怪しい中年だったテニスクラブ

いつも半分酔っ払っていながらテニスをするという不健康なテニスクラブの活動日誌

本郷和人「壬申の乱と関ケ原の戦い」

2022-01-29 22:53:11 | 
壬申の乱と青野ヶ原の戦い、関ケ原の戦いは、いずれも歴史の画期となった戦いです。

このうち青野ヶ原の戦いは初めて聞く人も多いのでしょうけど、南北朝の争乱時に京都を目指す北畠顕家率いる東北勢が北朝軍と青野ヶ原で激突した戦いです。私は北方謙三の「破軍の星」を読んで北畠顕家と言う名前を初めて知りました。騎馬隊を中心に疾風怒濤の勢いで東北勢を率いて京都を目指し青野ヶ原で激突。足利尊氏の心胆を凍えさせたのだが、多勢の足利軍を撃破していくも上洛は果たせず伊勢に転進。戦場の青野ヶ原と言う場所はまさに関ヶ原と思われるのだが、一般的には畠山顕家も青野ヶ原の戦いもほとんど知られていないのでは。それが証拠にこの本の題名も「壬申の乱と関ケ原の戦い」になっています。しかし、この戦いは南北朝の争乱の帰趨を実質的に決定した戦いと言うことでは、天下分け目の戦いだったようです。
そう考えると壬申の乱も青野ヶ原の戦いも関ケ原の戦いもi行き詰っていた旧政権を打ち破って新しい日本の統治機構をもたらした画期となるものでした。
そこには外交関係が色濃く反映されていて、壬申の乱は白村江の大敗後の唐、新羅との敵対関係を転換して内政重視で日本と言う国をあり方を確立した転機だったし、青野ヶ原の戦いは元寇後の不満がもたらした鎌倉幕府の滅亡と後醍醐天皇親政から武家政権への転換を決定づけたし、関ケ原の戦いも秀吉の朝鮮出兵の失敗の清算と言う側面があり、豊臣政権の没落を決定づけた。
江戸時代前は、政権は比較的に豊かな西国の中心である奈良京都の畿内にあり富を独占していた。東国は文化果てる野蛮人の国と思われていて、政権が行き詰った時に富の再配分を求めて中央政府に挑んでいく。形としては中国で北方異民族が万里の長城を突破して、中国の歴代王朝を侵略していくようなものか。
日本を二分する東西両軍が決戦する場所としては、都を守る立場としては中山道が狭くなり天満山と松尾山に挟まれた関ケ原が防衛ラインとしては最適。ここを突破されたら最終防衛ラインは瀬田の唐橋ぐらいだけどここを防衛しきって西軍が盛り返したことはない。
壬申の乱では関ケ原が主戦場にはなっていないけど大海人皇子側がいち早く不破の関(関が原)を押さえて本営として東国の兵と武器、物資を徴発したことが勝利をもたらした。近江朝廷側は瀬田橋が最終防衛ラインでしたがここで敗れて大津宮は攻略されます。
天武天皇は即位後不破・鈴鹿・愛発に関所を置いたのですが、そこから東は関東とされた。当時は関東が広大な地域だったのですが、徐々に東へ勢力範囲を広げていき関東の範囲も縮小していった。
関ケ原の戦いについてはよく知られているのですが、本郷先生は中世史が専門ですので詳しく解説してあります。他の本でも読んだことがあるのですが、説得力があります。
因みに、戦いの戦力としてよく東軍何万、西軍何万とか書いてありますが、時代の人口と生産力を考え割り引いてみなければいけないそうです。関ケ原の戦いの兵力は太閤検地によってある程度の領地における人口と生産力が分かっていたので、それなりの信ぴょう性があるようです。しかし、源平合戦時代には日本の人口はどれくらいかを考えると平家物語に出てくるような何万の軍勢はあり得ない、せいぜい何千人単位か。壬申の乱のときにはさらに一桁小さい何百人単位の戦いだったのだろう。とかく軍記物語は話を盛り上げるために軍勢の数は大幅に盛っているんでしょう。
これも他の本でも書いているのですが、戦いの勝敗の判断基準はとして基本的ですが、
1;誰と誰が戦うのか
2;攻撃するのはどちらか
3;攻撃する側は何のために戦争を起こし、何を目指しているのか
を考えたうえで、攻撃する側の目的が達成されたのかどうかが勝敗の分かれ目。
ここから考えると川中島の戦いは北信濃4郡を奪還できなかった上杉側の負け。応仁の乱は、山名氏の西軍は室町幕府の実権を奪取できず細川氏の権力を強固にしたので、細川氏の勝利だと。
他の本と被っているところはあるにしろ、分かりやすい文章で書かれていて、面白い視点で日本と言う国の在り様も考える一助になって、面白く読める本でした。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 年賀状でお年玉切手 | トップ | 1月30日鶴舞公園テニスコート »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事