世界を支える須弥山の北方、古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち、北倶廬洲(ほっくるしゅう)を守護する多聞天

西方、西牛貨洲(さいごけしゅう)を守護する広目天。

東方、東勝身洲(とうしょうしんしゅう)を守護する持国天。

南方、 南瞻部洲(なんせんぶしゅう)を守護する増長天・・というように、四天王がそれぞれ、東西南北を守護している。

 

毘沙門天の梵名、ヴァイシュラヴァナという称号は、本来「ヴィシュラヴァス (vizravas) 神の息子」というイミで、彼の父親の名に由来するそうだが、「よく聞く所の者」というイミにも解釈できるため、「多聞」天と訳されたそう。

広目天の梵名、ヴィルーバークシャは、本来サンスクリット語で「種々の眼をした者」、「不格好な眼をした者」というイミだが、「尋常でない眼」→「特殊な力を持った眼」、さらに「千里眼」と拡大解釈され、「広目」天と訳されたという。

持国天の梵名、ドリタラーシュトラ「国を支える者」というイミなので、持国」天。

増長天の梵名、ヴィルーダハカ「成長、増大した者」というイミで、「増長」天なのだとか・・。

 

ちなみにこの四天王、仏教に取り入られた帝釈天の配下・・とゆーコトだが、この帝釈天はインドラというバラモン教ヒンドゥー教の雷神で、ゾロアスター教においては魔王だという・・。

インドではデーヴァが善神でアスラが悪神だが、イランではダエーワが悪神で、アフラ・マズダーが善神と入れ替わっているため、インドの神々(デーヴァ)が悪神として登場しており、インドラも魔王の一人となっているのだとか・・。

 

四天王も、ゾロアスター教の光明神ミスラに、それぞれの名が結びつくという。

ゾロアスター教の聖典『アヴェスタ』には、ミスラに捧げる「ミフル・ヤシュト」(「ミトラ賛歌」の意)の中で「ミスラは広き牧地の主であり、千の耳を持ち(多く聞き)、万の目をもって広く見る」と何度も述べられているという。

「多聞」と「広目」である。

さらに「持国」は「治国」と漢訳されるように「鎮護国家」のイミで、ミスラを祀れば国は安全なので、国主は彼に祈るよう書かれているそうだ。

また「増長」の原語、「ヴィルーダハカ」の本来のイミは「植物を成長させる」コトであり、牧草を成長させ、家畜を育てる広き牧地の主=ミスラの働きなのだという。

 

仏教はインド→中国→日本・・と、三国伝来のグローバルな宗教として誇っているが、こうした習合の経緯を見ると、さらに中央アジアから西アジアまでに及ぶ、より大きなユーラシア大陸全土の宗教や文化の影響を受けているといえよう。

 

大陸から伝来した異国の教えである仏教以前に、日本人の精神世界を支配していた神道であれば、いわずもがなであろう。

 

「記紀」神話には、中国やインドより、むしろ西アジアやギリシヤ神話の影響が色濃く見える。

有名なスサノオヤマタノオロチ退治と、ギリシヤ神話におけるヘラクレスヒュドラ退治の話などがよい例であろう。

 

そう考えると、日本古来の、日本固有の文化・宗教って一体?・・なんて思いになる・・。

 

むしろ、オリジナリティよりも、その多国籍(無国籍?)性、すべてを受け入れる日本文化の懐の深さ、寛容性をこそ、 我々は誇るべきなのだろう。

 

 


御柱祭

2010年04月16日 | 歴史・民俗

先日、TVのニュースでも流れていて、見た人も多いと思うのだが、信州は長野県諏訪市にある諏訪大社で、7年に1度という御柱祭(おんばしらさい)が行われた。

諏訪大社最大のこの祭りは、正式には式年造営御柱大祭といい、寅年と申年に行なわれる式年祭である。

それゆえ、正確には満6年間隔で行われるのだが、慣例として、数え年の7年目ごと・・という意味で「7年に一度」と言われているそうだ。

 

”日本三大奇祭”の1つで、山中から御柱として、もみの大木を上社本宮・前宮、下社秋宮・春宮の各4本、計16本を切り出し、各地区の氏子が分担して各宮まで曳いて行き、社殿の四方に建てて神木とするもの。

「山出し」「穴山の大曲」「木落とし」「川越し」「里曳き」「建御柱」・・といった過程があるが、中でも「木落し」というクライマックスでは、山の上まで曳きあげた大木に氏子がまたがり、一気に坂を滑り落ちる!・・という勇壮なもので、よくニュースの映像で流れるのもこのシーン。

 

しかし、見てわかる通り、危険極まりないもので、毎回、死傷者が出るほど。

奇祭と言われる所以であろう。 

その熱気は凄まじく、今年は3日間で曳き子4万6000人、観客49万人と、過去最多の53万6000人(!)の人出があったという。

 

その起源は古く、平安時代以前とされる。

諏訪大社は五穀豊穣、狩猟・農耕の神として古くから信仰されており、それらを祈願するものであったと推測されるそうだ。

 

『日本書紀』の記述では、出雲大国主命が高天原から降ったニニギノ尊”国譲り”を承諾したとき、ただ一人反対した建御名方命(たけみなかたのみこと)は武神・タケミカヅチに追われるコトになるが、結局、諏訪湖畔まで逃げてきて降伏した。

その際、この地から出ないことを誓って許されるのだが、その時、結界として神社の四隅を仕切った・・という話が残っているそうだ。

 

これは地鎮祭の神話的表現とも考えられおり、実際には記紀神話以前からの諏訪地方の信仰との関係が深いといわれている。

 

諏訪大社の神長官、守矢氏の伝えるトコロによると、この御柱は”ミサグチ”(ミシャグチ)の依り代であるという。

 

さて、この「ミサグチ」とは一体・・。

 

つづきはまた・・。

(カテゴリー/都市伝説・ミステリー:「ミサグチとは・・?」参照http://blog.goo.ne.jp/kinto1or8/e/48d9ea143a5cf63d463899128adf8fc8

 

 

 

 

 


あんぱんの日

2010年04月04日 | 歴史・民俗

4月4日はあんぱんの日だそうだ。

明治8(1875)年4月4日、 東京・向島の水戸藩下屋敷でお花見に訪れた明治天皇木村屋酒種あんぱんが献上されたコトに由来するという。

献上されたあんぱんは、奈良の吉野山から取り寄せた八重桜の塩漬けを真中に埋め込んだ「桜あんぱん」で、ご試食された天皇・皇后のお気に入りとなり、木村屋はその後、宮中御用商に加わった。

 

木村屋の創業者、木村安兵衛は、もともと徳川幕府に仕える武士であり、山岡鉄舟とは旧知の間柄であったそうだ。

明治維新により、武士を廃業した安兵衛は、当時、東京府職業授産所長を勤めていた木村家本家の重義を頼って江戸に出る。

 

授産所とは、今でいう職業訓練所。

明治維新で職を失った者の手に職を付けさせる職業訓練をするトコロであり、そこで安兵衛はパンを知り、重義のすすめもあって、パン職人の道を歩むコトになったそうだ。

 

天皇に献上される前に、既に安兵衛は日本にパン文化を広めるために、和菓子との融合を図ったパンとして、あんぱんを作っていたが、知名度も低く、売れ行きもイマイチだったという。

そこへ、当時天皇の侍従をしていた山岡鉄舟に、これまでは京都の和菓子をお出しすることが多かったが、純日本製のパンをお出ししたらどうか?・・ともちかけられ、それまでのあんぱんに工夫をこらし、開発したのが、この「桜あんぱん」。

その献上を水戸藩に勧めたのも山岡鉄舟であったという。


その裏には維新によって明治新政府が誕生し、形だけは近代化を成したとしても、このままでは日本が西洋列強に呑み込まれてしまうとの憂いから「文明開化」「富国強兵」「脱亜入欧」を掲げ、西洋列強と肩を並べるために、まず、天皇ご自身にその模範を示してもらおう・・との考えがあったようだ。

そして、天皇にあんぱんを献上した際の説明が「見かけは西洋の文化でも、中味は日本古来の魂を大切に・・」という、まさに「和魂洋才」をもって国民に範を示して欲しい・・という願いであったというから、あんぱん、侮りがたし・・。

 

天皇のお墨付きを得たコトで、あんぱんは世に広く知られるようになり、広まったという。

 

もともと牛肉が1200年にわたる肉食の禁を破って宮中に取り入れられたのも、明治天皇が1872(明治5)年1月24日に試食したのにはじまり、天皇の下に公認されたコトで、それまで卑しいものとされてきた国民の肉食への偏見も改まり、広がったのだそうだ。

そういえば、神式の結婚式も、クリスチャンが教会で結婚式を挙げるのに倣い、皇室が神社で結婚式を執り行って以来、全国に広がったのだという。

 

今も皇室の動向がいちいちマスコミで取り上げられるが、ロイヤル・ファミリーの影響力は、「象徴」となった現代の天皇制においても、絶大なものがあるようだ・・。

その経済効果もバカにならない。

 

なんにしろ、サムライが作ったあんぱんが天皇によって広まり、そこに「和魂洋才」の魂が籠もっている・・ちゅーと、なかなか感慨深いものが・・。

 

あんこが好きな自分は、当然、あんぱんも好きでよく食べるが、こーゆー歴史を知ってみると、妙に神妙な気分になって、ただ、あんぱんを食べる時でも襟を正しちゃったりなんかしてね・・。


明智光秀の謎

2010年03月19日 | 歴史・民俗

明智光秀といえば、本能寺の変で主君である織田信長を討った謀反人として、歴史にその名をとどめている。

しかしながら、内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くあるという。

 

諸学に通じ、和歌や茶の湯を好んだ文化人でもあり、戦国の世にありながら、大変な愛妻家としても知られている。

妻の煕子(ひろこ)が嫁入り前に疱瘡にかかり、あばた顔になったのを気に病んだ父親が妹を嫁にやろうとしたところ、「煕子こそ我が終生の妻」と断り、生涯、側室をとらなかったという。

(ただし、煕子は継室で、光秀にとっては2人目の妻・・とゆーコトになるが・・

そうした生き様からキリシタンであったとも言われており、実際、光秀に近い周囲の者にはキリシタンが多い。

組下大名(寄騎)の高山右近は有名なキリシタン大名であるし、細川忠興のもとへ嫁いだ娘のこそ、かの細川ガラシャである・・という具合だ。

 

『信長公記』には、その出自に朝廷と深い関わりがあったと記されているそうだが、出生や前半生など、織田家の家臣として歴史の表舞台に現れるまでは各地を放浪していたとも言われ、謎が多い。 

歴史家や研究者の近年の研究によって、さまざまな文献や記録に散見される光秀の足跡を追ってみると、”ある事実”が浮かび上がってくるという。

 

岐阜県可児市にある明智城は出生の地とされるが、なだらかな丘陵を越えるとすぐ三河で、歴史学者の佐宗邦皇によると、徳川家との関係が深かったという。

『名将言行録』に、三河の牧野右近太夫の百石取りの家臣であったとのエピソードがあり、徳川家康と主従関係にあったのではないか?・・という説もあるそうだ。

実際、『武功雑記』には、光秀が三河で渡り奉公をしていたとの記述もあるという。

http://www.geocities.jp/syutendoji28110/mitsuhide03.html

永禄3(1560)年桶狭間の戦い今川義元が信長によって敗れ、人質であった家康は岡崎城へと戻り、その後、光秀の足跡も三河から消えるが、静岡大学教授大和田哲男『永禄六年諸役人附』の奉公衆、足軽衆の中に「明智」の姓があるコトから、室町幕府の13代将軍・足利義輝に仕えていたとしている。

義輝は永禄8(1565)年松永久秀に殺されてしまい、室町幕府最後の15代将軍となった弟の足利義昭は落ち延び、越前の朝倉氏に身を寄ていたが、永禄11(1568)年、信長を頼って再び上洛した時に、光秀は朝倉の家臣として信長と面会したという。

光秀の仲介により、信長と義昭の同盟がなったのである。

 

『明智軍記』によれば、諸国放浪の後、朝倉義景に仕え、永禄8年頃には既に信長に招かれていたとあるそうだ。 

つまり、そこからが我々がよく知る、歴史の表舞台に出てきた信長の家臣として仕える光秀・・とゆーコトになる。

 

戦国乱世のコト、斎藤道三豊臣秀吉など、その出自がどこの馬の骨ともつかない、怪しげな前身の者は多いが、光秀は朝廷ともつながりもあり、各地を放浪しながらも様々な主君に仕え、出生の地は三河にほど近く、家康の家臣だったのではないか?・・と言われるほど徳川家と深い、何らかのつながりがあったというのだ!

 

本能寺の変の際、家康は堺にいたが、有名な”伊賀越え”で領地の岡崎城へ逃げ延びており、「大神君は先立ちて信長の変を聞召し・・」と、事前に光秀の謀反を知っていたとの記録も『朝野旧聞褒藁』(ちょうやきゅうぶんほうこう)にあるという。

家康は信長の命により、正室・筑山殿と長男・信康とを殺されており、信長に妻子を殺された恨みがあり、なおかつ天下に野心がある・・となれば、十分に動機はある。

 

まあ、もちろん、信長暗殺の真の黒幕・・とゆーコトでは、他にもさまざまな説があるが、この光秀・家康共謀説の面白いのは、この後の話・・。

 

光秀は本能寺の変の11日後、天正10(1582)年6月13日京都・小栗栖村山崎の戦いで落ち武者狩りの百姓に竹槍で突かれ、命を落としたとされる。

いわゆる”光秀の三日天下”である。

 

しかし、信長方の記録には、光秀が死んだとの記述は残っていないという。

主君を殺した首謀者が死んだとなれば、当然、その記録が残っているはずなのだが、それにもかかわらず・・である。

 

実は、光秀は生きていた!?

 

・・という説があるのだが、つづきは、また・・。