竹内貴久雄の部屋

文化史家、書籍編集者、盤歴60年のレコードCD収集家・音楽評論家の著作アーカイヴ。ときおり日々の雑感・収集余話を掲載

ロイヤル・バレエ『白鳥の湖』、最新公演が公開される

2022年07月15日 00時03分26秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

2022年5月19日にロンドンのコヴェントガーデンにある英国ロイヤル・オペラ・ハウスで演じられたばかりの英国ロイヤル・バレエ団公演の『白鳥の湖』が、本日、7月15日より21日までの1週間、東宝シネマ系の映画館で全国主要都市で公開される。(詳細は、下記)

http://tohotowa.co.jp/roh/

 先日、試写で鑑賞したが、説得力あるロイヤルバレエの演出舞台はさすがで、チャイコフスキーのシンフォニックな世界を堪能した。

 ロイヤルバレエも世界各地のバレエ団同様に、『白鳥の湖』は、プティパの原振付を継承しつつ、微妙に改作している。そうした中、バレエには素人ながら、私としてはかなり納得しているものが、ここ数年のロイヤルバレエ版だ。

 私の手元にある映像では、2012年のものと、2020年に高田茜が主演したものでは、大幅に異なっていて、2020年のリアム・スカーレットの改訂振付版が、私は、見事な出来栄えだと思っている。今回のものも、そのスカーレット版である。

 スカーレット版の一番の特徴は、第1幕王宮の場面から、王子とベンノとの会話を経て、第2幕の湖の場面までが、休みなく演じられることである。それによって、第1幕終結部の有名な「情景」の音楽が、自然に第2幕の湖の場面へとなだれ込んでいくのだ。昨年、吉田都新監督率いる新国立劇場が、ロイヤル・バレエの関係者との共同作業で『白鳥の湖』を上演したが、それは違っていた。従来の第1幕と第2幕が途切れる演出だった。

 先日、試写で鑑賞したものは、2020年収録のものとも、装置などが、より洗練されている方向に進化しているように感じたが、どうだろう。

 いずれにしても、群舞の仕上がりがすばらしかった。じつに見ごたえがある。

 

 

 主演はローレン・カスバートソンで、彼女のバレエ団在籍20周年を記念した特別なカーテンコールが行われた公演でもあった。(個人的には、私は、高田茜のオデットのほうが好きだが…)

 指揮者のガブリエル・ハイネという人の音楽づくりは見事だった。じつに息づかいのいい音楽である。聞くところによると、長年マリインスキー劇場の専属だったそうで、今回のプーチン政権のウクライナ侵攻でロシアを脱出する決意を固めたアメリカ出身の人だそうだ。バレエに引きずられ過ぎず、むしろ、バレエを引っ張っていくようなところのある、かなり「生きた音楽」を作り上げる指揮者である。

(付記)ここで言及している映像は、2012年は「wowwow」2020年は「NHK」で放映されたものを録画保存して鑑賞しているものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


METライブビューイング2021‐22『ランメルモールのルチア』は、壮絶な現代劇!

2022年07月03日 11時27分49秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 昨日、初日を鑑賞しました。来週の木曜日までの上映。それを逃すと、来年のwowwowでの放映まで待たなければならないので、メモ書きですが、急いで、ご紹介します。必見です。

 ルチア役が、この役で最近、大評判だというネイディーン・シエラ、相手役エドガルドが、連隊の娘で名唱を聴かせたハビエル・カマレナである。二人とも、とてつもない声量で聴かせるのだから、それは聴きごたえする。指揮はリッカルド・フリッツァ。この人は、まだよく知らないが、なかなか、勘どころをよく捉えた指揮で、みな、気持ちよさそうに歌っていた。

 サイモン・ストーンの演出には、度肝を抜かれた。完全な「現代劇」である。景気後退ですっかり寂びれ、荒廃したアメリカ中部の町が舞台である。日本風に言えば「シャッター通り」と化した、例えばデトロイトの町を思い起こせばよいというものである。ジーパン。ジージャン、スニーカーで皆がのし歩いているし、あちらこちらの店が「空き家」になり、スクラップのような車が転がっている。

 それが、さほど違和感がないのが不思議だが、そこが、古典オペラと、べリズモの違いなのだろう。それなりに、現代の問題としてとらえ返すことが可能なのだ。

いちど、だまされたつもりで、ご覧になるといい。

 上記ふたりの歌手も、なかなかに好調で、急遽マシュー・ローズの代役で出演となったというライモンド役のクリスチャン・ヴァン・ホーンもうまい。

 ルチアのシエラの熱唱も、この演出での血みどろの花嫁衣裳の凄みと相まって、かなりの迫力なのだが、一番肝心の「狂乱の場」は、どうしても疑問が残ってしまった。現在、これほどの声で歌い続け、歌い切れるルチア役はいないかもしれないと感心はするのだが、何か、足りない。

 家に帰ってから、私が信頼しているエヴェリーノ・ピドが指揮するチョーフィ・アラーニャ盤(これは、めずらしいフランス語バージョンなのだが)で、聴き直してみて、その理由がわかったような気がした。要するに、指揮者が歌手に合わせすぎているのだと思う。

 不思議なもので、音楽の緊迫感というものは、「なれ合い」のような中からは生まれない。やはり「ぶつかり合い」が必要なのだ。歌に引かれてオケが鳴るのではなく、互いに引っ張り合うのでなければ、緊迫感は生まれない。シエラが歌いやすいように指揮しているのが、裏目に出ているのだと思った。どこか、力任かせで一本調子に聴こえてしまうのは、オケとのせめぎ合いがないからだと思う。

 それが残念だった。(と、昨日は思った。)例によって、音盤派の私としては、来年、放映された後、繰り返し繰り返し聴き直して、結論付けたいと思っている。

とりあえず、それが残念ではあったが、第2幕は、すごかった。充実した音楽で、演出の狙いにも説得力があった。ぜひ、ご覧いただきたい。新しい「ルチア」の世界を堪能できる。

 

 


新演出の『リゴレット』が激突したメトロポリタンとコヴェントガーデン

2022年05月04日 21時53分28秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 3月の終わり頃にメトの2021‐22METライブビューイングの第5作で『リゴレット』を鑑賞したばかりだったが、先日は、ロイヤル・オペラの『リゴレット』を試写で鑑賞した。メトは上映が終わったが、こちらは東宝系で5月20日から公開である。

 これまで、ずいぶんたくさんの『リゴレット』を観てきたが、このオペラのデフォルメの激しく効いたざっくりした人物造形を、どう伝えるか、そして、人物の入れ替わりのわかり難い出入りを、どのような空間で表現するか、に、いつも関心を払ってきたように思う。これまでのところ、2001年のヴェローナでのライブ収録盤が、私は一番納得している。レオ・ヌッチのリゴレット、ジルダはインヴァ・ムーラ、指揮がヴィオッティ、演出はルボー。この、人物の出入りを俯瞰でみているような演出と、飾り気のない素直なドラマの進め方がいい。もっと活躍して欲しかった早逝が惜しまれるヴィオッティの細部まで見通した推進力のある音楽もいい。

 それに比較して、メトのバートレット・シャーの演出は、この重く、苦しく、残酷な内容を、すべてファンタジーにしてしまったものと言っていいかも知れない。見方を変えれば、『リゴレット』のデフォルメされた世界は、極めてシンプルなオペラ世界なのだと思ってしまうほどに割り切って、構成感の整った世界にしていた。ほんとに、これだけでいいのか? と、つい不安になる、奇妙な世界だったという印象が残っているのは、なぜだろう。

 そこへいくと、コヴェントガーデンのロイヤル・オペラの新演出は、じつに演劇的で美術的で、安定感のある迫り方だ。そうした方向性を冒頭の「彫像のように」静止した出演者たちのストップ・モーションからの開始が象徴的に示していたのかも知れない。今期から、このオペラハウスの芸術監督に就任したオリバー・三アーズの演出は、ドラマのリアルさをしっかりと伝えるもので、その残酷さから目をそらせないものだから、少々つらくもなるが、これが西欧人の感覚なんだろうとは思った。今まで見たどの演出よりも、焦点がピタリと合っているドラマの運びなので、音楽が耳に入ってこなくなってしまうところがあるのが難点、という皮肉な結果もところどころで現われるのだが,ドラマの流れがしっくりと伝わってくる。

 指揮のパッパーノは、確信に満ちたヴェルディ音楽の表現とはこういうものか、というほどに充実したもので、この人のヴェルディでも最良のものかも知れないと思った。ヴェルディの音楽の緩急のくっきりとした切り替えが、この指揮者の体質に合っているのだと思う。パッパーノは、プッチーニでは「?」なのだが、ヴェルディはいい。

 このところ、さまざまな仕事が錯綜しているので、まとまりが悪くて申し訳ないが、とりあえず、覚え書きとして。書いておくことにした。いずれ、もっと整理して考えてみたいと思っている。『リゴレット』は手ごわい。

 公開されたら、もう一度見に行こうかとも思っている。


METライブビューイングの「ナクソス島のアリアドネ」は必見! 永久保存版の傑作!?

2022年04月23日 08時32分20秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 昨日、東劇で、3月12日のニューヨーク・メトロポリタン歌劇場公演を収録したばかりの映像の上映を見てきました。リヒャルト・シュトラウスの『ナクソス島のアリアドネ』です。以下、いろいろ確認しなければいけないこともあるのですが、とりあえず、急ぎ、感想を書きます。上映期間は1週間、来週の木曜日までです。

 演出は、確か、昨年亡くなったモシンスキーのものとクレジットされていた。モシンスキーと言えば、『サムソンとデリラ』の見事な演出が思い出されるが、『ナクソス島のアリアドネ』は、90年代にメトで公演した時以来の演出だという。もう30年ほど前から評判の舞台だというが、放映されたことがあるのだろうか? 私は記憶がない。いずれにしても、最近のテクノロジーの大進化で、今年の版は改善されているに違いない。

 とにかく、見事な舞台である。このオペラの凝った台本が作り上げる世界観が、最高度に視覚化されたものだと思う。つまり、二重構造と言うか、入れ子構造と言うか、ドラマが中断されて、ちゃちゃを入れたり、転換させたり、といった立体的な変化が、極めてファンタジックに視覚化されているのだ。加えて、夢をみているようなカラフルさ。とにかく必見である。

 アリアドネ役のリーゼ・ダヴィッドセンが、また、いい。彼女はコロナでメトが一時閉鎖される前に、念願かなってメトデビューを果たしたのだが、その時の感動から途切れての再登場に、かなりの気持ちの高揚があったという。長いアリアを歌い切って、この大ホールの観衆の心をしっかりと捉えた拍手の嵐の中、じーっと客席を見渡している彼女の姿に、思わず感動してしまった。いい表情をしている。

 それはまた、指揮者のマレク・ヤノフスキにも言える。このドレスデン歌劇場で長く勤めていたベテランも、ずいぶん老齢になったが、世界最高峰と言っていいメトのオーケストラの充実した響きの手応えを一音一音確かめるように指揮をしていて満足そうだった。この人もまた、感無量といった表情で指揮を終えて、カーテンコールに応えていた。

 ツェルビネッタ役のブレンダ・レイの軽やかでコケティッシュな魅力も、歌もさることながら、衣装の色づかいが魅力的で、音楽のイメージにもよく合ったいるし、動作もいい。名演技だ。作曲者役で出ているイザベル・レナードも(この人、ズボン役はピカ一だ)きりりとしていい味を出している。

 全体に、役者をよくそろえたなァといった仕上がりだが、それが、音楽的なまとまりを醸しだしていることにもなっている、

 メトのライブビューイングは、年間10本を毎年(コロナ禍での影響を除く)供給しているが、そのなかで、「永久保存」と呼べるような「名公演」は、そんなにしょっちゅうあるわけではない。だが、これはまちがいなく、永遠に残る、そして、残すべき、名舞台の記録だと思った。

 


METライブビューイング2021-22の『ボリス・ゴドゥノフ』の凄さを堪能

2022年01月26日 13時45分25秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 メトも、もう「ライブビューイング」が始まっているのです。昨晩、慌てて東銀座の「東劇」に行きました。

 ご存じの方も多いと思いますが、『ボリス・ゴドゥノフ』は、かつては、いわゆる「改訂版」で上演されることが通常でした。録音された全曲盤も同様です。クリュイタンスのEMI盤も、カラヤンのデッカ盤ももちろん、そうです。

 近年、「1869年原典版」が見直されていますが、その先鞭をつけたのは、1993年録音のアバド盤でしょう。

 今期のメトは、この歌劇場では初めての「原典版上演」だそうです。

 じつは、私自身、原典版での鑑賞は初めてでした。いずれの機会に、過去のものと比較して、詳細に書かなくてはと思っていますが、まずは、手短に、感想を書きます。

 ご興味のある方は、とりあえずの上映は、明日までですので、急いでお出かけください。

 とにかく、度肝を抜かれるとは、このことだ、と思いました。

 まず、全篇7場から構成されるこの2時半のオペラには、休憩がありません。ぶっ通しです。これが、またすごい。一瞬も弛緩することのない緊張の連続で、ボリスが心理的に追い詰められていく音楽のすさまじさは圧倒的です。

 高い弦のトレモロと、低いピツィカートが多用されるのが、このオペラの音楽の特徴のひとつですが、それをメトのオーケストラの強靭なアンサンブルが奏で続けます。それを統率する指揮者セヴァスティアン・ヴァイグレの集中度は特筆もの。

 このオペラ、改訂稿や、さらに他人が加筆した稿と、どんどんスペクタル観が高まってしまったですね。

 本来、このオペラは、心理劇としての集中度が異常なほどに高い、正に「狂人の作品」だったのです。

 必見!

 

 ところで、『ボリス~』の上映は、明日で、ひとまず終わり、明後日からは、テレンス・ブランチャードというジャズ・ミュージシャンの書いた「オペラ」のメト初演だそうです。

 メトでは、アフリカ系黒人の作品の初めての上演なのだと、「多様性と公平性を誇る当劇場の英断」と総裁のピーター・ゲルブ氏が自画自賛していましたが、それはさておき、ほんの一部、予告で見た感じでは、とてもいい作品のようです。主役のエンジェル・ブルー(この人、ものすごく声の伸びがいいソプラノです)のアリアは、黒人霊歌の世界を思わせる清冽なもので、感動的でした。期待しています。

(付記)

昨日、この文章をupするとき、1日、間違えていましたので、訂正しました。

本日まで⇒明日まで

明日から⇒明後日から

です。メトの「ライブビューイング」は、毎回、金曜日スタート、木曜日が最終日でしたね。

 

 

 


「英国ロイヤル・オペラ・ハウス」シネマシーズン 2021/22が、まもなく始まるそうです!

2022年01月25日 17時41分37秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 

コロナ禍で、1年以上、空白がありましたが、「ロイヤルオペラ」のシネマシーズンが2月から再開されるという連絡がありました。冒頭の写真が、チラシのオモテ面です。

今年度は、バレエ、オペラ、ともにスタンダードな演目ばかり3本ずつの計6本と、ちょっと寂しいですが、仕方ありませんね。再開を喜ぶことが先決です。

 

2月18日~2月24日 バレエ『くるみ割り人形』

3月11日~3月17日 オペラ『トスカ』

4月8日~4月14日 バレエ『ロミオとジュリエット』

5月20日~5月26日 オペラ『リゴレット』

6月10日~6月16日 オペラ『椿姫』

7月15日~7月21日 バレエ『白鳥の湖』

 

上映館は、従来通りだと思います。下記です。

 

TOHOシネマズ 日本橋(東京)
イオンシネマ シアタス調布(東京)
TOHOシネマズ ららぽーと横浜(神奈川)
TOHOシネマズ 流山おおたかの森(千葉)
ミッドランドスクエアシネマ(愛知)
イオンシネマ 京都桂川(京都)
大阪ステーションシティシネマ(大阪)
TOHOシネマズ 西宮OS(兵庫)
サツゲキ(北海道)
フォーラム仙台(宮城)
中州大洋映画劇場(福岡)

 

 


METライブビューイング、1年半ぶり再開の全容がわかりました!

2021年10月12日 12時36分05秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 メトロポリタン歌劇場の「ライブビューイング」が、コロナ禍で中止となってもう1年以上になりますが、先日、「2021‐22」のラインナップ決定のご連絡をいただきましたので、ご報告します。

 昨年、3月14日に上演して収録した8本目の『さまよえるオランダ人』で会場が閉鎖となり、ライブビューイングは予定の9本目『トスカ』10本目『マリア・ストゥアルダ』を残して終了しましたが、この2本は、今期に繰り延べにはなりませんでした。たしか、日本では、上映が6本目の『ポーギーとベス』までで終わってしまったと記憶していますが、どうでしたでしょう。このブログにも書きましたが、楽しみにしていた『ポーギーとベス』を、感染者が増えていたので、家人に「こんな日に映画館なんかに行くのか!」と叱責されて断念したことを書きましたが、その後は、上映のご案内そのものが止まったと記憶しています。

 wowwowでの放映で、8作目まで、なんとか収録を終えていたことを知って、収録日程を見直し、3月までの公演収録がリミットだったのだと理解しました。「2019‐20」の収録分8本は、すべて放映が終了しましたが、映画館での再上映も、いずれ行われるでしょう。

 「2021‐22」シーズンの10作ラインナップは、下記にアクセスすれば、全貌がわかります。

 

https://www.shochiku.co.jp/met/

 

 一覧表は下記です。

 

 

 来年1月21日から、順次、上映です。8作目、「な~んだ、また『トゥーランドット』かァ」などと言ってはいけません。ついに、メトのゼフィレッリの舞台で、ネトレプコの『トゥーランドット』です。1作目のヴァイグレが振る『ボリス・ゴドゥノフ』はルネ・パーヴェ。ロラン・ペリーの演出舞台が楽しかったマスネ『シンデレラ』は絶世の美女イザベル・レナードです。モシンスキーの演出で定評の『ナクシス島のアリアドネ』をドレスデンのベテラン、マレク・ヤノフスキの指揮で聴くのも期待。フランス語版でのヴェルディ『ドン・カルロス』はネゼ=セガン指揮でマクヴィカーのたぶん手堅い(?)演出。オーストラリアの作曲家ブレッド・ディーンの意欲作『ハムレット』は、2017年、グラインドボーンでの世界初演がNHKで放映されていますが、今度はメトの巨大舞台。同じ演出家によるものですが、さて、メトではどうなるのか? と興味は尽きません。

 

 

 


メトロポリタン・オペラ/METライブビューイングの、2021年の〈悲しい〉? お知らせ

2020年12月05日 15時04分01秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

〈コロナのせい〉で、異常な状態が続いていますが、欧米は日本以上にたいへんな状態で、メトも、2020-21シーズンが完全中止となってしまいましたね。

来年の「ライブビューイング」が、人気演目6作品のアンコール上映という形で、なんとか次のシーズン再開までをつなぐことになったようです。題して「METライブビューイング プレミアム・コレクション2021」だそうです。昨日、松竹さんから、ニュース・リリースが入りましたので、ご案内します。

こういうときに選ばれる演目は、結局こうなる、というものかも知れませんが、ちょっと、月並みすぎて拍子抜けではあります。私としては、もう少し古いものも引っ張り出してくればいいのになァとも思いましたが、ネゼ=セガンが2本も入っているのは、新音楽監督だから当然と言えば当然ですが、うれしい限りです。

あッ。今、詳細を見ていて気付きましたが、「セヴィリア~」は2014年の上演ではなくて、やっぱり、フローレス、ディドナート組の2007年を引っ張り出してきましたね。

結局、演目人気+歌手人気、に落ち着いてしまうんですね。仕方ないか。

ところで、いつも1年遅れて「テレビ放映」している「WOWWOW」は、ことし、幸いなことにコロナ騒ぎのニューヨークで頑張って、3月までになんとか収録を終えられた「さまよえるオランダ人」まで、順次放送してくれるそうなので、楽しみです。

じつは、とっても観たかった「ポーギーとべス」の上映は、コロナ流行真っ盛りの中、出かけようとしたら、家人に「とんでもない!」と一喝されて不本意ながら断念していたものなので、なおさら、楽しみです。その後、上映館も休館となりましたが、「オランダ人」のライブビューイング撮影は完了していると聞いていたので、どうなるかと気を揉んでいました。

それにしても、いったい、いつまで「在宅鑑賞」の日々が続くのでしょう?

上演日程などは、添付画像をご覧ください。


英国ロイヤル・オペラ・ハウス/シネマシーズン2019/20『ドン・パスクワーレ』は必見!

2019年12月27日 12時58分26秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 今年の「英国ロイヤル・オペラ/シネマシーズン」の日本での上映日程はかなり立て込んでいる。1月中にオペラ、バレエ併せて4本、しばらく飛んで5月に4本、7月半ばから8月半ばまでの1か月間に4本といういう集中ぶりである。そのため、試写会も年内に既に3本あった。東宝東和の小屋の都合なのだろうが、今年はかなりあわただしいシーズンとなりそうだ。

 じつは、『ドン・パスクワーレ』の一週前に、今期の第1弾『ドン・ジョバンニ』も観ているのだが、それについては、後日に書く予定。上映が1月3日から9日なので、その前には済ませたいと思っている。

 『ドン・パスクワーレ』は、その翌日、10日から16日の上映が予定されている。順序が逆だが、つい先日観たばかりのこちらを先に取り上げる。キャスト、スタッフは以下のとおり。

 

ドン・パスクワーレ プリン・ターフェル

ノリーナ      オルガ・ペレチャッコ

エルネスト     イオアン・ホテア

マラテスタ     マルクス・ヴェルバ

 

指揮:エベリーノ・ピド

   コヴェントガーデン王立歌劇場管弦楽団・合唱団

演出:ダミアーノ・ミキエレット

 

 1980年代から、ドニゼッティ音楽の正統なサウンドの復権に取り組んできたエベリーノ・ピドの指揮だったので、最初から期待していたが、その期待通りのすばらしい公演だった。序曲における、流れるメロディとリズミカルに刻むメロディとの対比と加速度から、すでに、ドニゼッティ音楽の再現として完璧だと思った。細部まで内声部のメリハリが軽やかでくっきりしており、リズムの細かく正確なところなど、老いてますます確信にあふれた指揮ぶりを聴かせてくれた。

 じつは、私がピドのドニゼッティを聴いてすっかり耳を洗われたのは、1996年にリヨン歌劇場で行われた公演を収録した『愛の妙薬』(アラーニャとゲオルギュー)なのだが、そのあとで存在を知ったのが、1985年にイタリア放送が制作した世界初の映像版『ドン・パスクワーレ』である。指揮をしていたのが、若きエベリーノ・ピドで、オペラ映画仕立てのレーザー・ディスクだ。日本語字幕付きが「創美企画」から発売された。オケはシンフォニア・ヴァルソヴィア。こうして、まだろくに名前が知られていなかった若い頃から、ピドはドニゼッティ再評価の先陣を切っていたことを私が知ったのは、不覚にも、今世紀になってからのことだった。

 今回のコヴェントガーデンの舞台は、時代設定を変えた演出だが、おそらく1950年代あたりと思われる時代を生きた老人と、つい最近のデジタル機器に慣れ親しんだ若者との世代間ギャップのごときものが、シンプルでシンボリックな舞台に繰り広げられる説得力あるものだ。ピドの躍動感あふれる若々しい音楽が、老いてますます磨きがかかったピドのドニゼッティを聴かせる。10月24日の公演収録である。東京、神奈川、千葉、愛知、大阪、兵庫のTOHOシネマズ系で1月10日から16日までの上映だというが、これは、ぜひとも何度も鑑賞できる盤を制作発売してほしい名公演である。2006年のムーティ指揮によるラヴェンナ音楽祭DVDで観ている方なら、間違いなく耳が洗われるはずである。ムーティは、なんでもヴェルディにしてしまう。困った人である。



METライブビューイング2019-20 ネゼ=セガン指揮の『トゥーランドット』の斬新な響きの謎

2019年11月17日 16時16分27秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先日、今期の「METライブビューイング」幕開けの上映を東劇で鑑賞した。昨年から音楽監督に就任しているヤニック・ネゼ=セガンの指揮で、メトでの定番、ゼフィレッリ演出のプッチーニ『トゥーランドット』である。今期のキャスティングは、以下の通り。

 

トゥーランドット/クリスティーン・ガーキー

カラフ/ユシフ・エイヴァゾフ

リュ―/エレオノーラ・ブラット

ティムール/ジェイムス・モリス

 

 ネゼ=セガンの『トゥーランドット』は、極めて個性的なものだった。そのことについては、もっと何度もくり返して映像を鑑賞しなければならないと思っているが、とりあえず、ここで備忘録的に書いておこうと思う。

 まず何よりも強調しておきたいのは、ネゼ=セガンの意図は、このオペラでは、プッチーニが晩年に目論んでいた「イタリア・オペラ的響き」からの脱却の方向が、より一層進んでいたことを提示していることだ。プッチーニの『西部の娘』は、20世紀音楽の旗手アントン・ウェーベルンが、その響きの斬新さの萌芽に気づき、そのことをシェーンベルクに書簡で報告していると伝えられているが、それは、その数年後に書かれた『トゥーランドット』では、さらに進んでいるのだ。

 明らかに、ネゼ=セガンは、イタオペ的な響きを注意深く避けていた。ドイツ的な、重心の下がった響きと、センシティブな軽やかに抜ける響きを、巧みに振り分け、共存させていた。そのために、第1幕の途中まで、少々、オケが騒々しくもあって戸惑ったが、その意図らしきものに気づいてからは、私の耳はかなり順応してきて、やがて、しばしば拍節感が行方不明になるような感覚の、独特なフレージング処理が、とても新鮮に思えてきた。

 リュ―の死のあたりから幕切れまでは、特にそうだった。旋律の、数珠つなぎな感覚のため、幕切れの寸足らずな物足りなさがなかった。例の、プッチーニの急死により、残されたスケッチ、メモなどを頼りに、アルファーノがオーケストレーションを完成させた部分である。

 じつは、この補完部分は、あまり話題にする人はいないが、初演を指揮したトスカニーニが、「くどすぎる」と嫌悪して、かなり削除してしまった形で上演され、トスカニーニの持ち前の頑固さで、「それが正しい」と主張し続けてリコルディ社が出版したため、今日のほとんど(いや、おそらく、ほぼすべて)の公演は、そのトスカニーニ短縮版で行われている。数年前に「ベリオ補完版」の公演が行われてDVDも発売されたが、これは、補完というよりも創作に寄っていて、わたしは疑問がある。

 冒頭、「なんどもくり返し鑑賞しなければ」と書いたのは、この微妙な違いを確認するのは容易ではないからだし、今期のネゼ=セガンの『トゥーランドット』の印象が、私の言う「いつもの寸足らずな感じ」がないのは、ひょっとすると、この「アルファーノ補完版」でトスカニーニが破棄した部分を、元に戻しているのかも? と一瞬思ったからなのだ。

 アルファーノ補完版を、一切の省略なしのフル・バージョンで聴くことができるCDが、私の知る限りでは、1つだけある。

 英DECCAが1990年に発売したもので、イギリスのソプラノ歌手ジョセフィン・バーストゥのリサイタル盤である。ジョン・モウセリ指揮スコティッシュ・オペラ管弦楽団との共演だが、その最後に収められた『トゥーランドット』フィナーレには、なんと、合唱団、テノール歌手まで加わり、「First recording of complete Alfano ending」と明記されている。

  このCDを数年前に聴いた時の印象に極めて近いものを、この日、ネゼ=セガンで鑑賞した際に感じたのである。

 私の印象では、とても、オーケストラ・ドライブだけで、あのフィナーレの聴きごたえは実現しないのではないか、と思ったということである。以前、マゼールがエヴァ・マルトンで残したウイーン国立歌劇場の公演を、このバーストゥ盤と数秒ごとに止めながら聴き比べてみたことがあるが、それを、ネゼ=セガンの公演が来年WOWWOWで放送されたら、録画して挑戦するしかあるまい。

 何はともあれ、今期の『トゥーランドット』は必見である。このオペラの世界観に、新たな視点を提供してくれた。

 

 

 

 


METライブビューイング2018‐19『ワルキューレ』は、フィリップ・ジョルダンの導き出すワーグナー・サウンドが新鮮

2019年05月15日 11時30分40秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 先日、鑑賞したばかりの今年のメトの『ワルキューレ』について、覚え書き程度だが、少々書いておこう。

 3月30日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場収録である。2011年の初演ですっかり話題になった「巨大マシーン」を駆使するロベール・パサージュによる演出版。今期は『ワルキューレ』のみの上演だ。

 スタッフ、キャストは以下の通り。

 

指揮:フィリップ・ジョルダン

演出:ロベール・パサージュ

 

ジークムント:スチュアート・スケルトン(テノール)

ジークリンデ:エヴァ=マリア・ウエストブルック(ソプラノ)

ブリュンヒルデ:クリスティーン・ガーキー(ソプラノ)

ヴォータン:グリア・グリムスリー(バスバリトン)

フンディング:ギュンター・グロイスベック(バス)

 

 このブログでは、昨年12月19日に、コヴェントガーデンにおけるロイヤル・オペラの『ワルキューレ』について書いている。パッパーノ指揮の今期公演だ。そちらも合わせてお読みいただくと、私の『ワルキューレ』観が、おわかりいただけると思うが、私としては、今回のメトでのジョルダンの作り上げたワーグナー・サウンドのライトな感覚がなぜか気に入ってしまった。

 それは、ロイヤル・オペラと同じくジークムントを歌ったスチュアート・スケルトンが、ロイヤルでは他の歌手と比較して少々力不足のように聞こえていたのが、メトでは水を得た魚のようにみずみずしい魅力をたたえて歌い切っていることに象徴されるように思う。ジョルダンが紡ぎ出すクリアでヌケが良く、そして暖かでもある第1幕。やわらかく揺れる音楽は、親し気な眼差しで春の暖かさを思わせ、ジークムントとジークリンデの兄妹が、まるでフンパーディンクの『ヘンゼルとグレーテル』を思い出させるように夢みる幸せな兄妹のように感じられたのだ。これは決して突飛な連想ではない。

 その音楽が、幕を追うごとに巨大化し、春の暖かさから厳冬へと推移して行くのは、正に壮観だった。ジョルダンの音楽は、底力のある音から、芽のよく摘まれたキメの細かな音色までじつに多彩であり、表現の幅が大きい。それに応え得たオーケストラの技量にも改めて感心した。

 ロイヤル・オペラでのニーナ・ステンメのブリュンヒルデには圧倒されたのだが、メトのガーキーもなかなかの歌い手。フンディング役のグロイスベックも、ワーグナー歌手としての今後が、ますます期待できる。室内オペラ的な対話劇・心理劇として、ヴォータンとフリッカのやり取りでの歌唱も秀逸。

 もうひとつ、書き加えることがあるとするなら、その対話劇を理解する上で欠かせない「字幕」の翻訳のわかりやすさだ。このところ、メトでのドイツ物は岩下久美子氏の訳なのだが、その見事さには、いつも感動している。以前の字幕からではどうにも理解できなかった様々なことが、いつも、ストンと腑に落ちる。学生時代から始まり、私が務めていた出版社を退社してしばらくは、夫君の岩下眞好氏ともども、友人として長いお付き合いだった。2年ほど前だったか、岩下氏の葬儀で10数年ぶりにお会いし、それきりになったままだが、相変わらずよい仕事を続けていると思い、また、その字幕によって新たに気づかされることの多さに感謝している。

 少々プライベートな話に脱線してしまったが、今期のメトの『ワルキューレ』は、またひとつ、あたらしい世界の誕生を感じさせた。

 


ライブビューイング2018‐19の『連隊の娘』は、この作品の決定版。

2019年04月17日 15時02分54秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 ドニゼッティ『連隊の娘』を、今年のメトロポリタン歌劇場ライブビューイングで、先日鑑賞した。これは期待以上の仕上がりで、じつに幸福な気分になって帰宅した。

 

3月2日の公演を収録したもので、スタッフ、キャストは以下のとおり。

 

演出:ロラン・ペリー

指揮:エンリケ・マッツォーラ

マリー:プレティ・イェンデ(ソプラノ)

トニオ:ハヴィエル・カマレナ(テノール)

シュルピス:マウリッツィオ・ムラーロ(バスバリトン) ほか

 

 とにかく、こんなに愉快で楽しく、観終えてからしばらく、幸福な気分に浸れる『連隊の娘』は初めてだ。もともと、この作品は、セリフ交じりのコミック・オペラ的なフランス語劇だから、演出的に遊びの要素が入り込みやすいものではあるのだが、今回のロラン・ペリー演出は、さらに傑出した楽しさだった。

 ロラン・ペリーは、グラインドボーンでの『ヘンゼルとグレーテル』も、リヨンの『天国と地獄』も楽しかったが、どれにも共通しているのは、その子供のような屈託のなさだろう。マンガチックと言ってもいいような滑稽でポップな舞台は、この荒唐無稽で誇張に満ちた不思議なストーリーに、とてもよく似合っている。思えば、かのゼフィレッリが舞台美術を担当した2003年のスカラ座公演の映像でも、そのポップな舞台が現れていたのを思い出す。あのようなことが可能な作品なのだ。

 そして今回のMETライブビューイングは、指揮のマッツォーラが作り上げる音楽の流れが、また、じつに素晴らしい。のびやかなオーケストラの響きに導かれたマリー、トニオ、シュルピスの生き生きとして弾む歌声、舞台中を駆け回り飛び上がって歌う彼らの動きが、舞台のポップなイメージにとてもよく馴染んでいた。

 だが、何より私が感動したのは、先日(3月13日付の当ブログ)の『カルメン』で感じたパッチワーク的な継ぎはぎ感とは正反対の、ドニゼッティが目論んだ音楽的展開が見事に達成されていることだった。荒唐無稽なストーリー展開のすべてが、ひとつながりの音楽劇として、音楽的展開の中で完結しているのだ。だから、セリフ場面でも、決して音楽的な断絶がない。

 それを実現したマッツォーラの指揮の力量には、ほんとうに舌を巻いた。だからこそ、歌手たちが、あれほどに生き生きと弾んでいるのだ。彼らが、安心し切って歌っているのが、よく伝わってきた。歌だけでなく、ィェンデも、カマレナも、ムローラも、じつに達者な役者ぶりでもあった。私は、今回の公演映像を『連隊の娘』鑑賞での一押しとすることに、ためらいはない。1986年のサザーランド以来、30年を経て、ついに現れた決定版だと思う。

 

 

 

 

 

 

 


カラブチェフスキー指揮フェニーチェ歌劇場の2001年東京公演『椿姫』の革新性は、当時、理解されなかった? 最近のヴェルディ演奏は脱トスカニーニ?

2019年04月06日 21時58分53秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

 「ロイヤル・オペラ」での2019年の『椿姫』について書き終えたこの欄を読み返して、この日の印象によく似た映像があったような気がしてコレクション棚をじっと眺めて思い出したソフトがあった。2001年のフェニーチェ歌劇場の日本公演の記録映像である。「BUNKAMURA」での6月30日の収録で、パイオニアLDCから、DVDで発売されている。

 指揮は当時音楽監督だったカラブチェフスキー、ヴィオレッタをテオドシュウが歌っている。このDVDを観た際の感想を記した私のメモが解説書の裏に貼ってあった。まったくのメモ書きなのだが、今回のロイヤル・オペラの感想とそっくりなので我ながら驚いた。下記にそのまま転記する。

 

・音楽に芯がある

・恰幅のいい朗々と鳴る音楽

・流れがいい

・三人がしっかり組み合った充実した音楽が豊かで、彫りの深い表情の歌唱。

・近年のヴェルディ再考のさきがけ

 

 このメモ書きにある「近年」は、私が2、3年前からオペラを丁寧に聞き直し始めているので、その頃、マゼール盤と比較したくて聴いた際のことだと思う。

 いずれにしても、このDVDの仕上がりは、改めて観てみたが、確かに出色のものである。高く評価する人がほとんどいないようだが、もっと知られていいものだと思いながら、何気なく、初めてライナー・ノートの黒田恭一氏の解説を読んで、合点がいった。

 黒田氏のような旧世代の評者の理解を越えたスタイルで、斬新な『椿姫』が繰り広げられていたということだったのだ。多くのファンが、その言辞に惑わされてしまったということだと言ってしまっていいと思う。黒田氏の解説を引用しよう。

「カラブチェフスキーが指揮してきかせてくれる第1幕への前奏曲をきいて、びっくりなさる方は多いに違いない。トスカニーニ以降、といっていいと思うが、ヴェルディの音楽は、総じて速めのテンポで演奏されることが多い。」

 ここまで読んだ時、私は、マゼールの2種ある映像、つい先日のネゼ=セガンのテンポなどを思い出して、そちらの方向に話が行くものと思った。だから、この後の黒田氏の論の展開に、あぜんとした。

 「しかし、カラブチェフスキーは、あたかも時代が逆行したかと思われるような、ゆったりしたテンポで前奏曲を演奏している。近年、ほとんどどこでも耳にすることのなくなった、この先を急がず、思い切り甘美な旋律をうたわせた前奏曲の演奏は、古き佳き時代の、いわば伝統的なオペラを彷彿とさせるものである。」

 この黒田氏の、私から見れば「途方もない勘違い」は、さらにエスカレートしていく。

「旋律的な美しさをきわだたせようとするカラブチェフスキーの方法が前奏曲だけでとどまるはずもなく、全曲が叙情的な視点でとらえられて進展していく。このようなカラブチェフスキーの、いくぶん保守的といえなくもない流儀によった表現が、近年の、劇的な起伏をたっとんだ演奏になれた耳には平板に感じられたとしても不思議はなかった。」

 散々な物言いである。私が、「革新的」と捉え、その後、現在のスタイルへと移り変わってきたさきがけがカラブチェフスキーであるという見方と真逆である。もっと早くに、この記述に気づいていれば、生前の黒田氏とどこかで論争が出来たのに、と、感慨深いものがあった。

 もう半世紀以上も、さまざまな演奏を比較検討してきている私が、最近、ますます確信していることに、「偉大な作曲者は、いつも時代の数歩先を行き、優れた演奏者が50年ほど遅れてその作品の秘密に気づき、鑑賞者は、さらに50年遅れてその演奏の価値に気づくのではないか」というのがある。文化史でも言えることだが、「50年」は、世代が入れ替わる目安なのだ。その意味では、トスカニーニの影響は長すぎた、ということかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 


英国ロイヤル・オペラ・2019年「椿姫」の圧倒的な説得力

2019年04月05日 09時30分10秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

本日、4月5日から全国のTOHOシネマズ系で公開される『椿姫』は、歌手、指揮、演出がしっかりと組みあって、圧倒的な説得力で迫ってくる舞台を見せてくれた。先日、ネゼ=セガン/メトロポリタン歌劇場の新演出でライブ・ビューイングの『椿姫』を鑑賞したばかりだったが、今年は『椿姫』の当たり年である。スタッフ、キャストは以下のとおり。

 

演出:リチャード・エア

指揮:アントネッロ・マナコルダ

 

ヴィオレッタ:エルモネラ・ヤオ

アルフレード:チャールズ・カステロノボ

ジョルジュ・ジェロモン:プラシド・ドミンゴ

 

2019年1月30日公演の収録である。

 

ヤオのヴィオレッタは定評があるものと聞いていたが、これほどとは思わなかった。名演技・名唱で、途方もなく存在感・説得力がある。リチャード・エアの演出は、例の有名なショルティが、このコヴェントガーデン(ロイヤル・オペラ)で収録した公演以来のもので、もう25年間も続いている演出版である。その寸分違わぬ舞台を、ショルティの指揮で歌うアンジェラ・ゲオルギュウと思わずニ重写しにして鑑賞してしまった。

 私は、このゲオルギュウは、少々小うるさく聞こえて、決して好きではない。彼女の良さが、声、しぐさ共にぴたりとハマっているのは『愛の妙薬』だと思っている。あれはいい。

 話題が、それてしまった。「椿姫」に戻そう。「椿姫」では、指揮のマナコルダ。これが、またいい。この指揮者、亡きアバドのマーラー・チェンバー・オーケストラ創設の協力者にしてコンサート・マスターだったというヴァイオリニストで、最近では、メンデルスゾーン『交響曲全集』の録音を完成したというが、これほど音楽がよく流れて、オーケストラを自在に歌わせられる指揮者だとは知らなかった。太いラインのタフな音楽に、細心の注意を払ってからみつく旋律を巧みに操る名人である。心理の変化・転換点に、とても敏感に反応する指揮ぶりには驚いた。ヴェルディの音楽のせわしない変わり目、入れ替わりが、見事に一息の大きな波となって、豊かに弧を描くのを聴いていると、自然にドラマの中に沈み込んで行くから不思議だ。じつにタフな音楽であり、これが、トスカニーニ以来の「せっかちなヴェルディ像」を豊かな地平へと広げ始めた最近のヴェルディ演奏の一つだと思った。

 やはり、ヴェルディは、先日も書いたように、音楽監督パッパーノが振らないほうがいい?

 アルフレードを歌ったカストロノボも、よく伸びる声で応えていてよかった。キャラクターも合っていると思う。だが、出色は父親ジェロモン役で登場したドミンゴの風情だ。ヴィオレッタを説得する場面も、謝罪する終幕も、私は、これほどに説得力のある父親像を聴いたことがなかった。さすが、年の功である。ドミンゴが、低くなった声に合わせてレパートリーを増やしてでも、いつまでも歌い続けられる幸せを感じていると最近言っていたことが、彼の本心から出た言葉なのだと、改めて素直に感動した。

 今年のロイヤル・オペラ『椿姫』は、歴史あるリチャード・エア版『椿姫』の決定版となるものと信じている。

 

 


英国ロイヤル・オペラ・ハウス『スペードの女王』で納得できる、チャイコフスキー音楽集大成の凄み

2019年03月18日 10時45分20秒 | オペラ(歌劇)をめぐって

先週、15日から、全国のTOHOシネマズ系で上映している2018/19シネマシーズンの作品を観てきました。ご報告が遅くなりましたが、これも見ごたえのある公演の映像でした。別のところでも書きましたが、やっぱりパッパーノはイタリア物やフランス物よりも、重厚なドイツ物、そしてロシア物のほうが、サウンドのまとめ方や音楽の鳴らし方が合っているように思いました。

 そういえば、パッパーノがEMIに録音した聖チェチリア音楽院管とのチャイコフスキーの後期3大交響曲も、思い切りのいい秀演でした。

 『スペードの女王』のスタッフ・キャストは以下の通り。当初の予定のゲルマン役アントネンコが急病で降板というアクシデントでの公演でした。

 

演出:ステファン・ヘアハイム

指揮:アントニオ・パッパーノ

ゲルマン:セルゲイ・ポリャコフ

エレツキー公爵:ウラディミール・ストヤノフ

エヴァ・マリア・ウエストブロック

伯爵夫人:フェリシティ・パーマー

 

 まずは、評価が高かったと聞くヘアハイムの演出。これに舌を巻いた。じつに納得の行く方向である。舞台上にチャイコフスキーが登場し、最後まで、舞台の他の人物たちにまとわりついてドラマが進む。ヘアハイムによれば、音楽誕生のきっかけとなる着想から解き明かし、作曲の過程を重視して具体化した結果だという。こうして、このオペラ世界のすべてが、作曲家の妄想の中にある、とする舞台が実現した。

 これは、オペラと呼ぶにはあまりにもシンフォニックで巨大なこの『スペードの女王』という音響世界を舞台に乗せる最良の方法かも知れない。例えば、ベルリオーズの『ファウストの劫罰』もそうだ。「歌劇場」という物理的空間からはみ出してしまう世界を、どう表現するかは、最近、安易にCGで広げているものが多いが、そんな簡単なものではない。

 肝心の「音楽」だが、パッパーノが、この壮大な音楽、チャイコフスキーが自身の音楽の集大成を目論んでいたのではなかったかと私が思っていた『スペードの女王』の音響世界を、文字通り劇的でシンフォニックな音楽にまとめ上げていた。細部に聞こえる音楽の断片、ちりばめられた音楽の波動のコラージュが巨大な音響へと展開して行ったとき、不思議なノスタルジーを感じて、思わず感動してしまった。やはり、この音楽は、ドラマチック音楽の天才チャイコフスキーが心血を注いだ集大成のひとつなのだ。

 惜しむらくは、ゲルマン役の声量が今いちで突き抜けないことだったが、全体としては好演。先月だったか先々月だったかにNHKーBSで放映した『スペードの女王』でイライラさせられていただけに、改めて、演劇の国イギリスのオペラの底力を満喫した。