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ふたつの「ロリン・マゼール論」

2009年01月28日 13時54分20秒 | クラシック音楽演奏家論




 先日このブログの「カテゴリー分け」をやっとしましたが、そうしたら、私がこだわり続けている「マゼール」論を、一度も掲載していないことに気づきました。そこで、今回は、これまで書いたものでは一番まとまっているものを掲載します。前半が1996年6月発行の洋泉社ムック『クラシック名盤・裏名盤事典』に収録されたもの。執筆はこの年の4月頃でしょう。後半は洋泉社ムック『新・クラシックの快楽』という、たくさん売れた『クラシックの快楽』の一部を改訂して再刊したものに収録されています。私の「マゼール論」と「ラトル論」は、『新~』にしか載っていません。執筆は1996年7月22日です。
 いずれにしてもどちらも12年以上前の原稿ですから、バイエルン放送響の音楽監督になった頃までのマゼールです。文中、未CD化と書いているDG盤は、まとめてCD化されました。バイエルン時代以降のマゼールに関してはまだまとめて書いていませんが、当ブログで数日後に、散発的に書いたものをとりあえずいくつか掲載するつもりです。


■ロリン・マゼール論《『クラシック名盤・裏名盤』バージョン》

 時代の先端の感性というものは絶えず変貌してゆくが、ひとりの演奏家個人の変貌の振幅は、たいていの場合、決して大きなものではない。ところが、マゼールは、その中で数少ない例外だ。マゼールは自身の過去を否定しながら、大きな振幅で別人のごとくに変貌する。それが、彼の天才たる所以だが、それが、ことさらに、マゼールの変貌の真意を分かりにくくさせている。
 マゼールは、大きく分けてこれまで既に3回の変貌を通り越して、おそらく、昨年あたりから、4度目の変貌が始まっている。マゼールは次々と別の場所へワープしているわけだから、昔は良かったなどと言って、最初のマゼールのイメージから一歩も動かないでいると、完全に置いてきぼりを喰ってしまうことになる。
 マゼールの変貌の最初は70年代だ。第2次大戦後に戦後世代に突き付けられていた「ロマン派的抒情精神の再構築」という命題に、最も先鋭にチャレンジしていたマゼールは、その役割に自ら終止符を打ち、バランスのとれた響きの中での、新たな普遍性の獲得を模索する世界にワープして行った。それには、ベルリン、ウィーンという戦前からの音楽伝統の中心地から、アメリカのクリーヴランドへの転身という状況の変化も手伝っていただろう。1972年の秋のシーズンからのクリーヴランド管弦楽団の音楽監督就任以降、マゼールは、それまでのラディカルな演奏スタイルから次第にバランスのよい響き合いへと変貌して行くが、それがひとつの完成したスタイルを獲得して、室内楽的な緻密さを押し出すに至ったのは就任5年後の77年秋から開始されたCBSへの「ベートーヴェン交響曲全集」だと思う。
 そして、次の変貌は80年代にウィーン国立歌劇場の総監督就任決定を機に始まったニュー・イヤー・コンサートへの7回連続出場や、「マーラー全集」の完成によって明らかになった。抒情精神の断裂の執拗なまでの強調だ。
 3度目の変貌は、新しい「シベリウス全集」をピッツバーグ響とで開始した90年代。ここに至ってマゼールは、現代の抒情精神がその内向性を深めて、精神世界の分裂に行きつくところにまで追込んでしまったが、それをまた自らの手で収束を図りつつあるのが最近の活動だ。クリーヴランド時代の半ば頃から芽を出していたオーケストラの自発性との折り合いの付け方が、以前のように先回りせずに、オーケストラの行方を待つスタイルに変ってきているのだ。
 再びヨーロッパのポストを得て、バイエルンとウィーンに腰を落着けつつあるマゼールが、誰よりも磨き込んできた指揮棒の技術を捨てた時、この戦後の演奏史の変遷をひとりで先取りしてきた天才が、戦後50年の演奏芸術のキーワードで在り続けた「抒情精神の復興」の方法に解答を見出す時なのだ。それは、この半世紀をかけて最も遠回りをしてきたマゼールという指揮者の大きな振幅、ブーメランの航跡のような活動の、次世代に橋渡しする総決算となるはずだ。マゼールを聴くこと、聴き続けることは、マゼールが自らに課した自己変革の道程を受け入れる事でもあるのだ。

●ベートーヴェン:交響曲第8番ヘ長調op.93、同第3番変ホ長調op.55《英雄》/クリーヴランドo.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR9526]録音:1978年および77年
●マーラー:交響曲第6番イ短調《悲劇的》、同第7番ホ短調《夜の歌》/ウィーンpo.
[米CBS/M3K42495]録音:1982年および84年
●シベリウス:交響曲第2番ニ長調op.43、同第6番ニ短調op.104/ピッツバーグso.
[So-ソニー・クラシカル/SRCR1495]録音:1990年および92年


■ロリン・マゼール論《『新・クラシックの快楽』バージョン》

 戦後世代の指揮者として録音歴だけでも、1957年という早いスタートだったマゼールは、既にデビューから40年以上経過している。それは戦後史そのものとも言えるのだが、マゼールの歴史は、戦後の演奏スタイルの変遷の、最も先鋭な部分の象徴でもある。絶えず時代の一歩先を行き、変革の先頭を歩んできたのがマゼールだ。
 1930年にパリ隣接のニュイイに生まれ、幼児期にアメリカにわたって成長したマゼールが、指揮者として正式にデビューしたのは留学先のローマでの1953年。その4年後にベルリン・フィルを振ってのレコーディングがドイツ・グラモフォンで行われた。日本を含む世界中の音楽ファンに、マゼールは、そのわずか27歳の若い才能の存在を示した。第2次世界大戦終結後、10年を経て、〈突然変異種〉のように驚嘆を持って迎えられたのがマゼールだった。
 デビュー当時の録音で、現在CDで手軽に聴けるのはストラヴィンスキー「火の鳥」組曲(ベルリン放送響、57年録音)くらいだが、それだけでも、当時のマゼールの異才ぶりが伝わってくる。スコアの各段が明瞭に分割されて響き、様々な仕掛けが的確に挟み込まれる。音楽の流れは裁断され、噛み付き合い吠え合いながら進む。ここでは音楽が、終幕に向かってひとつながりのドラマへゆるやかに昇華していくといった安定はない。どの瞬間も、切り立った断崖の淵に立っている。
 それは、ドイツ系のクラシック音楽の正統的なレパートリーでも同じだ。古いLPで当時のベートーヴェンやブラームスの録音を聴くと、当時の状況の中での、マゼールの突然変異ぶりが、さらに理解できる。オーケストラは、ベルリン・フィル。ドイツ精神の牙城としてフルトヴェングラーが君臨してきたベルリン・フィルが、その主の死後3年ほどしか経っていなかった時期の録音として、マゼールの演奏は、実に大胆不敵だ。それは、明確な意図を露わにしたアーティキュレーションやフレージングだけでなく、オーケストラの響きの構築にまで表われている。
 このことは、その5年後、1963年から翌年にかけて、ウィーン・フィルと英デッカ(ロンドン)に録音された「チャイコフスキー交響曲全集」でも確認できる。おそらく、1950年代から60年代にかけてのマゼールが目論んでいたのは、感情の起伏に素直なドラマの再現への決別だったはずだ。それは、戦前の巨匠たちが聴衆とともに育んできた絶対的な価値としての〈ロマン〉を、相対的に捉え返そうとする試みだった。
 マゼールのチャイコフスキーは、ためらいもなくおおらかにうたい上げるものではなかった。熱を帯びた感情の高揚は屈折し、絶えず検証されながら進行する。はにかみ屋の熱血青年。しかし、それは、マゼールひとりに限らなかった。時代は戦後世代全体に、音楽がロマンティシズムを表現することの意味を問い、疑問を発していた。照れわらいを浮かべながら愛を語り、小首をかしげながら、真実は一つではないはずだ、と感じていたのが、それを聴く私たちの世代だった。マゼールは、この時、戦後世代の感性の代弁者だったのだ。だが、少し早く、そうしたロマンの解体作業に着手していたマゼールは、やがて自ら、その収拾作業に入ってしまった。
 マゼールの演奏スタイルは、1970年代に入って大きく変貌した。戦後世代としての最初の役割をまっとうしたマゼールは、自ら、その役割に終止符を打ったのだ。70年代の半ば以降マゼールは、次第に細部の強引なまでのデフォルメが後退し、立体的な彫りの深さ、輪郭の明瞭さが、透けて見えるような響きの中で聴こえるようになった。音楽が軽々として自在さを持ち始めたのが、この時期だ。75、76年録音の「ブラームス交響曲全集」や、77、78年録音の「ベートーヴェン交響曲全集」が、かつてのベルリン・フィルとの録音と比べて、まるで別人の演奏のようなのに、今更ながら驚かされる。緊密な室内楽のようなアンサンブル集団、クリーヴランド管弦楽団の音楽監督への就任が、それをより確実なものにしているが、それは、キャリアのスタートを伝統の真っ只中のベルリン、ウィーンを中心に始めたマゼールが、ヨーロッパの伝統を外から眺めるアメリカに育ったという原点に、立ち戻ったということでもあった。
 だが、ロマン派的情念との対決を続けたマゼールが、70年代の半ば以降、バランスのとれた響きの中での新たな普遍性の獲得を模索し始めたのは、この時代が要求していたことでもあった。マゼール/クリーヴランドの「ベートーヴェン交響曲全集」の明るさ、軽快さは、ティルソン・トーマスの室内管弦楽団盤や、やがて、古楽器演奏へと連なっていく。マゼールの70年代の変貌は、正に〈時代を映し出す鏡〉としてのマゼールそのものであり、マゼールが、いつの時代でも、その時代の〈現在〉であり続ける数少ない音楽家であることを予感させたのだ。 マゼールの変貌を象徴する録音に、2種のベルリオーズ「幻想交響曲」の録音がある。77年のCBS盤と、82年のテラーク盤だ。前者はこの曲の病的なグロテスクさを局限にまでおしすすめた演奏の代表盤だが、一転して後者は、響きの凹凸を刈り込んだバランスのよさへと傾斜している。その後の「幻想」の演奏が、アバド、プレヴィン、ハイティンク、デイヴィスらによって、安定したテンポと十全な響きが確保されてきたのは、偶然ではない。今日、マゼールが三たび、この曲を録音したならばどうなるか、興味は尽きない。
 80年代に再びウィーンのポストを得たマゼールは、ウィーン・フィルと「マーラー全集」をスタートさせるが、やがて行政当局と衝突して一時ウィーンを去ってしまう。この時得たポストがアメリカのピッツバーグ交響楽団。ここでは2度目の「シベリウス全集」が開始された。その双方に共通しているのは、抒情精神の断裂という、ここ数年継続して現代人の社会的病理として関心が持たれていたテーマの深化だった。切れ切れの歌は悲痛だが、マゼールはそれを容赦なく晒した。その息づまる苦しさは、シベリウスで最後の発売となったCDに収録の初期作品「カレリア組曲」にさえ表われている。
 無邪気さを冷やかに見つめるもうひとりの自己。この複眼的視点のアイロニーが消えつつあるのが、ウィーンとミュンヘンに拠点を移し、三たびヨーロッパの伝統に身を置いた最近のマゼールだ。オーケストラの自発性に委ねる部分を増しているのは、自己閉塞的状況からの脱出が、私たちの未来に向けての、時代のテーマだからだ。時代の気分を先取りしてきたマゼールの次の変貌が期待されるのだ。




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コメント
 
 
 
もう一人のカメレオン (gkrsnama)
2020-03-29 12:37:07
クラシック音楽というのは、聴取体験と意味の大半を作る「音符」は既に固定されているわけです。で、あれだけ膨大な盤があるのは、演奏家ごとに音符に付加するものを聞き分けているともいえるわけですね。中で、マゼールとはいったい誰かというのがよく判りませんでした。盤ごとに印象が変わるからです。でも、彼がカメレオンならわかります。

が、カメレオン本家(マイルスディヴィス)が、時代に合わせて、手段から音からなにからなにまですべて変えて先頭を走り続けたのと比べれば、制約の中の変化にすぎず、その変貌はあまり大きな文化的意味は持たなかったのではないかと思います。

また加えて、一般の聴衆は、音符に付け加えた演奏家の差異分を抽出するという聞き方はしません。実はこれは音楽本来の在り方なのです。音楽とは音符+演奏の、ここでまさに鳴り効果を生んで消えていく音が全て。これはチェリが一生をかけて言っていたことです。実は、事情は録音だって同じです。(同じ盤を続けて聞いても受ける印象や感動はまったく変わります)

その意味で、ある曲についてマゼール盤が極上の愉悦を味あわせてくれるわけではないということも付け加えておきましょう。他人や過去の自分はどうでもいい、まさに今、自分の最上をつぎ込む、そういうやり方のほうがいいものができるよう思います。
 
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