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夢の電化生活とレコードプレーヤー

2009年01月21日 19時11分29秒 | エッセイ(邦楽&ポップス)




 先日、子供のころの思い出をちょっと書き始めてしまったせいか、5~6年前に『歌のない流行歌大全集(全6巻)』という1970年前後のアナログレコードで発売された「カラオケ」音源の復刻CDのライナーノートに、「青春プレイバック・エッセイ」と題して寄せた小文を思い出してしまいました。当時のままの懐かしい音源を使って選曲、構成し、「あの頃」がどんな時代だったか、私なりに書いたものです。クラシック音楽にしか興味のない方にはご迷惑でしょうが、私と同じで「音楽なら何でも…」という方なら、それなりに読んでいただけるでしょう。各CDごとに収録曲に引っ掛けて書きましたから、全部で6本あります。本日より毎日、1話ずつ掲載します。6日間だけ、お付き合いください。
 アッ! ついでながら、私のカラオケ・デビューは、1974年の秋ごろ、新宿、要通り、または末広通りにあったスナックで、曲目は『くちなしの花』。編集仕事の先輩に無理やり連れて行かれて、です。もちろん、マスターがレコードをかけるカラオケで、指先で器用にレコード針の針先を降ろして曲の頭出しをして、ちょっとつかえると数小節分を戻すなんていう名人芸を、この目で見ました!


■第1集「今夜はサイコー!居酒屋ムード」(収録曲)
1)ラブユー東京
2)愛して愛して愛しちゃったのよ
3)自動車ショー歌
4)ゆうべの秘密
5)恋の季節
6)小指の思い出
7)あなたならどうする
8)四つのお願い
9)いい湯だな
10)星のフラメンコ
11)笑ってゆるして
12)X+Y=LOVE
13)オー・チン・チン
14)どうにもとまらない
15)グッド・ナイト・ベイビー
16)ここがいいのよ
17)ふりむかないで
18)柳ヶ瀬ブルース

■夢の電化生活とレコードプレーヤー

 もうずいぶん昔のことになってしまったから忘れてしまった人も多いと思うが、昭和40年代(1965~74年)は、それ以前の昭和30年代とは対照的に、日本のあらゆる分野が急成長し、目に見えるように豊かになっていった時代だった。アメリカ製のホームドラマを見ながら指をくわえて憧れていた冷蔵庫や洗濯機などの電化生活は、ちょっと父親が奮発してくれれば、我が家にも実現したし、テレビやステレオの普及率も急速に高まっていった。それは、1964年の「東京オリンピック」に向けて、日本中が一丸となって推し進めてきたものが一気に花開いた結果だ、とオトナたちは自慢していた。
 音楽を取巻く環境にも、大きな変化があった。昭和33(1958)年には「音質が断然いい」というFM放送が開始され、ステレオレコードは第1回発売があったが、これらが一般の家庭で高嶺の花でなくなるのも、昭和40年代の10年間だった。昭和40年代も半ばを過ぎた私の学生時代には、級友の学生下宿にFM付きのラジオと、中古の白黒テレビくらいがあるのは、それほどめずらしくなかった。
 実は、クラシックやジャズの分野に数年遅れて、最後まで残っていたSPレコードでの流行歌の新譜製造が全廃されたのは昭和35(1960)年だったという。EPレコード(ドーナッツ盤)とLPレコードがかかる新式のプレーヤー(当時は「電蓄」と言った!)の普及状況からの決定だったのだろう。電蓄が昭和40年代には、もはや高嶺の花でなかったことは、昭和30年代の「電化三種の神器(=白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫)」に代って、この頃さかんに言われ始めた「新三種の神器」に選ばれていなかったことでもわかる。新しい三種の神器は「3C」と謳われ、それはカラーテレビ、クーラー、カー(自家用車)の頭文字「C」から生まれた言葉だった。
 そうなのだ。車は高嶺の花だった。まだお台場も幕張メッセも後楽園ドームもなかったあの時代、東京・晴海の「見本市会場」で行われた自動車ショーがなつかしいぼくらは、小林旭の歌で大ヒットした《自動車ショー歌》も、よく憶えている。車と女は、見ているだけでも楽しかった……、のである。東京オリンピックが行われた1964年のヒット曲だ。
 オリンピックの宴のあと、数年が経ち、晴れてサラリーマンになったぼくらニッポンの企業戦士は、だれも《ふりむかないで》豊かなニッポンをひた走り、もう《どうにもとまらない》という高度成長時代を生き抜いてきたのだった。




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